オデュッセウスは豚の声を誤解したのか、魔法にかけられたのは誰だったのか、魔法は誰がかけたのか


 sho_taさんが「誤解こそ理解」と「誰が書いたのか問題」についての一考察でとても面白いことを書かれているのですが、今一歩のところで通念に引っ張られて、ミスリーディングになってしまっている感があります。「まだどこかに自律的な主体がある」かのような印象を与えてしまっているのです。

ようは相手に興味を持たせるには、まず自分をミステリアスな存在だと思わせろということであり、ラカンという思想家はこれが悪魔のようにうまかったわけです。

 そのラカンが「エジプト人の謎はエジプト人にとっての謎」といった言い回しをしていたのをsho_taさんは覚えていらっしゃると思いますが、あれほどエロティックで人を狂わせるラカンであれば、自分で何を言っているのかもよくわかっていなかったのでしょう。
 「お前、自分の言っていることがわかっているのか」という非難の表現がありますが、重要なことを口走る時、大抵わたしたちは自分の言っていることがわかっていません。ただ、わかっていないということがわかっていないのです。代わりに「わからない」ことに誰かが気づきます。つまり、誰かが「わからない」とわかります。これがトラップされた方の人です。
 ここで大切なのは、トラップされた人は確かにトラップされているのですが、トラップを仕掛けた本人などというものは存在しない、ということです。魔法は誰もかけていません。喋っている当人は、「わからない」ということすらわかっていないのですから。
 ただ彼または彼女は、「わかっていない」が故に問いを立てない。立てないから、代わりに誰かが立てる。答えのないところに、問いを立ててしまうのです。
 ラカンが「悪魔のように」意味深な語らいが巧みだとしても、魔法はかけていません。かけようとしたのかもしれませんが、多分、わたしたちはその魔法にはかかっていません。強いて言えば、ラカンは魔法の使えない悪魔です。悪魔なので魔法にかからず、彼がスルーした魔法にわたしたちがヤラれているのです。

 エントリ末尾でsho_taさんは

■「言葉」は常に「誤解」込みで伝わる
■どう「誤解」するかは、受け手次第

 とまとめられているのですが、ここでは逆に「受け手」の自律性が匂わされてしまっています。
 彼は、魔法でブタに変えられてしまった部下の声を聞くオデュッセウスの例えを挙げています。

 魔女はオデュッセウスの部下たちを魔法でブタに変えてしまうわけですが、そこはさすが主人公、ブタたちがブーブー鳴いているのを聞いて、「あ、こいつら、魔法で変えられた俺の部下ぢゃん」と気づきます。
 これ、よく考えると不思議ですよね。なんでオデュッセウスは「ブーブー鳴いているだけの声」を、「助けを求める部下の声」だとわかったんでしょうか?

 答えは簡単です。その豚が魔法で豚に変えられた部下だからです
 ここで上のstatementをthat節に入れて「と、オデュッセウスは考えた」などとメタ化してしまうと、途端に袋小路に迷い込みます。
 「と、考えた」など要らないのです。
 端的に、その豚は魔法で豚に変えられた部下なのです。

 なんだか後期ウィトゲンシュタインのようで、それこそムダに意味深な言い方になってしまいましたが、「吝嗇なる相対化を諦念せよ!」などと言いたいわけではありません。正確には言いたい欲はあるのですが、そう言いたい人、言っちゃう人がいる一方で、言わないでグズグズとモラトリアムに肛門的相対化を繰り返す人もいます。「色んな人がいる」という意味ではなく、これは全部一人の人間の上に起こりうる出来事です。
 わたしたちは、いつでも相対化することができる(可能的に物事を思考できる)一方、しない時もあります。それは「これ以上メタ化不可能な限界」がどこかにあるからではなく、そのような零度の言説が存在せず、むしろ常に可能的なる「控え」を手にしているからこそ、安心して「うっかり」絶対化してしまうことができるのです。
 この絶対化は、紛れもなく「うっかり」であり、失敗です。
 オデュッセウスほどの知者であるなら、少し冷静になって「いやいや、よく考えてみればこれはただの豚の鳴き声だ。最近寝てないし、ちょっとオレもおかしくなっているんじゃないか」くらいのツッコミは入れられて当然です。でも、彼はそれをしませんでした。何故でしょうか。
 「うっかり」です。
 例え彼がその晩ぐっすり寝て、自分の「うっかり」に気づいたとしても、遅すぎます。もう、「うっかり」してしまったのですから。翌日急いで豚のところに駆け戻って「お前はただの豚だ!」と叫んだとしても、取り返しがつきません。豚に話しかけているただの変な人です。彼が豚に部下を見出した、その瞬間は既に過ぎ去ってしまっているのですから。
 強いて言えば、この「時間の壁」が「メタ化不可能な臨界」であり、「そこにこそ世界があったはずの場所、わたしがわたしであった時」です。「うっかり」していた時だけ、オデュッセウスはオデュッセウスでした。豚は部下でした。ぐっすり眠ってしまったりしたら、せっかく見つけ出した部下は、また何処へともなく消えてしまうのです。
 夢の中で、空を飛ぶ魔法を見つけたならば、すぐに飛ぶことです。後で飛ぼうと思っても、目覚めた時には遅すぎます。
 もちろん、わたしたちは常に「せっかくだから」と飛ぶ魔法を控えてしまいます。「控える」とは、飛ぶのではなく「飛ぶこと」を手帳にメモするように、「保存」「備蓄」してしまうことです。すなわち、肛門的吝嗇、便秘です。それは決して溜め込むことも留保することもできないものだったのに。時は常に流れ、生は地平線の向うに「落下」し続ける人工衛星にすぎないというのに。

 「永遠の落下」を信じようとするのは、ホメオスタシスの力です。明日もまた日が昇り、目は覚める。これが信じられなければ、わたしたちは不安で不安で眠りにつくことなどできません。
 しかし、致命的なことにも、わたしたちは「うっかり」することがあります。この時、本当にわたしたちは目覚めることがなくなります。目覚めという夢に戻ることなく、イルマの喉の奥に現実的なるものを発見してしまうのです。つまり、その豚が魔法をかけられた部下の変わり果てた姿である、と。

 オデュッセウスはなぜ「ブーブー」が「助けを求める部下の声」だとわかったのか?
 オデュッセウスが「誤解」しようとしたからではありません。そもそも意図して解釈するものを「誤解」とは呼びません。受け手に自律性などありません。
 もちろん、豚がオデュッセウスを「惑わせた」わけでもありません。「発信者」にも自律性はありません。豚こそ「自分の言っていることがわかって」いません。
 豚は、ただただ彼の可哀想な部下だったのです。

 もう、時間がありません。
 走れ、オデュッセウス、夜が明ける前に。目覚めがすべてを霧に包む前に。

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