音読と黙読、「内面」と読誦


 黙読と音読、そして「内面」について、ハッとさせられることがありました。きっかけはマイケル・クック『コーラン』の次の一節です。

(クルアーンが詠唱されることについて)他の宗教と比較すると、これはまったく珍しいことではないと分かる。ヘブライ語聖書やヴェーダも詠唱される。ブッダは弟子に、ヴェーダのような様式で聖典を詠唱しないようにと言ったが、それでも彼らは詠唱している。実際のところ、自分の正典的テクストを詠唱しないプロテスタントのキリスト教の方が、風変わりなのだと考えるべきだろう。

 シャリーア(イスラーム法)的には「クルアーンの読誦は善、音楽は悪」らしいですが、詠唱は明白に「音楽的」です。つまり、

黙読 < 音読 < 詠唱 < 歌 < 音楽

 というラインが考えられます。
 わたしたちは「読む」というとまず「黙読」ですし、小学校か中学以外の場面で「音読」する機会はあまりありません。というか、電車の中で音読していたらかなり迷惑です。
 黙読と音読の差異は「音として聞く」段階にあります。音読している人がいたらその声は聞こえる、ということですが、同時に「自分の声を自分で聞く」ことでもあります。
 重要なのは、「自分の声を自分で聞く」時、「発声する自分」と「聞く自分」の間に論理的時間差がある、ということです。読む< わたし>と聞く< わたし>にはズレがあります。< わたし>が読んでいる時、その< わたし>は聞いていない。聞いている< わたし>はただ「声」に身を預ける< モノ>となっている。つまり、思考としての< わたし>とモノとしての< わたし>、という主体の分裂が、音読には潜んでいます。詠唱や歌における恍惚感は、< モノ>になる享楽とつながっています。

 しかし実は、黙読であってもわたしたちは「声」を聞いています。


 「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」で書いた通り、読むときに心の中で「読んでいる」声、それはわたしの声ではありますが、同時に「筆者の声」でもあります。「筆者の声」とは他者=死者の声です。
 つまり、「読む」とは常に< 他者>の声を聞くことです。クルアーンは「神の言葉」ですが、読むこと自体、「神=< 他者>の言葉を聞く」と近親的なのです。クルアーンの中にも「神は汝の頸の血管より近い」という一節があります。黙読するときの「心の中の声」、それはとても神に似ています。
 すると、黙読と音読の違いとは、「神の声」が「内面」に響くか発声されるか、という違いになります。この違いは、そのまま「内面的宗教」(プロテスタンティズムなど)と「外面的宗教」(聖俗一致的スンナ派イスラームなど)の対立軸とパラレルです。
 これを考えると、スーフィズム(イスラーム神秘主義)をスンニーが弾圧したこともよく理解できます(イスラームに限らず、「神と直接コンタクトする」系の神秘主義は宗教共同体主流派から大抵弾圧される)。「黙読的」内面派では、< わたし>はモノであると同時に思考しています。思考は神の仕事なのに、僭越にもその場に人間ごときが顔を出している、という訳です。
 逆にシャリーアにおける音楽の禁止とは、< モノ>となって良いのはアッラーフの声の元のみである、と解釈すればしっくりきます。読誦はアッラーフの< モノ>となることですが、音楽に身を預けることは「邪神崇拝」なのです。

 ここで「日本的読書」を振り返ってみると、わたしたちの文化はかなり「黙読」寄りです。
 単に現代日本の読書のほとんどが黙読であるだけでなく、日本語という言語自体が音と図像の二重性によって構成されています(※1)。漢字という借り物の文字を「表意」的に使い、同時に「音としての日本語」をそこに読み込む(漢字は現代中国においてはほぼ「表音」と言ってよい)。日本人が「内面/外面」という枠組みを割と好むことも、これと関連しているかもしれません。
 「内面/外面」派は、常に「内面」に本質を読もうとします。「表層の裏に本質が隠されている」という視点です。別段日本人に限らず、ペルシャ的文化も二元的ですし、スーフィズムなども「内面」的です(※2)。『星の王子さま』には「大切なものは目に見えないんだよ」という台詞があり、日本では大変人気がりますが、本国フランスでは特段この一節が注目されることはないようです。
 「内面」重視が進んでいくと、元が宗教であっても次第に「宗教的」ではなくなります。一般に宗教は色々と戒律や規定を設けるものですが、「形は本質ではない」とすれば、具体的なものが軽視されていくからです。聖典に関しても、文字通りには読まず、ある種の隠喩として「真意」を解釈しようとします。
 だからこそ宗教「主流派」は、神秘主義と対立するのです。イスラームで言えばスンナ派主流とスーフィズム、といったところでしょうか。もちろん、これは極端に模試化しただけで、実際には様々な段階が考えられます。
 プロテスタントが「正典を詠唱しないヘンな宗教」だとすれば、日本人の「無宗教性」はこれが極まったもの、と言えるかもしれません。「プロテスタンティズムと資本主義」にひっかければ、日本人は「プロテスタンティズム」以上に「資本主義的」とも思えます。

