都市生活者は唯一神と移動する


 都市と抽象度の高い唯一神(非偶像的=非イメージ的神)の関係について考えています。

 イスラームが都市の商人の中から生まれた思想であること、この都市が砂漠=外部との関係において抽象される< 都市>であること、そして都市とは移動性そのものである(移動に「住む」)ことについては、「webは「砂の文明」である」「イスラームは「砂の思想」なのか」等で触れました。
 都市とサンボリックな神(土着性の低い神)という意味ではイスラームに拘泥しない方が適切なのかもしれませんが、イスラームにはやはりその典型が見出されると思われるため、これを契機として考えてみます。
 

 大塚和夫氏の『イスラーム的』に次のような下りがあります。

(巡礼のためにサウディに入国し、そのまま不法就労してしまう若者たちに触れて)
(・・・)イスラーム世界を研究していると、ムスリムと「旅」というテーマにひんぱんに出会う。一般に彼らは空間的に移動することを、それほどいとわない傾向がみられる。その理由に関しては、さまざまな説明が考えられようが、メッカ巡礼という制度が、ムスリムの移動を活発化させている要因のひとつであることは確かである。イスラーム史を彩る中世の偉大な旅行者、イブン・ジュバイルやイブン・バットゥータなども、ハッジを行うことが彼らのたびの主要目的であり、その副産物として壮大な旅行記が完成したとも言えるのである。

 一方、イスラーム的発想として、運命論的で、経験論的事実より合理論的に「真理」から演繹的に思考する傾向が指摘されている場面によく出会います。これは、「書かれている」(既に定められている)ことの絶対視、とも言い換えられます。
 アラビア語のカタバ(書く)という動詞には、文字通りの「書く」という意味の他に、「運命を定める」といった用法があり、「書かれたもの」としての聖典からすべてを導出しよう、という発想や、クルアーンの「原型」としての「天の書」の想定も、この二重性と一体となっている、と考えられます1
 『イスラーム的』にも、「書かれたもの」の神聖視について、興味深い箇所があります。

(・・・)すべての問題はクルアーンの中にすでに答えが用意されていると考える姿勢がさらに徹底されると、クルアーンとその権威ある解説書以外の本など読む必要がないという考え方になる。(・・・)あるスーダン人がB・ラッセルの教育論のアラビア語訳を読んでいると、その友人が、教育を知りたいのならヨーロッパ人の書いたものよりクルアーンを読めばすむと忠告しているのを目にしたこともある。
 また、このようなクルアーンに対する信頼は書物一般に拡大され、一種ブッキッシュな、経験的事実を軽視する姿勢を生み出すこともある。たとえばある友人は、日本を知ろうと思ったら、本を数冊読めばよく、直接現地に行く必要などまったくないと言う。さらに、アラビア語教育の際にも、このような姿勢を感じたことがあった。アーンミーヤの影響か、フスハーとされている単語の中にも、一般に用いられている発音と辞書に記されている発音とが異なる場合がままある。ある教員は、そのようなときには躊躇無く後者を採る。彼の主張によれば、経験は誤りを犯しうるが、原典(辞書)は常に正しく、辞書どおりの発音をする人が極少数だとしても、正しいアラビア語としてその発音を用いていくようにすべきなのである。このような知的傾向は、反経験主義的と形容されうるだろう。

 上は復古志向の強いワッハーブ派を奉じるサウディの、教育機関内でのエピソードであり、すべてのアラブ人やムスリムがこうしたステレオタイプな発想をしている、ということではないでしょう。また、アラビア語がイスラームにおいて特権的位置にあるにせよ、イスラームはアラブという枠を大きく越えた思想です。それでも、非常に大雑把に、帰納的・経験主義的思考より演繹的・合理論的思考を重んじる、という傾向をイスラームに読むことはできると思います。

 一見すると、移動=都市という「常に新しい局面の生まれる状況」と、「書かれている」ことを重んじる演繹志向とは矛盾するように見えます。固定的な原理に縛られるのは、むしろ循環的・農耕的世界観とマッチしそうです。
 まず考えるべきことは、「書かれたもの」を「書いた」のは抽象度の高いセム系唯一神である、ということです。「書かれたもの」は農耕的因習ではありません。イスラームはむしろ、そうした因習や土着的信仰を激しく攻撃することから出発します。その後の版図の拡大において、様々な土着的因習との融合が発生しますが、これについても「本来のイスラーム」への回帰志向からくる批判・反動が必ずついてまわります。 偶像の否定とは何でしょうか。イメージ・具体性へと信仰が堕してしまうことへの激しい警戒です。自らの根拠を、イメージではなく、象徴的・抽象的な「見えざる唯一神」に置き、ここにバインドしようとする志向です。つまり土地に根ざしたものを離れ、移動においても「変わらない」根拠を持つ、ということです。

