「わかる」ことと作者の転生


 sho_taさん「『頭のいい人が書く文章』問題について考えている」に反応します。

(「頭の良い人は難しいことをわかりやすく書けるものだ、理解ができないような難しい文章を書いている者はバカである」といった意見があるが)
「何が書いてあるかよくわからない文章に出会う」ということ、そしてそれを「理解しようと思うこと」ないしは「書いてるヤツがバカなんだ」と断じてしまうことは、おそらく「学び」というものに対する本質的な作用と態度に通じる(気がしている)。
(・・・)
「すでに知っていること」が書かれている文章なら、普通、読む気は起きない。「興味深く読む」という時は、たいてい「そこには自分のまだ知らないことが書かれている(ことが確信できる)」という状態だ。
(・・・)
つまり、「(その文章を読んだ時点での)自分には理解できない文章を読む」という行為に必要なのは、読解力とか論理構成能力とか経験とかよりも、信仰心とか好奇心のようなものが重要なのだろう。

 sho_taさんが「一目惚れ」と言い、コメント欄で草さんが転移とハッキリ言ってしまっている通り、テクストの読解に人を向かわせる力は、「まだ何かがある」予感、余白=周縁mergeへと投げ出される欲望、「この人はわたし以上にわたしを知っている」、つまりsujet supposé savoirの想定から来るものでしょう1
 草さんはわかって書いているはずですが、一応補足しておけば、想定される「作者」とは狭義のニンゲンの作者である必要はありません。現代のコンテクストではそれを「作者」と呼ぶことが一般的であるだけです。重要なのは「読まれることを予感していた者が誰かいる」ということです。無人島の砂浜に足跡を見つければ、それは記号signeですが、足跡を消した跡があるとすれば、それはsignifiantである、つまり「主体」が想定される、ということです2

 件のsho_taさんのテクストも含め、関心を持つ人の多くがこのあたりは了解済みのように思われるので、以下ではエッジのオイシイところだけ断片的に取り上げます。ここまででもかなり端折っている気がしますが、その辺を埋める地味な仕事はA型後衛タイプの草さんがやってくれる予定なので、省略して走る役に徹します。


 まずいくつか、些事を整理しておきます。

 一万歩譲って「頭の良い人には難しいことをわかりやすく書く能力がある」としても、その能力を発揮してくれるかどうかは別問題です。わかりやすく書くこと、難しく書くこと、それぞれに利得があります。逃げれば追いかけ、やって来ると引くのが恋愛ですが、あんまり逃げすぎると追いかけてきてくれなくなります。これと一緒で、易しさと難しさを自由に操れる位置にいたとしても、それをどう使うかには駆け引きの要素が多いに作用します。加えて、大抵の人間は完璧に駆け引きを操れたりはしません。最後の点は、後述する重要でエロティックなポイントに関連します。

 「まだ読んでいないテクスト」は「既に読んだテクスト」の何億倍も存在しますが、人は普通、それらについて「どうせつまらない」とは言及しません。「どうせつまらない」も何も、触れることも意識に上ることもない、ということです。
 「どうせつまらない」とか「バカが書いている」「読む価値がない」など言及するということは、既に「惚れて」しまっている、ということです。「好きの反対は無関心」ですから、「アンタなんて興味ないんだからっ」なんて口走ってしまうのは、既にトラップに嵌っています。もちろん、大いにハマッて良いと思います3

 では、トラップに「嵌めて」いるのは誰でしょうか? ここからが問題です。
 そこで想定されるのが「作者」ですが、「作者」は文字通りにそのテクストを書いた血の通ったニンゲンではありません。
 もちろん、テクストはニンゲンが書いたものなのですが、嵌められてしまった者を嵌めた主体、それはニンゲンにあってニンゲン以上のものです。
 恋愛には常に「彼の中に彼以上のものを」読み込んでしまう要素がありますが、「作者」にもそのような幻想的性質があります。何か難しいことが書いてあって、思い悩んだ挙句作者の家を訪ねていったら、書いた本人はすっかり忘れていた、というのが「作者」です。
 ですから、「作者」は故人を想定する方が適切です。難しいが魅力的なことが書いてある。わからない。わかりたい。そして「真意」の最終決定者として想定されるものは、呼びかけに答えない者である。それが「作者」です。

