神の民と和の民、不寛容な共存


 アレキサンドリアのクレメンス研究の第一人者として知られ、カイロ大学で日本語を教えた経験を持つ久山宗彦さんの著書を二冊読みました。『イスラム世界の日常論理』と講談社現代新書の『コーランと聖書の対話』です。アラビア語を自在に操る日本人キリスト者が見た、エジプトのイスラームとコプト派キリスト教徒たちの世界、という貴重な語らいです。
 両書には重複する内容もあるのですが、新書である『コーランと聖書の対話』がコプト派キリスト教の歴史や思想に紙数を割いているのに対し、『イスラム世界の日常論理』の方がムスリムやコプトの人々の日常的なエピソードを多く収めているのが少し意外でした。とっつきやすいのは後者です。
 どちらについても、個人的に最も惹かれたのは思想や歴史についてより、いかにも「アラブらしい」日常的なエピソードの数々だったのですが、ここでは『イスラム世界の日常論理』末尾で示されている「神」の文化と「和」の文化、という視点から、共存について考えさせられたことをメモしておきます。

 イスラムの人たちはことほどさように、すべてがアッラーからはじまり、またすべてをアッラーに戻していくのである。嬉しいこと、楽しいことに対して神に感謝するのは当然のことだた、そればかりではなく、病気になったり、事故にあったり、人が亡くなったりといった、いわば不幸な状態の時にはなおさら、そういう状態にならしめた神に最終的には感謝する。これはすべてに神の意志が働いているということであり、そういう発想がイスラムの人たちのなかにははっきりと見られる。
 (・・・)私はこの「神」の文化というものに対比して、日本では何を最も大切にしているのかということを客観的にみようと考えた。
 (・・・)結局、考え至ったのは、昔から言われているように、日本人は最終的に「和」に帰する、「和」を最も大事にしていくのではないか、ということである。

 久山先生は、「日本人は皆同じような考え方をする、といったことが言われるが、大学で若い人たちと接していると、実に多様である。むしろ『いろいろある』ということを好むのが日本人なのではないか」といったことを仰っています。
 一神教/多神教と言ってしまうと、実に手垢にまみれた模式化なのですが、「多神」と言ってしまった段階で、すでに「神」の文化の「神」とは対比にならないわけで、「神」と「和」と言った方が適切だと感じられます。多くの日本人にとっても、その方がしっくり来るのではないでしょうか。一神も多神も、神なんて言われてもピンと来ない、という方が大勢でしょうし、だからといって日本人が狭義の「無神論者」なわけでもなく、何がしと「神」に相応するようなものはあります。「和」という概念がギリギリの落としどころに思えます。
 お断りしておきますが、「神の民」「和の民」というのは極めて模式的な単純化であって、例えばイスラーム文化圏(というものがあるかどうかすら疑わしい)あるいはキリスト教文化圏の人々が皆「神の民」で、非一神教文明圏の人々が「和の民」的な思考を徹底しているのかというと、そんなことはまったくないでしょう。久山先生は敢えて叩き台としての構図を示されているのであって、こんな二項対立で話をまとめようとしているわけではありません。

 「和の民」は「そういうのもアリよね」と緩く認めてしまう傾向が強いため、一見すると多様性と共存を重んじているように見えます。しかし「和の民」が「和=輪」の中に入れてくれるのは、その「和」を乱さない限り、見えざる「和」に恭順する(「空気が読める」1)限りにおいてであって、一旦「和を乱す」と判定されると、即「村八分」にされます。
 「和」は「和」を重んじる者にだけ適用されるのであって、例えば極端な「神の民」がそこへやってきて、「唯一の神だけが正しい、他はダメだ」と「多様性を否定する」かのような発言をしたとすると、これは「和」に入れて貰えません。正確には「そういう考えもあるよねぇ・・あはは」とか言ってお茶を濁し、やんわりと「和」の外にお引取り願います。
 だからといって「和の民」が「ズルい」とか言いたいわけではなく、松本健一風に言うなら豊穣で生産集約性の高い東アジアの「泥の文明」2においては、こういう「ずっと同じ場所にいて、つつがなくやっていく」共存法が合理的だったのでしょう。
 一方で「神の民」には、一歩間違うと激しく「多様性」を破壊する激烈な一面がありますが、一方で抽象度の高い「神」さえ認めれば、他の要素はさておいてかなりの程度まで「輪」の中に入れてくれる、という性質もあります。人種闘争に明け暮れていたマルコムXが、マッカ巡礼でイスラームでは本当に肌の色も国籍も関係ないことを目の当たりにし、考えを改めた、というのは有名な話です。しかもこの「神」は、「和の民」における「空気」のように、そこにいる人たちには共有されているけれど明示的ではなく、他所者には取り付く島もない、というものではありません。またキリスト教やイスラームの「神」は、抽象度が高く文化的土着性からある程度遊離していますから(もちろん具象性・文化的バイアスはある)、遠い文化圏の人々に受け付ける余地がない、ということもありません。世界最大のイスラーム国家はマッカより遠く離れたインドネシアです。
 こうした性質は、おそらく「移動」を重んじる、あるいは「移動」そのものを生き、異なる文化圏の人々と不断に接する生活様式の中で発達したものでしょう3。勘合貿易ではありませんが、「神」の一点で一致すれば、あとの細かいことはひとまずおいておく、という「共存」法です。