 「移動」が非常なストレスであることは論を待たないでしょう。
 動物(高等哺乳類)は多くの場合、自らの環界に対し固定的な生活様式を持っていて、そこから離れることを激しく嫌います。
 以前に取り上げた『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』の中でも、動物たちが「普段と違うこと」を極端に嫌うことが再三指摘されていますし、著者テンプル・グランディン自身が当事者である自閉症・アスペルガー症候群においても、こうした「固着」傾向がしばしば見られます2
 コンラート・ローレンツ『攻撃』には、確かアヒルの「強迫神経症的」行動が描かれています。元々部屋の中央に障害物があり、縁に沿って進むしかなかった場所で、その障害物がなくなってからもショートカットせずわざわざ迂回するように歩き続けるアヒルのエピソードです。ある時、突然の物音か何かに驚いて、ついうっかり彼は部屋の中央を横切ってしまいます。そして部屋を通過しかけた時、ハッと我に帰り、あわてて引き返していつもの「迂回路」を通りなおすのです。
 人間がこうした「環境世界」からの離脱を果たすことができた一因には、抽象的・象徴的思考能力の獲得があったはずです。新たな状況に出会っても、そこから一旦抽象し、既存モデルに当てはめ、経験を適用する。これは「はじめてのもの」を「既に知っているもの」とすることで、状況を打開すると共に不安を和らげる効果を持ちます。
 それでも、旅や都市といった状況は格別ストレスフルです。農村的循環社会に比べ、商業都市は「新しいもの」が多すぎます。だとしたら、これを補い不安を和らげるには、一層抽象度の高い、イメージを越えた何かに根拠を求める必要があります。「新しいもの」がやってきても、「これだけは変わらない何か」があれば、「平安=イスラーム」を得ることができます。

 柄谷行人氏の指摘を待つまでもなく、商業とは「命がけの飛躍」であり、決まった価格のないものです3。むしろ「価格の無さ」があればこそ、商業は利益を上げられるのです。
 「命がけの飛躍」は「命がけ」というくらいですから、大変疲れるものです。不安です。ですから、商業にはこの不安を和らげる方法が色々と備えられています。「定価」や「談合」もその一手段でしょう。
 一方、アラブ世界のスーク(市場)は、現代でも極めて「言い値」的で、値切ったり値切られたりの駆け引きが前提とされていることで知られています。「定価」システムが深く浸透し、チップのような曖昧な「サービス料」制度のない日本とは対照的です。乱暴に図式化してみるなら、都市=商業性を擬似農村的イマジネールなシステムで隠蔽した「偶像崇拝」方式が日本的(東アジアモンスーン的)、一方イメージを激しく拒み、むき出しの「命がけ」を抽象度の高い「一なる根拠」で補完しようとするのがイスラーム的、と言えるかもしれません。

 もちろん、「見えざる唯一神」が即演繹的思考の絶対化につながる、とまでは言えません。一般法則を導出するだけであれば、帰納的・経験論的アプローチも考えられるからです。そして現在のわたしたちが抽象思考の基本としているのは、アングロ・サクソン系の帰納的な「科学」思考です。
 しかし、大衆が信仰の対象とする「複数の事象から共通の法則を導き出す」素朴帰納法的モデルが「101回目の例外」で破綻するのは科学論の議論を待ちませんし、そもそも帰納的モデルの向うに出現する「法」は、わたしたちを根拠付け、アイデンティファイするような求心力を備えていません。「科学のディスクールと< 真理>の鏡」で触れたとおり、科学の語らいには「世界のありよう」を理解しようとすればするほど、その世界を見ている< わたし>だけが取りこぼされていってしまう、という疎外的性質があります。ナショナリストにおけるネイションのような「故郷」となる力を、帰納的真理は備えることができません。

