ネットがなければテレビは要るのか


 テレビの凋落が指摘されるようになって久しいです。地上波デジタルへの移行が近づくに連れ、ますます目にする機会が増えているようです。
 たけくまメモ「竹熊さん、インターネットはヤバイですよ。」もそうした「既存メディアはもうダメ」論の一つとして、面白く拝読したのですが、これを読んでいる時にふと思ったことがあります。
 現在のネット上における「テレビヤバいよね」論の主流には、「ネットが普及した結果、テレビの意義が相対的に低下した」という認識があるのではないかと思います。これは端的に事実でしょうし、広告収入の減じた結果、追い詰められたテレビがますます品性下劣な方向に走る、という現象もあるのではないかと思います。
 ただ、ネットが普及する以前から広義の「テレビ批判」というのはあって、これとの関係から、「テレビはもうダメ」観の中には二つの流れがある気がするのです。

 ネット以前の「テレビダメ」論とは、要するに「テレビばかり見ているとバカになる」的な主張です。新しいものが登場した時には、何でもこの手の批判を受けるもので、テレビが唯一の受難者というわけではありません。
 カフカの翻訳者である池内紀のご子息で、アラブ研究者の池内恵さんは、1973年の生まれにも関わらず家にテレビがなかったそうです。テレビなる品性下劣なものは置く必要がない、という教育方針だったようです。
 わたしの知人にも、ガンダム世代ど真ん中の男の子にも関わらず、親が厳しくて一度もガンダムを見ずに育ってしまった人がいます。こういう「共通の記憶を奪われる」経験については、批判される向きもあるでしょうが、ガンダムのある人生にもガンダムのない人生にもそれぞれの良さと悪さがあるでしょうし、特段「悪い」こととも思いません(本人も別に興味がない様子)1
 わたし自身、禁止とまでは言わないまでも「テレビに好意的ではない」家庭に育ち、同世代の他の子に比べると「共通の記憶」がやや薄いです。ただ、その代わり本だけはふんだんに与えられ、わたし自身も本の方がずっと好きで、かつ幼少の頃より人付き合いが悪かったので(笑)、「他の子は見ているのにわたしだけ」的な怨嗟を抱いたことはありません2
 こうした「非テレビ的」育ち方をしても、テレビが好きになる子は好きになりますし、成人してから反動で「テレビ的」になる人もいるでしょう。逆に、あまりテレビを見ない人間に育ったからと言って、親の思想ほど「反テレビ」を鮮明にするケースは少ないと思います。
 そうした意識化できる「反テレビ性」が少ないだけに、超自我の刷り込み的に「どうもテレビというのはよろしくないのではないか」という感覚を植えつけられていることがありえます。はっきりと言葉にはできないものの、何となくテレビというのは良からぬものなのではないか、という気がしてしまうのです。
 「反テレビ」な親は、屁理屈であれ何であれ、テレビが好ましくないことの理由を持っています。ですから、これは絶対的な価値判断や倫理観ではありません。しかし、「テレビはダメ」ということがまずインプリントされた子供の場合、特段テレビがいけない理由というのを説明できないにも関わらず、何となくテレビは悪なのではないか、と感じるようになってしまうのです。
 これをそのまま「テレビは良くない」という持論にしてしまうほどストレートな方は滅多にいないでしょうが、「テレビはテレビで便利な時もあるよね」な大人に育ちつつも、心のどこかで「時間の無駄なんじゃないか」「今自分はテレビを楽しんでいるけれど、これは倫理的に良からぬことなのではないか」という気持ちを持ってしまうのです。
 わたし自身、二年ほど前までテレビ自体を持っておらず、今も普段はコンセントを抜いているくらいの使用頻度なのですが、その背景にあるのは単に「テレビ要らない」「興味ない」という合理的(?)判断だけではない気がします。

