『コーラン』井筒俊彦


『コーラン 上   岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦 『コーラン 上 岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦

 現在日本で入手しやすいクルアーンの翻訳(※1)は三つあり、一つが岩波文庫収録の井筒俊彦さんの訳、中公クラシックス収録の藤本勝次さんらによる訳、もう一つはムスリム三田了一さんによる翻訳です。このうち三田了一訳はムスリムを対象としたアラビア語対訳本です(日本ムスリム協会から直接入手する形になるようです)。
 よって一般的な「日本語訳」は井筒訳と藤本訳の二つということで、よりスタンダードなのは井筒訳ですが、そもそも翻訳のスタイルが好対照を為しています。各翻訳の傾向については前にご紹介した大川玲子さんの『聖典「クルアーン」の思想』が詳しいのですが、受ける印象としては、井筒訳は「口語訳」、藤本訳は「平易な聖典の翻訳」。井筒訳は「口語」と言っても現代的な話し言葉という意味ではなく、いかにも「聖典」といった当時の文語的翻訳スタイルに対する「口語」であり(※2)、一定の格調を保ちつつ、アッラーフがムハンマドに「語りかける」というクルアーンの様式をよく反映したものとなっています。
 これに対し、藤本訳はアッラーフも「神」と表記し、文体もクセがなく、岩波文庫的な割註も入らないため、見た目にもキレイな翻訳です。キリスト教聖書で言うと新共同訳のようなイメージです。
 どれを取るかは好みや目的次第でしょうが、わたしが通読したのは井筒訳。依然圧倒的に教養の足りないわたしにとっては、丁寧な割註は便利ですし、何より井筒先生のドライヴ感溢れる文体に惚れました。こういう口調のクルアーン翻訳というのは、世界的に見ても珍しいのではないかと思います。
 井筒先生の文体を伝えるために、解説の中から一部引用してみます。

マホメットは大体四十歳の頃から自分でも訳のわからない妙な気持ちに突然襲われて、異様な言葉を吐くようになるのだが、その最初の頃の体験はまるで何か恐ろしい病魔の発作のような猛烈なもので、激しい痙攣に全身から脂汗を流し、言い知れぬ苦悩に心身をさいなまれた。その時期の天啓は現行『コーラン』で言うと最後の部分におさめられている。それらはいずれも十句、二十句、あるいはそれ以下の小さなもので、全体に異常な緊迫感が漲り、謎めいた言葉がまるでちぎり取られた岩石の塊のように力強く投げ出されて行く。語句はいずれも短く鋭角的で、それの積み重ねが、実に印象的に、その時のマホメットの切迫した、きれぎれの呼吸を読む人に伝えて来る。そして一句一句の区切れごとに執拗に振り下ろされる脚韻の響きの高い鉄のハンマー。これは到底翻訳できるようなものではない。

 実にこぎみよく、音楽的な文章です。アカデミズムの真ん中にいる人間で、こんなカッコイイ文章を綴れる人間がどれほどいるでしょうか。
 ここに書かれている通り、クルアーンは原則として年代を遡る形で編まれており、かつ初期に近づけば近づくほど一章が短くなっていきます。つまり、第一章の「開扉」を別格とすると、第二章「雌牛」が最も長く、最後の方は詩篇・断章のような形式になります。
 最初期の鬼気迫る黙示録的世界に対し、メディナ期(ヒジュラ=マディーナへの遷都以降)のテクストは散文的で、アッラーフも少しお優しくなっています(笑)。初期啓示が観念的で、裁きの強烈なイメージが支配しているのに対し、「離縁して復縁できるのは二回まで」など日常の決まりごとが言及されます。
 時代を遡行しながら読み進めていくわたしたちとしては、行けば行くほど余裕がなくなり、ナタで切り落とすような断章に突入していきます。この展開は非常にエキサイティングで、井筒訳の下巻三分の一も過ぎると胸がドキドキして「もうアッラーフにおすがりするしかない」という気持ちになっていきます。素晴らしいです。
 以前にオウムの修行テープを入手して聞いたことがあるのですが、あれも独特の高揚感がありました(わたしはオウムには惹かれませんでしたが)。宗教的なものに接近しようとすると、どこかで物語的理解を否定し、さらに「理解」「解釈」という枠組みすら捨て去る必要があります。この辺りはエントリを分けて詳解しますが、解釈の放棄とは、単純に「理解してはならない、繰り返せ」ということで宗教的権威を涵養しているわけではなく「理解せよ、しかし理解してはならない」という矛盾した命令です。優れた聖典とは、このエロティックな絶対矛盾を力強く伝えるものです。

 クルアーンにはキリスト教聖書のような物語性はほとんどありません。そして「物語性の無さ」と「理解せよ、しかし理解してはならない」はパラレルな関係にあります。わたしたちの「理解」とは、リニアな因果関係を了解すること、と通常捉えられているからです。
 通時的で起承転結のあるテクスト、という視点は特殊近代・西洋的で、しかもアメリカ式に離乳食化されたもので多くの日本人は汚染され切っています。イスラームを産んだアラブの文化は、こうしたリニアな時間観とは対照的で、ブツンと切れた点が並んでいるようなモナド的宇宙です(もちろんイスラームはアラブだけのものではないし、例えばペルシャ的時間はアラブ的時間とはまったく異なる)。クルアーンに向かおうたる者、ドナルド・ダックを踏み潰し進まなければなりません。
 そして、わたしたちが慣れ親しんだ「理解」イメージ、それもミクロな領域まで拡大すれば、点と点の間に必ず断絶があります。「理解」とは、線でつながることであると同時に、線の成立自体という非連続性があります。「わかる」ことの根底には「わからない」があり、統合失調症において事物が連合野を越えてバチッ!とつながるように(「赤い車だからCIAだ!」)、隠喩的なジャンプの成立する瞬間があります。
 「連続性」の世界に浸りきっている人間がクルアーンに向かうと、当初は苦痛の連続を味わうはずです。しかしそれに耐えて進むと、ある時、決定的ジャンプの高揚感を知ることになります。矛盾する命令のエロティズムとは、そういうことです。

 井筒先生も指摘されている通り、ヘブライ語聖書(旧約聖書)ギリシャ語聖書(新約聖書)に馴染んでいると、入り込み易いです。周知の通り、イスラームはユダヤ教・キリスト教に続くセム系一神教として誕生したわけで、クルアーンの中にも至るところで聖書の内容が表れます。とはいえ、聖書を読んでいないと理解できないわけですし、井筒先生の丁寧な解説もありますから、クルアーンを読んでから聖書に向かう、というのも悪くないと思います。
 ちなみに、聖書と比較するとすれば、時代的には離れているはずのヘブライ語聖書に印象が近いです。つまり、暗く激烈で、怒りと恐れに満ちた砂漠の世界です。おそらくこちらの方が本来のセム系一神教であり、キリスト教はパウロ教と言われる通り、ラテン的「物語性」によって色づけされているのでしょう。

 クルアーンについて、井筒訳について、書きたいことは山ほどあるので、とりあえず今回は翻訳・文体のスタイル紹介に留めておきます。
 なお、わたしが気に入っているクルアーンの断章については、クルアーン筆写という別ブログにポストしています。

※1
クルアーンは原則として翻訳を認めないため、厳密には「解釈」の一種とされる。

※2
部分的に読んだ印象では、大川周明訳はこうしたスタイルに入ると思います。

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「『アメリカの中のイスラーム』 大類久恵」
「『イスラーム戦争の時代』 内藤正典」

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