 では書いた当人にとって「作者」とは何でしょうか。まだ生きている「作者」であるなら、意味の最終保証人を自認できるのでしょうか。
 件のエントリのコメント欄で、sho_taさんが以下のように書かれています。

 我々の思考は「言葉」に縛られているわけで、特にそれを表出してしまう時、「意味」に付随していたはずのモヤモヤドロドロしていた部分が削ぎ落とされてしまうわけだけれども(だから「何か変なこと思いついた気がする」と思って書き始めて、自分で読み返してみると「こんなことだっけ?」と思ってしまう)、それがテクストとして他者に絡みついた時、特に絡みついて別の何かと交ざって熟成した頃合いに、新しい別の「モヤモヤドロドロ」が発生するわけで、それはつまり「作者の蘇り」というよりは「転生」みたいなもんなのかな、なんてあたりです。

 ここには重要な洞察がいくつか含まれていますが、まず「書いてしまう」ことで「憑き物が落ちる」感じについて。
 実際に言葉、形にしてみると「思ったものと違う」ことがよくあります。さらに、これがある種の失敗であるにも関わらず、自らのテクストとして表出してしまう、ということがあります。というより、ほとんどのテクストは「完全ならざるもの」として、それでも著名を付されて読者に晒されてしまうのです。極端な例では、(読まれることを必ずしも望まれていなかったらしい)カフカやヴィトゲンシュタインの遺稿すら、わたしたちは手にできるのです。
 正確に言えば、落ちてしまった憑き物、それを書いた人が「作者」です。ですから、生きているリアル作者の方は、ある意味既に「作者」ではありません。「作者」とは一人の死者に他ならず、書いた人はまだ生きているのですから。
 書いてしまったもの、そこから残余として零れ落ちたのが< わたし>です。「作者」は死に、< わたし>はまだ生きている。これは読者が「まだ何かある」、つまり残余に惹かれてテクストに向かってしまうことと並行的です。
 血の通っている方の作者は、テクストが読まれることのもたらすパフォーマティヴな効果も勘定に入れようとするでしょう。巧拙が人それぞれだとしても、難しく書くこと、易しく書くこと、それらがもたらす「モテ」を完全に捨象する、という事態は考えにくいです。しかし、常にテクストのモテは書く者の自由にはなりません。なぜなら、「モテ」ている作者、それは既に< わたし>ならざる一人の死者なのですから。

 すると、「作者はもう死んで、別人なのだから、わたしに聞かれてもわからないよ」と言ってしまってよいでしょうか。ここから先は、名と倫理の領域になります。
 確かに権利上、「作者」とまだ生きている< わたし>は別人です。恋人が自分に抱くイメージが、完全なわたし自身の写しではないように。
 そうしたイメージを投影されてしまうことは鬱陶しいことであり、「そんな幻想のことは知らん!」と切りたくもなります。実際、すべてを引き受けていたらキリがないので、切る場合も多いにあるでしょう。
 一方、そうした幻想も込みで引き受けてしまう、という瞬間があります。「落ちた」ということでしょうか(笑)。
 「落ちる」ということは、自分が「作者」であることを認めてしまうことです。生きた< わたし>でありながら、同時に死んだ「作者」である、つまり部分的に死者であることを引き受けることです。
 逆説的にも、わたしたちが生きるということは、部分的に死者になることです。わたしたちは「汝は・・」という名指しによってこの世界に(望みもしないのに)召還されてしまったわけですが、名付けるということは墓標を刻むことと似ていて、ある意味「生まれながらの死者」として最初から登録されているわけです。もちろん、それは「すべてではない pas toute」。何か余りがあります。< わたし>は消滅していません。少なくとも「わたしが作者である」という逆説を口にする< わたし>が残っています。
 翻せば、「わたしが作者である」(「わたしはあなたの妻である」「わたしは責任者である」・・・)と引き受けてしまっても、正に引き受けている限りで、わたしは完全には死なないのです。そして完全に死なない程度に死ぬこと、「責任」なる謂れ無きものを背負って死者となることが、わたしたちに与えられた倫理的責務です。
 もう少し正確に言うなら、ここでの責任とは「書いたことに全面的責任を負う」「二言なし!」などという一面的なものではなく、書いてしまったものに対して遅ればせながら「作者」として登場し、「いや、あれはそういう意味じゃなくてね・・」などと言い訳することも含めての「責任」です。社会的責任という視点から言えば、「無責任」に振舞うことも含めて、とにかく「生きているはずのないもの」として口をきくことが、この場合の「責任」でしょう。