 現在進んでいる「テレビ離れ」のほとんどは、こうした経緯でテレビを見なくなったものではありません。
 ネットが発達し娯楽も多様化した結果、もっと単純にテレビの相対的価値が下がった、というだけのことでしょう。そして「テレビはもうダメ」論のほとんども、こうした合理的判断に基づくものなのではないかと思います。
 しかし一部に、ネット普及以前から大してテレビなど見ていなかったくせに、ネットの到来した今「遂に審判の時がやってきたのだ!」的な無意識の解放感を得てしまい、ここぞとばかりにテレビを叩いている向きもあるように感じます。少なくとも、わたしがテレビの批判をしていたら、その裏にはこうした心的動因があるはずです(笑)。
 「審判派」の反テレビ論者の多くは、おそらくこんなダイナミズムを意識化はしていないでしょう。もしかすると、今の若者がテレビを見なくなっていっている理由など、全然理解していないかもしれません。にもかかわらず、自分が今まで嫌悪・軽侮していたテレビからいよいよ人民の心が離れたことをこれ幸いに、「やはりテレビなど要らないのだっ」と声を上げてしまうのです。

 といっても、そうした「呪いパワー」によるヘンテコなテレビ批判を否定しよう、というのではありません。それはそれで面白いんじゃないか、とすら思っています。むしろ、せっかく呪いを背負って育ったのに、「ネットがあるからテレビは要らない」などと当たり前のことを言うだけではもったいないです。テレビもなければネットもない、というオプションだってあり得るからです。呪いを受けた者は、その呪いを運命として受け入れ、開き直った方が楽しいです。
 個人的に、ネットには大いにお世話になっていますが、あんまり依存したくないなぁ、とも思いますし、なくなってしまったからといって絶望もしないし、テレビもつけないでしょう。海外の何人かの友人・知人とコンタクトの方法がほぼ失われてしまうことは、大きなダメージでしょうが・・。
 繰り返しますが「ネットがあるからテレビは要らない」というのは至極尤もな主張だと思います。その上で「ネットがなくてもテレビは要らない」という主張が小さな声で呟かれても面白いんじゃないかなぁ、ということです。この主張は大多数の人には振り向きもされないでしょうが、振り向かれないような主張が無駄を承知でわめかれない世の中は退屈すぎます。

4839922292 ネット広告がテレビCMを超える日 (マイコミ新書)
山崎 秀夫
毎日コミュニケーションズ

  1. テレビ禁止が「奪う」としたら、それは「共通の記憶」よりもむしろ、「第三項的な楽しみを分かち合う」精神なのではないかと思います。もちろん、「第三項的な楽しみ」はテレビだけではなく、伝統的には祭祀や地元の慣習などの共同体的な営みこそ分かち合われていたはずですが、核家族化・都市化の進んだ戦後日本にあっては、「テレビを一緒に見て、それについて語り合う」体験が「第三項的な楽しみ」の共有を代理したいたと考えられます。
    こうした時代に、「テレビを見ないで本ばかり読む」育ち方をすると、「楽しいものを分かち合う」ことに過剰に敏感になってしまう可能性があります。「大切なものは自分ひとりで楽しむものであり、軽々にシェアしてはいけないのではないか」という警戒心が育ってしまう、ということです。
    一般的には人格が歪むほどこの傾向が強化されることはないと思いますが、わたし自身には多分にこの傾向があります。分かち合っても減りはしないし、傷つけられることも余りないはずなのですが、おそらく「軽く口にして全否定されたらどうしよう」という不安が過剰なのではないか、と思います。意識レベルで常にこう考えているわけではもちろんないのですが・・。 []
  2. 図書券を惜しみなく与えられ、十歳の誕生日プレゼントはモーリス・ルブランのルパン全集でした(笑)。漫画も嫌いではなかったので、今考えるとコミックを買ってしまってもおかしくなかったのですが、小説ばかり読んでいました。漫画はすぐに一冊読み終えてしまい、何巻も買わなければならないので、ケチなわたしは「字の本の方が得」と考えていた気がします。その代わり漫画はよく立ち読みしました。漫画家の皆様、ごめんなさい。 []