現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質


「愛情を裏切ったからって神様にとやかく言われる謂はないわ!」
「神様は何も言わないよ。言わなくなって、何年にもなる」
『気分はもう戦争』 矢作俊彦 大友克洋

 「神様」を「みんな」に言い換えても結構です。
 「みんな」は何も言いません。「みんな」を構成している個々人が何かを言うことはありますが、「みんな」そのものがトコトコ歩いてきて「君は・・・だよ」と< わたし>の意味を教えてくれることは、残念ながらありません。
 「神様」「みんな」とは< 全体>のことであり、要するに大文字の他者です。
 ですから、沈黙したままの神とは、世界そのものである、ということもできます。汎神論です。神は必要十分に表れており、All alive are fittingゆえに、取り立ててもう言うことはない、というわけです。「みんな」の意志は、既に世界の有り様に反映されている、という見方です。

 でも、何かが足りません。
 確か相原コージの『一齣漫画宣言』で、仏陀のような人がこんな「悟り」を開くものがありました。

「良い人もいる。悪い人もいる」。

 真理です。
 真理過ぎて、全然使えません。神が世界そのものである、「みんな」が既に充足している、というのは、この「悟り」のようなところがあります。
 わたしたちは普通、こういう「悟り」を「無意味」と言います。「確かに正しいけれど、だから何やねん」です。
 では「意味がある」とは、どのような状態なのでしょうか。
 「真理過ぎる」ものが無意味であるのは、文字通りであって、意味があるためには、何かが不足していないといけません。不足したものが形を変えて帰ってくる時、わたしたちは「意味」を感じることができます。

 わかりにくくなったので、少し迂回しましょう。

 言葉の「意味」が分からない時、わたしたちは辞書を引きます。辞書には言葉の「意味」が載っています。そこで使われている言葉が分からなければ、もう一度辞書を引きます。非常に素朴に考えると、言葉はこうしてグルグル回っているだけです。つまり、神は沈黙したまま既に実現しています。
 意味の意味のそのまた意味をどんどん辿っていっても、「原-意味」に突き当たることなどありません。だとしたら、「良い人もいる。悪い人もいる」のように、正しいけれど乾燥した無意味な言い換えしかないことになってしまうのではないでしょうか。
 ですから、「原-意味」がないにせよ、何かそういう働きをする、アンカーのようなものがないと困ります。
 それが< 現実界>のかけらです。

間主観的コミュニケーションそのものが成り立つためには「< 現実界>の応答」が必要なのである。象徴的コミュニケーションは、なんらかの「< 現実界>のかけら」が一種の抵当として機能し、そのコミュニケーションの整合性を保証しないかぎり、成立しえない。(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク)

物が意味をもつためには、「記号」として読むことができるような何か偶然的な< 現実界>のかけらによって、その意味が確証されなければならない。(同書)

 < 現実界>とは、象徴化の網の目から零れ落ちたもの、象徴化以後に遡及的に想定される不可能なものです。ですから、日常会話で「現実」と呼ばれる(想像的な)現実とは、まったく異なります。
 それは語の真の意味で< 無い>ものですから、ハードウェア的なものが言語の審級を基礎付けている、という理解は危険な誤読です。「< 現実界>のかけら」は世界を意味によって色づけますが、その「記号」性は遡及的に措定されたものにすぎません。

 例えば、月蝕です。
 月蝕が起こると、昔の人は大騒ぎしました。天変地異の前触れであり、それは人々の生活が乱れていたためであり、といった具合です。つまり、月蝕から言葉の連鎖が始まり、そこに「意味」が生まれます。
 ですが、もちろん、月蝕自体に意味はありません。つまり、意味の最初にあるのは無意味なものです。

 また、預言者はよく奇跡を起こします。イエスが水の上を歩くと、神の子の顕現だと言って人々が信じます。
 ですが、百歩譲ってイエスが本当にパンや魚をどんどん増やせたとしても、冷静に考えれば、神の国の到来とは全然関係ありません。それくらい、頑張ったらミスター・マリックでもできるかもしれません。「確かに水の上を歩くのは凄いけれど、それと神様が何か関係あるの?」と、いつでも問うことができます。
 ですから、奇跡は無意味です。
 重要なのは、その無意味から人々が意味ある物語を紡ぎ出した、ということです。出来た物語から振り返ると、奇跡は意味の源泉であり、語らいを保証するものです。ですが、この意味は遡及的に発見されるものであって、奇跡自体は何の意味もありません。

