返却の祈り


いつも行くスターバックスに、よく話しかけてくれる店員さんがいる。
スターバックスの「フレンドリー」な演出は好きではないし、店員に話しかけられるのも苦手だ。
天真爛漫な人間も嫌いだ。
でもなぜか、彼女だけはほっとして、つい気をゆるしてしまう。
いかにも社交的な雰囲気ではないからかもしれない。
かといって、機械的にマニュアルに従っている風でもない。
わざとらしくはないが、何かがぎこちなく、しかしそのぎこちなさが、彼女の本性に根ざしているように見えるのだ。
兎は後ろ足が長いので、登りは速くても下り坂ではうまく走れない。階段を降りるときは実にぎこちない。そういう「自然なぎこちなさ」を感じる。
折れそうなほど細い腕で、ただその細さは病的なまでで、もしかすると摂食障害かもしれない。
可愛らしく純朴そうな容姿にも、涙ぐましく、時にグロテスクな裏面があることがしばしばなのは、大抵の人間より知っているつもりだ。
もちろん、ただ単にスリムでまだ子供なだけかもしれない。本当のことはわからない。
ただ、彼女と話す時、気が付くと心の中で神の名を唱えている。
全身の筋肉で自らを抑えつけるように、必死で祈っている。
なぜ、わたしは祈っているのか。

与えられた美しさを汚してしまうのは、大抵自らの心だ。
彼女の苦しみが、存在の美しさを損なわないよう、祈る。そうだろうか。
それよりもむしろ、わたしはわたしを恐れている。
美しく映るもの、それが損なわれる不安から、自ら踏みにじる。それが怖い。
大切なものが大切なあまり、自分の手で壊す。そういう愚行を、何度も繰り返した。
加えて、彼女の細さや可憐さへの嫉妬がある。
彼女の美しさは、世界の一部としてわたしに与えられたものだ。その陰に苦しみがあったとしても、総体としての世界、それが美しいのだ。美しさは一つなのに、世界に< わたし>が紛れ込むことで、分断され、破壊される。
彼女の美しさは、わたしの美しさだ。
彼女の苦しみは、わたしの苦しみだ。
しかし常に、わたしはそれに気づかない。
< わたし>の存在とは、その「気づかなさ」、知に開いた欠け、蝕のことだ。

別段、彼女は、道を歩けば振り向かれるような美人ではない。
美人だとしても、蟲惑される謂はないし、羨望したとしても「自らを恐れる」気持ちにはならない。
一見純粋そうに見えるものに陰口を叩くほど老いていないし、陰口を言い合う友達もいない。
そういう関係が嫌いだし、だから女が嫌いだ。男も大抵は嫌いだ。わたしは多分、一生友達を作らない。
だから、ここで感じた美しさは、はかなさ、どうしようもない距離のようなものだ。
「火星の人類学者」が、彼方の地球に見出し、無言で平安を祈るような美しさだ。
わたしと彼女は、端的に「関係が無い」。何もすることができないし、しようとも思わない。
この無関係さ、距離が、決定的だ。
わたしに彼女のようだった時期はないが、過ぎ去ってしまったもの、取り返しのつかないものの陰を、勝手に見つけ出している。そんな気がする。
遠く瞬く星の光が、何億年も前に放たれた「過去」であるように。
それは多分、最初から取り逃がしていたもので、この距離、手の届かないものが風景のどこかにあること、それらすべてが約束の一部だ。
世界とは約束の全体であり、その矛盾の総体を、ただ美しいと感じる。

人間たちよ、わたしは君たちの仲間ではないし、憎悪に駆られていることもしばしばだ。
だが多分、わたしたちは君たちを滅ぼしはしないし、滅ぼそうとしても勝ち目がないだろう。
もうあまり時間がない。
ただ眠らせてくれ。
眠っている限り、君たちの眠りが妨げられることもない。
わたしは人間たちの夢を見る。夢の中で、君たちはとても美しい。

本当に恐ろしいのは、不幸ではなく幸福だ。
幸せを手にすると、それが失われるのが怖くなる。いっそ、自ら手放し踏みにじってしまいたくなる。
そして最大の幸福とは、ただ世界があること、心臓が脈打ち、一瞬一瞬わたしが世界の美と共にあることだ。
わたしたちは誰でも、生まれながらにして過剰に幸福だ。
だから怖い。
幸福で一杯になって、身体が弾けてバラバラになりそうなので、必死で筋肉で抑えつける。
神の名を口にするのは、世界の美しさに気づいてしまった時、運悪く不幸の幻想が破れ、幸福が露出してしまった時だ。
わたしは、有り余る幸福を返す宛を求め、すがっている。
祈りとは、過剰な幸福を神へ投棄することだ。

神の名に願い立てすることは何もない。
ただ感謝させて欲しい。

主よ、わたしは小さく、世界の美しさに耐えられない。
称えは神の御名へ。どうか感謝を受け止めてください。
わたしが弾け飛び、世界が汚されることがないように。

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コメント

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