選挙権売買と「選ぶことを選ぶ」自由


 ひょんなことで知った山形浩生氏の十年以上前のテクストが、素晴らしすぎます。

今の民主主義なんて、くだらないと思いませんか。だれもちゃんと、民主主義のあるべき姿なんか考えてないと思う。カンボジアくんだりにでかけてって、原住民に形式的に選挙させて喜んでる連中なんて脳が腐ってると思う。小学校の学級会の水準から一歩も進んでないと思う。だって一人一票とかいうけれど、あのバカの一票と、このおれの一票が同じ価値なわきゃないんだから。そう思ったことのない人間は、そもそも物を考えたことのないバカか、でなきゃよほどの聖人だ。(「市場制民主主義――選挙権を売ろう!」)

民主主義は、今の日本人、いやそれどころか世界の先進・中進国すべての人間たちの政治思考を冒している疫病のようなものだ。みんな、一人一票の学級会民主主義だけが唯一無二の理想的政治形態だと信じ込んで、何の疑問もいだいていない。民主主義こそが正しくて、民主主義からはずれているものはすべてまちがっていて、まちがっていればそれは民主主義のせいじゃなくて、正しい民主主義からはずれたためだ、とする連中はどこにでもいる。(「反民主主義はおかしく、そして居心地悪い」)

 さらに山形氏は、選挙権売買の合法化という提言をされています。

もちろん、今すぐに普通選挙を廃止することはできない。(・・・)必要なのは、考えの浅い人たちが自主的に選挙権を譲り渡すシステムだ。しかも最小限の変更で。選挙権の売買を合法化するのだ。

みんなが本当に己の利害に直結した問題として政治を見つめる。民主主義って、こういうのがあって初めて成立するんじゃないの?

 ラディカルです。

 ここで批判されている「民主主義」とは、「パンとサーカス」的見世物に堕したものであり1、ただ「選んでいる感」を提供する、もっと言ってしまえば「あなたは確かに選びましたよね、だから結果に文句もないですよね」「あなたの自由はそこで行使されたのですから、もう自由はないですよ」という言質を取るためだけのシステムです。これが「選択の自由」なる代物です。
 こうした「ピザのトッピングを選ぶ自由」に飼いならされてしまった人々には、「選挙権売買の自由」はまぶしすぎて直視できないことでしょう。

 しかし、もう少し考えてみると、「選挙権売買合法化」が突きつけるのは単なる「自由」ではないことがわかります。
 「選んでいる感」の提供と言っても、現代日本で暮らしていれば、余程アルツな方でなければ、選挙で「選んでいる感」など味わっていないはずです。そこには演出としての自由すらありません。
 一方、「選挙権売買合法化」が仮に実現したとしても、「売る売らない」が本当に自由になるわけではありません。状況やしがらみで「売らざるを得ない」「売るに売れない」人も出てくるでしょう。ここで示されているのが「売る/売らない」の自由だとしたら、参政権という「自由」を一段メタ化しただけです。そうではなく、「選ぶことを選ぶ」営みです。
 「それこそメタ化ではないか」という批判が聞こえてくるようです。ですが、「選挙権売買合法化」を通じて山形氏が暴こうとしているのは、どっちに転んでもわたしたちは何も選べていない、ということです2。ものすごい大局から考えるなら、そもそも自由意志なるもの自体、因果の連鎖の中に生じた一抹の夢にしかすぎないのですから。
 それでもわたしたちは、自由というものを想定することができるし、「選んだ」と言える時があります。例えラプラスの悪魔や幼少期の心的外傷やご先祖様の呪いがすべてを決定しているのだとしても、わたしたちは常に、自由について考えることができるし、「それはわたしが決めました」と(不用意にも)口を滑らせてしまいます。
 つまり、わたしたちは実質上常に何も選べていないのですが、選んでもいないものを「選んだ」と言うことはできる、つい言ってしまうのです。選ぶことはできないが、不合理にも「選んだ」と言い切り、自由でもないくせに「自由だ」と断言することはできる。それが「選ぶことを選ぶ」ということです。

 実際に選挙権売買が合法化されたとしても、いずれ市場が一定の平衡に達し、売買そのものが何ら緊張感のない、今日の投票行為に等しいものになる日が来るでしょう。ですから、「選挙権売買合法化」は、ここで山形氏の口を突いて出た、その< 飛び出し>感、ラディカルさの中でののみ真正であり得ます。

この方式にはもう一つメリットがある。人権を必要としてない人たちが、それを売り渡す道を開くということだ。参政権なんかなくていいや、と思っている人は無数にいる。一部の人々を見ていると、この人たちは奴隷だったほうがずっと幸福なんじゃないか、と思う。この市場制民主主義は、実質的な不平等と階級制の復活なのだが、ぼくはそれが悪いことだとは思っていない。世襲さえ禁止すれば、案外そのほうがみんなシヤワセに暮らせるんじゃないか。

 「人権を売り渡す」とは、伝統的な社会権の議論の中では、最も「とんでもない」発言です。なぜなら、人権概念とは「それだけは売り渡せないもの」を遡及的に回復する営みの中で形成されてきたものだからです。
 わたしたちは様々なモノを所有しますし、所有しているものを処分することもできます。所有物の処分が安心して行えるのは、所有する主体が「それだけは交換されないもの」として固定されているからです。
 所有の主体は、別段確固たるものではありません。かつて臣民は王のものであり、人身売買もつい最近まで行われ、現代でも類似の行為は残っています。
 本当のことを言えば、所有主体も常に「誰かのもの」です。この件は別途エントリを立てますが、かつて王や神のものであった< わたし>を、パンとサーカス的「選ぶ」主体へとバインドし、自己責任の美名に帰するシステムこそ、人権と呼ばれる近代のファンタジーです。
 ですから、「人権を売り渡す」ことはわたしたちの社会の基本的フレームを揺さぶる行為であり、人間を肉の塊に変えてしまいかねない「危険発言」です。もちろん、人間は肉の塊なのですが、それは一人一個の人格を実装し、等しく一票の権利を備えた「主体」であってくれないと困るのです3
 「人権」の措定が、正しく「回復」の営みとして機能していた時代もあったのでしょう。しかし、疎外が本質的に回復される、などという事態は人が人である限りあり得ず、「回復」はただ運動としてのみ在るもので、常態化すれば通奏低音的な疎外の制度として逆襲化するものです。今や「人権」こそが簒奪者である、という指摘が封殺されているのは、要するに「人権」に巣食っている「リベラルな権力」こそが無名の搾取者だからです。

そもそもぼくは権利という考え方自体が変だと思っている。人は、権利があるから何かするわけじゃない。権利があったって、それができるわけじゃない。そうする物理的・財政的・その他的な能力があって、はじめて権利は意味を持つ。だったら、あるのは権利じゃない。人間が実際に持っているのは、能力と必要性だけなのだ。

 山形氏がファッショという言葉にどのような感慨を抱くものなのか存じ上げませんが、「サイボーグ・ファシズム」で試みたいのはこのような< 飛び出し>です。

 権利は要らない。わたしの自由は、メニューを差し出すお前の腕を切り落とすことだ。

『新教養主義宣言 (河出文庫 や 20-1)』 山形浩生 『新教養主義宣言』 山形浩生

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  1. 「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」参照。 []
  2. もちろん他人の書いたものなので全然違う意図かもしれませんが、敢えて断言しておきます。 []
  3. 「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」参照 []

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