モテ/非モテと侠気、一枚目


 主に「はてな」界隈で「モテ/非モテ」に関する議論をしばしば目にします。たまたまわたしの巡回しているブログでそういう話題が多いだけかもしれませんが、以前からこの話がさっぱり面白くない、というか、一体なぜそんなことに少なからぬ人(少ないのかもしれないし、よく知らない)が関心を持つのか、理解できないでいました。
 でも、ひーらーちゃんぷるーさんの「さよならオナニー」はちょっと面白かったです。
 「振った女を殴る代わりに社会運動にした」というフルカツ氏、それを政治的DVと読む大野氏、さらにこれに対し「それを言っちゃぁすべての政治がDVでしょ」とツッコみつつ「フルカツさんは本当に振った女を殴りたかったのか?」と微妙に話の焦点のズレたところに頭を使ってみる瀧澤氏。この話のズレ加減だけでも興味深いです。

 「モテ/非モテ」ということが話題にされている度に疑問に思っていたのは、そもそも「モテる」という基準というかパラメータのようなものが存在するのか、ということです。
 わたしも「モテ」という言葉を使うことはありますが、それは「モテを上げるっ!」とかハシャいでハイになってみる、といった程度のことで、ネタとしか思っていません。
 仮に「意中の異性とお付き合いできる率が高い」ことを「モテ」だと考えてみると(多分この還元はズレていますが ※1)、「うまくいく」かどうかはその人に本性として備わった「モテ」なる属性が決めるのではなく、ただ単に行動するか否か、そしてその時その時の行動で「首尾よく」振舞うか、あとは運が決めることです。
 瀧澤氏は、「好意を持った女性には、常に口説きまくりんぐ」だそうですが、イロコイなどというものは九割方勢いで決まるもので、「口説きまくりんぐ」で行けば結果的に「うまくいく」ことも多いでしょう。もちろん、失敗することもあるでしょうが、口説かなければ、男性の場合ほぼ100%失敗です。大抵の女は押しに弱いですから、押して押して押しまくれば、そのうち洗脳にかかってなんとなくコロッといってしまうことも多いのではないかと思います。失敗したらどんどん次に行って、成功体験を積んでいけば、成功率も高まっていくことでしょう(※2)。
 技術も重要ですが、技術は実践と成功体験から獲得するものなのですから、行動しなければ始まりません。すべてとは言いませんが、多くの自称「非モテ」な人は、単に行動しないだけなのではないか、と想像します。
 ただ、これで話が終わるわけではなく、すぐに思いつくポイントが三つあります。「思い入れ」と社会的抑圧、そして容姿の問題です。


 一つは、「失敗してもすぐ次」な発想ができないケースです。ものすごい思い入れをしてしまう。「だからこそ恋なんだ」と仰るでしょうし、確かにその通りなのですが、半年も一年も凹みきって引きずりまくりのは思い入れすぎです。
 思い入れすぎる人というのは、大抵自分の思い入れっぷりに酔っているだけで、もちろん多少酔うのは当然なのですが、酔っている自覚すらなく妄想的自己愛だけがインフレ的に外界に投影されている状況があります。
 挙句の果てに「自分は非モテ」となるのかもしれませんが、それは「非モテ」なのではなく、ただ単にお坊ちゃんで頭が悪いだけです。
 恋愛などに過剰に入れ込んで、さらに失敗体験に耽溺するナルシシズムに浮かれていられるなんて、なかなか結構なご身分です。暇なんでしょうね。うらやましいです。

 もう一つは、「非モテ」なる仮想的属性自体が問題なのではなく、そうした枠組みを社会が作り出していて、自分たちはその犠牲者なのだ、という立場があり得る、ということです。
 つまり「現象としてモテず、かつ自分ではそんなに気にしていないのだけれど、世の中的にモテない人間がスティグマ化されている」といった論です。ここでは、「モテ」を現象と捉えるか(場合により行動にすぎないことを自覚している)、属性と捉えるかは決定的な問題ではありません。
 これは第一のケースに比べればずっと値打ちがあるもので、議論の叩き台にはなります。確かに、そういう「社会的抑圧」は存在するでしょう。
 わたしはむしろ、アセクシュアリティ(性行為にそもそも関心を持てない)に対する社会的抑圧を想起します。当人としては単に興味がないだけなのに、周囲は穿った見方をしたり、自分たちの枠組みの中で何とか「ヘンなヤツ」を位置づけようとします。時にこれは、ホモセクシュアリティに対する以上の憎悪や偏見につながります。対象や方向性ではなく、「そもそも軸自体を持っていない」者というのは、アウトロー以上にアウトサイダーだからです。
 ただ、個人的な立場を付記しておけば、こうした現状に対して「抑圧をなくそう」とか啓蒙といったアプローチをするのはまったく空虚だと考えています。「抑圧」は絶対になくなりませんし、< わたし>そのものが「抑圧」の賜物です。
 また、バカが啓蒙でちょっとマシになることもありません。なぜなら、バカというのは単に「啓蒙」されていないからバカなのではなく、バカをよりバカにするシステムの作用により、日々より一層バカになっているからです。
 その現状に憤るのであれば、抑圧者以上に「抑圧的」になり、「お前はこれだ」という抑圧倍返しをするしかありません。自らがヤツらの恥部それ自体となり、日の元に曝す、ということです。
 もちろん、ただ曝け出すだけだと袋叩きに合うだけなので、暴力装置を備える必要はあります。この時、「袋叩きからの防衛」という発想をしてしまうと、その時点で負け確定です。数で劣っている者が袋叩きから「防衛」する唯一の方法は、やられる前に袋叩きで「攻撃」することです。
 ただ、フルカツ氏の「殴る」は、あまりにもカッコ悪すぎて、それが「暴力」ならわたしはもう暴力的な語りをするのはやめようかなぁ、と思ってしまいますが(※3)。

