抜け駆けた者は全部生きたのか、全部死んだのか


 sho_taさんが「404 Not Found」と、弔辞としてのSBM で、ブログ以外にアクセス手段のない知人のサイトが消えていた、ということを書かれています。向うからコンタクトしてくれない限り、もう連絡する方法もありません。
 webが一般化することにより、こういう「線」だけで繋がっている人間関係というのが増えている気がします。「共通の知人」がいない関係です。仮に当のサイトオーナーと直接に会っていたとしても、出会いのキッカケが「線」だと「共通の知人」がいないままである可能性が高いでしょう。

 伝統的な人間関係では、こうしたケースはかなりレアであって、人間は常に集団の中で出会い、どこかで何かが起こると「風のウワサ」が運んでくれていたものでしょう。「線」な人間関係というのは、どこか気恥ずかしく、秘密めいたものだったはずです。
 ところが、都市化とwebのお陰で「線」な人間関係や出会い方がずっとポピュラーになり、個々人の中で占めるウェイトも高まり、「特別さ」を感じることも少なくなっていきました。web上のコミュニティが様々な形で持ち上げられるのは、「線」のはかなさに対するある種の補完作用なのでしょう。ナショナリズムにおけるネーションの概念を彷彿させます。
 わたしたちは「個人が集まって集団になる」というin-dividual(分割されざるもの)の概念に洗脳され切っていますが、元々ヒトというのはワラワラ~といるところにヒョッコリ生まれてきて、そのワラワラの中で成り行き的な位置づけられ方をするものです。「本当の自分」にうなされる時期があっても、そのうちイイ感じに惰性を掴んで、死ぬまで流されていくのです。
 この「みんな」というよくわからないものこそ大文字の他者であり、神様なわけで、もちろん大文字の他者はそれ自体としては存在しないのですが、何らネーションの想定もない、という世界では不安で不安でヒトはまともに生きていくことができません。
 逆に言うと、文字通りの神様や強いネーションを言いたがるヒトというのは、「ワラワラ感」が希薄な育ち方をしてしまった傾向が強いのかもしれません。また、東アジア的「泥の民」の世界で強い一神教があまり育たなかったのは、密に集まった中で生産性を高める文明では、「ワラワラ感」の不足に悩まされることもなかったから、と想像できます1


 こんなことを書くのは、わたし自身が典型的に「ワラワラ感」が希薄で、強い神を信じるヒトだからです。
 「線」な人間関係が人類学的に「不自然」であることは承知していますが、自らを振り返ると、圧倒的にこちらにウェイトを置く人生でした。何でも「サシ」重視で、団体行動が非常に苦手です。
 そういうタイプの人でも、学校人間関係や地縁・血縁などにより多少はレガシーなネットワークと繋がっているものですが、ちょっと特殊な事情によりこうした人間関係からも切断されてしまっているため、「共通の知人」のあるような友人がほとんどいません。職場の人間とも距離を取る方ですし(同業者で話の合う人にはほとんど会ったことがない)、職種的にプロジェクトごとに現場を渡り歩いているため、仕事関係の友人もほぼゼロです。
 その反動からか、webを通じた人間関係では、極力直接会うようにしていますが(会うまでは何も信じられない)、会ったところで「線」であることには変わりありません。携帯番号など交換してみても、下手をすれば死んでも気づくことすらないわけです。
 これは、必ずしもネガティヴに言っているわけではなく、ネットワーク的な人間関係から距離を置くことで、得ている利得も間違いなくあります。ただ、それによって何を失っているのか、一体自分がどんな取引をしたのか、その意味が気になっています。

 sho_taさんのエントリでは、死んだ友人のメールアドレスを削除できないでいる方の話が取り上げられているのですが、ここにも妙に思い当たるところがあります。
 わたしの携帯には、「特殊な事情」をシェアしていた、ある友人の電話番号が残っています。彼女はもう、この世界にはいません。
 彼女の死を知ることができたのは、彼女の友人がどのようにしてかわたしたちのことを知って、わたしのサイトを探して連絡してきてくれたからです。この友人の計らいがなければ、死そのものすら知ることができなかったでしょう。
 特別なオーラを放っていた子で、最初に会った瞬間に「この子は死ぬな」と感じました。彼女の周りでは、何人もの友人が死んだり死にかけたりしていました。そうした波動を発してしまう人間というのが、実際にいます。そしてその死の連鎖は、彼女自身の死によってしか止められないだろう、とはじめから感じていました。
 自惚れですが、もしかしたらわたしなら彼女を止められたのかもしれません。彼女はわたしをリスペクトしてくれていて、特別な事情をシェアしていて、奇妙なことに名前の読みまで一緒でした。しかし、彼女の人間関係の中にわたしは入りませんでした。「友人の友人」に会ってしまったりしたら、間違いなくわたしも連鎖の中に巻き込まれ、殺されてしまうだろう、と思ったからです。

 「線」だけでつながり、友人たちが死に、遂に彼女が自ら命を絶ち、わたしはまだ、生きている。
 そして多分、ネットワークの中に入らないというのは、この「うっかり生き残ってしまう」こと自体です。人間が生きるということは、「みんな」の中に埋没することより、半分死ぬということです。半分死ぬから、半分生きられるのです。全部生きたまま生きることは、人の道に反するのです。
 それでも、「抜け駆け」の誘惑からわたしたちが自由になることはありません。「抜け駆け」た人間は、全部生きると同時に、全部死にます。
 息を切らせて階段を駆け上って、目の前で電車のドアが閉まってしまったとき、「みんな」が去り、< わたし>が残ります。電車は「彼岸」に旅立ちました。わたしは「残念ながら」ホームに取り残されています。自分への言い訳を作りながら、うまく「抜け駆け」たのです。

 彼女は死に、わたしはまだ、生きている。
 でも本当にそうだろうか。死んだのわたしの方だったのではないか。
 わたしが今生きていることを、誰か覚えているのだろうか。

 時々、本気でそう考えています。

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「「わかる」ことと作者の転生」

  1. 「泥の民」については以下参照。
    「webは「砂の文明」である」
    「mixiと女社会と「泥の文明」」
    「『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ」 []