 さらに展開すると、これは憑依という現象ともつながっていきます。
 憑依は< 他なるもの>が乗り移り、わたしがわたしであってわたしでなくなる、つまりモノとしての< わたし>が残り、思考が< 他者>に奪われることです。ムハンマドは憑依的状態で神の声を聞き、そのムハンマドによるイスラームでは読誦が称揚される。これもまた、「汝が< モノ>となるのは一者の元においてである」と解釈できます。
 加えて、クルアーンは翻訳を原則として認めません。音楽そのものに翻訳がなく、歌の歌詞を別の言語に置き換えれば既に「別の曲」として認識されるように、翻訳されたものは既に「神の声」ではないのです。「意味」なる抽象的・内面的次元を差し挟んでしまうと、それこそ意味がなくなってしまうのです。
 そして実は、翻訳という行為自体が「憑依」的です。
 実際に翻訳作業に携わったことのある方ならわかると思いますが、翻訳をしていると自分の言葉のようで自分の言葉ではない、という不思議な空間を彷徨う経験をすることがあります。最初は著者の言葉の「意味」を取り、それを日本語で「表現」しているのですが、段々と筆者自体が自分の言葉を乗っ取り、自分の手足を使って日本語を吐き出しているような感覚が入ってきます。聖典の翻訳とは、一歩間違えると神秘主義的な「内面」重視と同根になり、禁忌とされる謂れが十分にあります。
 また、翻訳とは常に「解釈」であり、「解釈」の名の元にかろうじてクルアーンの翻訳は大目に見られているわけですが、時代状況によってはクルアーンの解釈自体も禁じられていました。イスラーム法の解釈をイジュティハードと言い、聖典のみからは判断できない現象に直面した時、これを柔軟に読み取り臨機応変に当てはめる作業を指しますが、現在でもスンナ派主流はイジュティハードを禁じています。これは「内面」において僭越にも「理解」すること、つまり< わたし>がクルアーンを思考することを禁じる、ということでしょう。

 ちなみに、マイケル・クック『コーラン』を手にとったのは、翻訳者大川玲子さんの著書『聖典「クルアーン」の思想』が面白かったことと、装丁やフォントが可愛かったからです。
 大川玲子さんの共著『図解これだけは知っておきたいコーラン入門』という図解本にも、妙に可愛らしいムスリムのイラストがあり、その線の調子が本書装丁の丸ゴシックな雰囲気とどことなく通じています。もしかすると大川さんの趣味なのかもしれません。
 全体としては今ひとつわたしの期待には答えてくれなかったのですが、上の詠唱に関する下りや、音韻についての解説は面白かったです(英語圏のテクストなので、アルファベット表記されていてわかりやすい)。
 また、クルアーンの引用箇所については、クックの英訳を加味して大川玲子さんが新たに訳し下したらしいですが、これが大変美しいです。

見なかったのか? 主が象の人々をどのように扱ったのかを。
その策略を失敗させなかったか?
彼らの上に、群れになった鳥を放ち、
焼いた粘土でできた礫を彼らに投げつけ、
そして神はそれらを食べ尽くされた葉屑のようにした。
(105 1-5)

 翻訳を喜んでいるようではイスラーム的に0点なのですが、日本語の断章としてだけ読んでも惚れ惚れします。

※1
 日本語の「二重性」については石川九楊さんの『二重言語国家・日本』を是非参照してください。名著です。

※2
 言うまでもなく、アラブ人にも「内面」はあるはずで、傾向として「内面的」か、「内外一致的」か、という模式的な軸を想定しているだけです。
 そしてこの軸を「内面派 – 外面派」とするのはミスリーディングです。「外面派」は、別段表面的なことだけ重視しているわけではなく、「内外一致」的なのであり、言わば「本質は既に現れている」と考えるのです。ですから、ここでは二元的「内面/外面派」と一元的「内外一致派」としてみました。
 ちなみに、セム系「一神教」が「内外一致派」を主流とするのは当然ですが、「内面/外面派」的な日本や諸外国であっても、あまりに「内面的」すぎると体制から弾圧を受けます。体制は常に「考えすぎる」者を嫌うのです。

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