 落ちた「憑き物」は死者として漂流するわけですが、それが別の人に憑依してしまうことがあります。正に「まだ何かある」ものとして、読者を魅了してしまう時です。これがsho_taさんの言っている「作者の転生」でしょう。
 正確に言えば、「作者」は死んでいるのですから「転生」ではないのですが、もう少し考えると「生」で良いかもしれない、とも思えます。なぜなら、憑依したモノはまだ読者の中で生きていて、御祓いが済んでいないのですから。彼または彼女がまたそれを形にし、「作者」を落とすことができれば、供養できたことになるのでしょう。

 少し話が飛ぶのですが、「わかった!」という瞬間の問題がここに関係してきます。
 sho_taさんは「テクストは『わかる』前に読まれるが、もし『わかる』ことが『度量衡が変わる』つまりパースペクティヴの転換であるなら、『わかった!』瞬間はどう位置づけられるのか」といった問いを立てています。
 「わかる」ことについては、件のエントリでsho_taさんが引いてくれているテクストも含めて何度も書いています。「わかる」ことには、「連続性の中に位置づける」という通念的理解に反し、連続的なもののミクロなつなぎ目にはシナプス間の距離のような不連続性があり、これがバチッとつながって「通路」が形成される瞬間があります。
 「わかっている人」は誰でしょうか。もちろん、真意の保証人たる「作者」です。「作者」とは一人の死者のことです。
 つまり「わかった!」は、死者になることです。バタイユではないですが「小さな死」と言ってよいでしょう。
 しかしそっちに行きっぱなしですと「小さな死」が本当の死になってしまいますので、時間が経つと「わかった!」感激も薄れて執拗なる< わたし>が返ってきます。
 これは「作者」を落とす行為とパラレルで、何かを語り出す、表現することで「必然的誤読」を引き受ける、というのは、死者の世界から生ける者の世界へと帰ってくることでしょう。帰ってきたもの、それが< わたし>です。語りきれなかった残余です。
 ですから、わたしたちが生きているということは、「まだ何かがわかっていない」ということとほとんどイコールです。「わかった!」あとには凪のような「わかっている」が来そうですが、「わかっている」と慢心した時は大抵「わかっていない」ものですし(笑)、「わからない」ことこそホメオスタシスの賜物でしょう。

 ただ、このホメオスタシスの力というのも、年とともに衰えるもので、「わかっていないのはわかっているけれど、でも・・」と腰が重くなってしまうのが人の性です。死ぬ勇気がなくなった時が、本当の死の訪れる時なのでしょう。
 果敢なラヴアタックの精神を忘れたくないものですね、と無難に〆ても良いのですが、「お前はもう死なないでも良い」と死刑宣告してもらって静かに眠りたい、という麗しい夢からも覚められないワタクシなのでした。

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  1. コメント欄で草さんが仰っているわたしが以前に書いていたらしいテクストとは、「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」あたりだと思います。似たようなことばかり書いているので、違ったらごめんなさい。 []
  2. この譬えはラカンがどこかで書いていたはずなのですが、いくら探してもどこだか思い出せません。もしかしてわたしの妄想ですか。 []
  3. 「騙される練習」でいうところの「騙される」こと。ちなみに「アンタなんて興味ないんだからっ」とリアルに口走る女はいないと思うのですが、このファンタジーは結構好きです。口走ってみたいです。頭悪いです。 []

“「わかる」ことと作者の転生” への 3 件のフィードバック

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  2. ピンバック: 草日記

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