 別段どちらの「共存」法が良いわけでもない、と言ってしまうと、既に「和の民」風です。そもそも「共存法」などと一括りにできるかどうかも怪しいわけですし、更に言えば「共存」が本当に正解なのかもわかりません。共存やら寛容やら多様性やらといった美辞をやたらに称揚するとしたら、「和」バイアスとも言えます。
 「共存」を訴えるのは結構ですが、それが「美辞」になってしまっている(麗しいこととして受け止められている)ことには、危険があります。何故なら、「共存」はキレイなものではないからです。
 「共存」が口にされる時には、既に何か問題があるものです。
 久山先生は「この村ではコプト派キリスト教徒とムスリムが実に上手く共存しているのです」というエジプト人を紹介していますが、そういう村でもいざキリスト教徒のみ、あるいはムスリムのみの場になれば陰口の一つも出てくるものですし、小競り合いもあります。別に悪いことではなく、小競り合いくらいあって当たり前です。マシンガンを振り回して村民虐殺まで行ってしまうと「ちょっと待って」ですが、たまにパンチの応酬があるくらい健全な印でしょう。京都に住んでいた時、近所のちょっと「怖い」エリアで、駐車場争いから人が刺されたことがありましたが、周囲の反応は「撃たれないで良かったね」という冗談みたいなものでした4
 「原因とは、うまく行かない時にだけあるものだ」ではないですが5、「共存」が口にされる時には、何か「共存」の難しい状況があります。うまく行かないから考えるのですから、別に変なことではないのですが、既に上手くいっていないものが、「共存」の一声で何の問題もない時のようにスッキリ行くわけがありません。傷は塞いだけれど傷跡は残った、くらいの醜さがあって、当たり前です。
 そもそもの出発点として、「共存」が口にされるような「共存の難しい状況」というのは、要するに共存したくない人がいる、ということです。できれば消えて欲しいのです。でもシバいたりハジいたりするとハジきかえされたり、共存したい人からも嫌われてしまったり、ハジくのも面倒だったり、そんな色々な理由で消すのは諦めているわけです。結果的に、共存というか、とりあえず両方シノいでいます、という状況ができるのであって、お腹を開いたら黒いものの一つや二つ出てきて当然です。
 個人的には「和の民」の「やんわりと村八分」な共存法により嘘臭い小奇麗さを感じますが、「神の民」だろうが「和の民」だろうが、そうした欺瞞はあります。
 イスラームにおける「共存」というと、オスマン・トルコのズィンミー6がしばしば取り上げられ、イスラーム寄りの研究者がズィンミーがいかに寛容な制度であったか訴える一方、「搾取構造ではないか」という批判もあります。しかしズルイ「共存」なのはむしろ当然であって、ズィンミーが平等だの寛容だの訴えるだけでは、かえって「共存」のリアリティを覆い隠してしまします。共存は平等でも寛容でもありません。キレイな共存の過剰な称揚は、共存困難なものを一通り抹殺して、その上で「ほら、ボクたちキレイに共存」と飾る欺瞞に陥り兼ねない不気味さがあります。

 リアル「神の民」と接していると、協調性ゼロで「和」偏差値30くらいのわたしですら「もうちょっと和を重んじてよ」と感じることもありますが、一方で「神」のスタイルに惹かれる点も少なくありません。
 一つには単にわたしが神を信じているからですが、もう一つには「共存」の汚さ、言わば「共存の不寛容さ」という逆説がより剥き出しに感じられるからです。もちろん、当事者たちは自分たちの寛大さを主張することでしょうが。
 これはおそらく、「神の民」の共存法が、より異質な対象、隣の村どころか言葉も肌の色も違う人々との出会いを、少しでも平和裏に(面倒を起こさずに)流すべく発展してきたものだからでしょう。異質なものとの「共存」こそが共存である以上、より真に「共存」たる共存と言えるかもしれません。結果としてより汚さ、暴力性が目立つ面もあるかと思いますが、そういうラディカルな側面にこそ、リアリティを感じるのです。

  1. 「空気が読めない者、その罪状と判決」参照。 []
  2.  以下参照。
    「webは「砂の文明」である」
    「mixiと女社会と「泥の文明」」
    「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」 []
  3. ここでの「移動」とは、必ずしも「遊牧」的な意味だけでなく、移動そのものであるような都市の都市性をも含む。都市とは、そこに住むことがすでに移動であるような空間です。「都市生活者は唯一神と移動する」「『イスラームの世界観』 「第三のアイデンティティ」の幻想と現実性」等参照 []
  4. この「駐車場」は別に契約して借りているわけではなく、要するに路上駐車なのですが、いつも駐車していて勝手に「オレの場所」にしている人が、知らずに停めていた相手にブチ切れて刺した、ということです。京都は普通の町中で通り一つ挟んで「怖め」なエリアが混在していますので、不案内な人は一応気をつけた方が良いです。なんとなく雰囲気で気づくものでしょうし、あの気配を読めない人は動物的生存能力をちょっと訓練した方が良いと思いますが・・。 []
  5. 「郵便屋配達夫は通り過ぎ、わたしは目覚め、理由になる」参照。 []
  6. イスラーム支配下における異教徒支配。特別な税金等と引き換えに、信仰の自由や財産を保障する。 []

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