 最後に、「属性ではないというけれど、容姿等でどうしようもないこともある。これは持って生まれた『属性』ではないか」という反論。
 確かに容姿は重要です。こういう反論をする人は、「容姿が決定的」ということを自覚しているだけマトモです。本当の白痴は「容姿ばかり見て中身を見てくれない」などと言い出します(もちろん、その人は「モテない」でしょうけれど、それはブサイクだからではなく、単にバカの度が過ぎるせいです)。
 しかし、「容姿はどうしようもない」という人は、本当に容姿をどうにかしようと努力したことがあるのでしょうか。人間、その気になると姿かたちというのは相当なレベルまで改造できます。物理的には変わっていなくても、「見せ方」を研究するだけでも驚くほど印象を変えることができるものです。
 もちろん、金銭・時間・人間関係など、極めて多くのことを犠牲にしなければ達成できません。めちゃくちゃ頭も使います。ですが、欲しいものを手に入れようとしたら、相応の犠牲を払うのは当然のことです。それがイヤなら諦めるしかありません。
 やるだけやって「でもダメだった」というならわかりますが、そういう人に限って親族追放や会社クビ程度の犠牲も払わず、挙句の果てに一日三食も食べていたりするのだからちゃんちゃらおかしいです。
 しかもその「容姿面のマイナス」が「太っていること」だったりすると、大爆笑です。骨格や身長ならともかく、体重などというものは食生活や運動の制御程度でいくらでもコントロールできます(内分泌障害等は除く)。骨を切って身長を伸ばしたり縮めたりするの比べれば、楽すぎて笑いが止まらないくらいです。
 必ずしもデブが「モテ」においてマイナスとなるわけではないでしょうし(モテるデブキャラはいくらでもいる)、別段痩せる気がないなら痩せなくても結構ですが、「できない」などと神様のせいにする罪深いデブは、是非、日ハムに行って頂きたい。立派なハムにしてくれることでしょう。
 個人的には、豚のような穢れた生き物はハムになっても絶対食べないし、例えポジティヴなデブでも原則として石鹸にすべきだと思っていますが、この話は長いし関係ないので端折ります。

 以上、グダグダ書きましたが、そもそも「イロコイ」やら人間たちとの関係に重きを置くこと自体、いかにも退屈でカッコ悪いです。そんな「門外漢」の書いたことなので、まるで見当外れなところがあったら申し訳ありません。

 「二枚目」「三枚目」という言葉がありますが、これは歌舞伎俳優が看板の何枚目に名前が書かれるか、から来たもので、本当の一番上は「一枚目」です。
 それは「モテモテ」でも「お笑い」でもなく、女などに見向きもせず、侠道を極める男のことだったのです。
 「侠気」に社会的・生物学的性別などという世俗の事情は関係ないですし、むしろ女が侠道を歩んだ時の方が、究極の侠気に至ることがあります(当然、そんな女は一万人に一人もいませんが)。
 わたしは「侠気=狂気」だけが美しいと思いますが、わたしの経験の範囲では、面白いことに、中途半端な「男っぽさ」を示す男より、むしろ「フェミニン」な男の方が侠気に満ちていることがあります。中途に「男」な男は、大抵マザコン坊やだからでしょうか。
 そして自身も、侠気と主の大いなる栄光のために死にたいと願っています。

 どうでもいいですが、「さよならオナニー」という表題は最初「もう自慰行為はしない」という意味だと思ったのですが、「『さよなら』時に行う自慰行為」、つまり「卒業旅行」みたいな意味だったのですね。この勘違いと気づきという自分の中の流れにもウケました。
 逆に「卒業旅行」が「もう旅行はしません」だったらイイですね。
 「もう旅行なんて卒業よっ」。もしかして、これがオトナになるってこと? 答:いいえ、違います。

※1
 「モテ」には多分「意中」等とは独立して、「人気者である」といった要素があるのでしょう。
 自分が「モテを上げるっ」等ではしゃぐ時は、どちらかというと「人気者」とか、単に世間的スペックを上げてみる、といった意図のことが多い気がします(具体的対象への「ウケ」を考える時は「モテ」という語を使っていない?)。「モテ/非モテ」を論じる人たちは、「お付き合い可能性」や、少なくとも単なるスペックではない人間関係的な面を重視しているように見えるのですが、よく知りません。

※2
 上記瀧澤さんの議論を受けての話なので、男性の「モテ」を中心に考えています。なんとなく、女は「モテ」を語っても「非モテ」という問題化をしていない気がするのですが、これもよく知りません。

※3
 「殴る」というとファシスト外山恒一さんが痴話喧嘩で暴力沙汰になり、二年も刑務所に入れられたことを想起します。彼は「今は女性を殴ろうとは思わないが、それは『女は弱い』という女性差別的な立場からである。男女平等なら、女を理由に殴らないことはない」といったことを言っていて、実に好対照です。
 ちなみに、外山さんはモテモテですよ。

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