子供解放


 404 Blog Not Foundさんの「貧乏な社会で子を産むな」が感動的に素晴らしいです。「一人っ子政策」中国での子育てが思いのほか楽で、それが社会の支えによるものだった、という経験が書かれているのですが、特にステキなのが結びのこの一節。

「無責任な大人が多すぎるよ。」
そういうあなたは、自らの誕生に責任を持てるのか?その意味において、我々は一人残らず無責任の結果なのである。生まれて来たことそのものに、我々は誰一人として責任を持っていないしまた持ちようがない。我々が責任を持っているのは、我々がいる社会に対してである。そしてその社会が子供に対する責任を全て親に押し付けるというのであれば、親として社会に対して責任を持つ理由がどこにあるのだ。

 付け加えることは何もありません。

 「貧乏人は子を産むな」。
 そういう意見も、心情的には理解できるのですが、実際に世の中を見渡してみると、「貧乏人」ほど子供を産みます。出生率は第三世界の方が圧倒的に高く、先進国でも一般に低所得者層の方が子沢山です。
 先進国・高所得者で出生率が下がることには、色々な理由があるでしょうが、端的に「割に合わなくなる」事情があるのでしょう。「割に合わない」ということは、一つにはコストがかかり、今一つには見返りが望めない、つまり労働力として期待できない、ということです。
 といっても、社会制度的なことを云々したいわけではありません。子育てを支援する制度等については大いに議論して良いと思いますが、そもそもの問題として、制度の問題なのか、それを言うなら「子沢山」な社会は制度が充実しているのか、という気がします。
 だからといって「物質的に貧しい国の方が心が豊かだよね」などという浪花節が言いたいのでもありません。
 気になるのは、そもそも「子供」が存在するのかしないのか、という違いです。つまり「小さい人」ではない「子供」という概念です。
 もちろん、「子供」は近代の産物です。その背景にはおそらく、識字能力の大衆化と教育の問題があったことでしょう。
 子供が「子供」になればなるほど、それは「特別な時期」「特別な存在」であり、教育コストをかけなければならない、守らなければならない、というプレッシャーが生じます。純粋に「コスト」というなら、貧乏人も金持ちもかかるお金は一緒です。割に合わなくなるのは、「子供」というものの存在感が増すからです。
 先進国では、良くも悪くも「子供」が「立って」います。「子供だから」を理由に様々な敷居が設けられるます。「子供を守れ」「子供を大切に」「子供だからダメ」。
 物質的に貧しい環境では、「子供」がそこまで「立って」いません。もうちょっと緩いです。緩いから、親でもない第三者がなんとなーく近寄って面倒を見たりもし易い。
 一方、先進国では「子供」に大変気を使わなければなりません。丁度昨日ある人とこの話題が出たばかりなのですが、街角で子供のスナップなどを撮っている写真家は、苦労が耐えないようです。アメリカなどでは、それだけでポリスが飛んでくることもあるそうです。
 そんな「腫れ物」な子供、面倒みたくても見られません。うっかり遊んであげたら親が血相変えて飛んできたり、職務質問されてしまうようでは、おいそれとヨソサマの子供に近づけないというものです。
 結果、なんとなーく面倒を見られる度合いが減って、「制度ですくい上げろ」ということになるのですが、「制度」はいつも「なんとなーく」に勝てません。「なんとなーく」を要件定義して「制度」にするより、そのまま「なんとなーく」実行する方がずっと早いです。中間で色々なものがふるい落とされた挙句、よくわからない管理職のようなところにお金が落ちていくだけです。

 こういう社会も何かを手に入れた代償なのでしょうから、一概に悪いとばかり言うつもりはないのですが、この頃の「子供を守れ」なピリピリした空気を見ていると、ちょっと「子供」が「立ちすぎ」なんじゃないかな、と感じます。
 このピリピリ感は、「クジラを食べるな」にちょっと似ていて、捕鯨に怒っている人たちというのも、文字通りに「クジラは高等な生き物だから食べちゃダメ」という動因で動いているわけではないハズです。いえ、ご本人に聞けばそう応えるでしょうが、明らかに合理化による防衛であって、何かが神経症的に「クジラ」にバインドされています。本当に守りたいのは、クジラではなく「失われてしまった何か」「売り払ってしまったものへの罪責」のようなものです。ですから、「クジラを守れ」な人に「いや、豚だって高等な生き物だから」と真っ向反論しても水掛け論になるわけです。
 「子供」にもそういう部分があって、「子供を狙う犯罪が増えたから」というのはカムフラージュで、もっと黒いもの、正視できない衝迫が「子供を守れ」な「立ち方」を作り出してしまっているのです。
 もちろん、「守るな」というのではありません。「守る/守らない」という「立ち方」、何にせよそれに対して無関心でいられないこと、子供を子供として見てしまうことに、少し反省的懐疑を差し向けてみても良いんじゃないですか、ということです。

 こんなことを言うのは、わたしがとりわけ「子供」として育てられてしまったからでしょう。正確には、「子供」として育ってしまった、ということです。
 こういう「子供」が文字通りの子を持つと、これまた「立った」育て方をしてしまい、血相を変えるようなイヤな親になってしまうのかもしれません。悪循環です。ただ、少なくとも自分が「子供」として育ち、依然「子供」である(「子供」として育てられたものは永遠に「子供」)ことを知ってはいますし、この業の深さを償う方法があるとすれば、「子供」を忘れるしかない、と考えています。

 わたしは子供がいるわけでもなく、子供が好きなわけでもありません(本音では日頃「嫌い」と言っているほど嫌いではない)。ですから、本当はこんなことを書く資格はないのかもしれませんが、「もう子供の話はやめましょうよ」と思っています。
 それは「子供」というものが少しだけ薄くなり、「子供」を解放し、「子供」から解放されてみませんか、ということです。

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