 一方、すべての< 知>を「見えざる唯一神」から導出しようとする態度は、多くの日本人にとって「教条主義的」に映るでしょう。おそらく、イスラーム文化圏内部でも、行き過ぎたドグマティズムに対する批判はあることでしょう。
 しかし極めて「非-原理」的に見える日本人も、演繹的根拠を持っていないわけではなく、ただそれをイメージの中、土着的で世界性を持たない素朴な< 自然>に求めているだけに思われます。おそらくは「放っておいてもなんとかなる」東アジアモンスーン的「泥の文明」では、無から有が「自然発生」する世界観が優勢となり、「放っておいたら何ともならない」より過酷な環境では、「誰かが何とかする」「無からは有が生じない」宇宙が支配的となり、都市=移動=商業というよりストレスフルな状況において、唯一神という形でこれが結実したのではないだろうか、と想像します。
 翻せば、「擬似農村」でやってきた日本的都市は、都市でありながら都市になり切れない桎梏を抱えています。イメージの力は平易で用いやすいですが、自ずと限界を抱えています。そのツケが、「日本的都市」の諸病理の一因になっているように思われてなりません。

 「強い神」が求められるのは、特殊な「過酷な環境」、つまり移動と「新しい状況」の連続という都市的状況においてです。結局は「農村」に帰る多くの日本人が「強い神」を求めることは依然ないでしょうが、間違いなく一定数の人口を備える故郷を失った都市生活者、あるいは正に「移動に住む」都市そのものであるweb的状況で、非イメージ的「強い神」が力を発揮する局面というのも、十分に想定可能なのではないか、と考えています。

『イスラーム的―世界化時代の中で (NHKブックス)』 大塚和夫 『イスラーム的―世界化時代の中で』 大塚和夫
※『イスラーム的』は、「『イスラーム主義とは何か』大塚和夫」で紹介した表題書籍とかなり内容がクロスオーバーします。イスラーム主義プロパーということであれば、『イスラーム主義とは何か』の方がまとまっていて便利でしょう。内容が重複することはわかっていたのですが、大塚氏の文章が大変素晴らしく、大事なことは何度でも読み込みたい思いから手に取りました。様々な箇所で発表された論文・エッセイをまとめたもので、一冊の本としての流れには欠けますが、こうしたタイプの書籍ならではのリミックス的重層感や、「筆の滑り」も含めた勢いも愉しむことができて、大変面白く読めました。
『イスラーム主義とは何か』と『イスラーム的』、最低どちらか一冊は必読です。必ず読んでおくように(笑)。

関連記事:
『イスラーム主義とは何か』大塚和夫
「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」
「人間のフリをする人間」
「身体を信じることは身体感覚を信じることではない、物質を愛することは自然を愛することではない」

  1. 以前に触れた大川玲子氏の『聖典「クルアーン」の思想』にも、アッラーが最初に創造したものは「筆」であり、それにカダル=運命を「書け」と命じた、という伝承が取り上げられています。 []
  2. 「書かれたもの」とルーチン的動物、閉じた環界を破る「分裂病的知性」の関係について考えると面白いです。「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」にまとめた通り、「書かれたもの」を読むという行為は、「わたしの中に< わたし>ならざる者の声が響く」という体験です。その声は、「既に決定されたもの」を告げる声です。正に「見えないもの」が導いてくれるからこそ、閉じた世界を破って移動=都市へと飛躍することができる、と解釈することもできるでしょう。 []
  3. 「命がけの飛躍」が言語の「商業性」が語られる文脈で使われていることは、一層示唆的です。わたしたちは言葉が固定的「意味」を持っている、という日常的な言語観に汚染されていますが(お陰でパニックにならないで済む)、言葉がどう受け取られるかは、常に「出たとこ勝負」であり、シニフィアンはシニフィアンに回付されるのみで、固定的「意味」に落ちるものではありません。むしろ「意味」を持たないからこそ、言語は流れ、投機されるのです。つまり商業性=移動・交易と都市は、その形態そのものが言語=象徴的です。
     もちろん、「意味」に落ちないといっても、どこかに「つなぎ目」は必要です。ラカンにおける< 父-の-名>は、こうした「固有名詞」的絶対的アンカーの働きをするものと考えれます。
     「命がけの飛躍」については柄谷行人『探究1』など、シニフィアンの回付性については『エクリ』収録の「< 盗まれた手紙>についてのセミネール」や「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」が参考になります。そしてももちろん、ウイトゲンシュタインの『探求』を参照すべきです。 []