 「人生は無意味だ」という人がいます。
 イキイキしている人たちは、鬱で自殺しそうな人には見つけられなかった「意味」を、何かの秘法で発見したのでしょうか。「プロジェクトを成功させて、評価を上げるんだ」「キレイになって絶対あの人を振り向かせる」。こうした「意味」は、「どうせ死ぬんだから」の一言でもすぐ膝カックンです。
 ですが、わたしたちは普通、「どうせ死ぬ」といって何もかも投げ出してしまいはしません。ささやかではあっても、日々の営みに意味を見出しています。「本当にそんなことに意味があるの?」。「本当」を問われれば、もちろん意味なんてありません。かろうじて答えたとしても、その意味をどんどん辿っていけば、「どうせ死ぬ」に行き着くでしょう。ですが、最果ての無意味は個々の意味を殺しはしません。むしろ根底に無意味があるからこそ、その後の意味の連鎖が生まれるのです。

 では、最初の無意味は何でも良かったのでしょうか。
 「人生は無意味だ」とションボリしている人に、「いや、無意味だからこそ意味がある」と言ったら元気になるでしょうか。ミスター・マリックでもキリストになれるでしょうか。

たしかにどんな対象も< 物自体>のからっぽの空間を占めることができるが、それができるためには、その対象は前からずっとそこにあったのだ、つまりわれわれがそれをその場所に置いたのではなく「< 現実界>の応答」としてそこで発見されたのだ、という幻想がぜひとも必要なのである。(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク)

 無意味は「発見」されなければなりません。うっかり、意味あるものとして。
 「狙った」ナンセンスでは、「原-意味」にはなってくれません。意味を基礎付ける無意味は、意味など全然期待していないところで、バッタリ出会わないといけないのです。

また、いわゆる「大人の恋」を規定づけているのもこれと同様の逆説ではあるまいか? 子供っぽくあなたに甘えたりしない、あなたがいなくても生きていけるということを、手段はどうあれ相手に知らしめて初めて、その相手は私の愛を受け入れることができるのである。ここにこそ真の愛の試練がある。あなたが私の愛を受けるに値するのは、別れを告げてみたときに、その別れに耐えうることをあなたが示すことができたときのみなのである。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク)

 神様は何も言わない。「みんな」の答えが返ってくることはない。その諦念と「自分でやるしかない」という引き受けがあった時、突然に「意味」が発見されます。「神は自ら助くる者を助く」です。もちろん、発見を狙った「引き受け」では、奇跡も意味も見つかりません。
 この時、遂に「神が動く」のですが、容易に想像がつくように、この「意味の発見」は精神病的性格を帯びたものです。「赤い車がアパートの前に停まっている。CIAが監視している」と、同じ構造に拠るものだからです。
 わたしたちは意味を必要としていますが、世界が常に意味で答えてきては、精神病に陥っています。
 精神病に欠けているのは、「何も言わない神様」という乾燥した真理の次元です。「良い人もいる。悪い人もいる」悟りです。わたしたちは普通、この言葉から言葉へとたらい回しする「何も言わない神様」を信じて生きています。神様が何を言わないことを信じるわけですから、ほとんど不信仰と紙一重です。そして「不信仰」を貫き生きていると、突然ちょっとだけ神様が答えるのです。年がら年中神様が喋っていることを、精神病と言います。

正常な人とは、己れの内的ディスクールの大部分を真面目に受け取らないようにしている人だということを、精神分析家である私たちは知っていますね。(『精神病』ジャック・ラカン

 「何も言わない神様」とは、完璧に磨き上げられた鏡のようなものです。鏡は投げかけられたメッセージを反対にして返します。「君は私の妻だ」というメッセージが、暗黙的に「わたしは君の夫だ」を意味するよう、沈黙のまま返す装置です。
 鏡が無ければ、わたしが誰なのか直接言ってもらわなければならなくなりますから(喋り続ける神様)、困ったことなのですが、一方で鏡だけでは意味が生まれません。鏡が意味あるものとして捉えられるのは、鏡に映らなかった何か、月蝕があったからです。
 鏡に映らないものとは何でしょうか。それはもちろん、「見られているわたし」です。鏡を通じて見ることができるのは、「見ているわたし」であって「見らているわたし」ではありません。「見られているわたし」とは物質=対象としての< わたし>です。
 まったく無意味な欠片、異物が世界の中に発見される時、主体は最初から分裂したものとして、誕生します。これが最初の無意味です。
 赤の他人に向けられた問いかけに対し、「え、わたし?」と振り向いてしまった時、< わたし>が生まれます。呼びかけられていた赤の他人、こちらが物質=対象としての< わたし>です。主体は最初から分裂しています。

 「大人の恋」について語る下りで、ジジェクはアブラハムの例をひいています。自分の息子を犠牲に差し出すよう神に命じられたアブラハムが、悩んだ末に神に従おうとしたところで羊を与えられ、代わりの犠牲とすることを許される、というユダヤ・キリスト教・イスラームに共通のエピソードです。すべてを投げ出す覚悟を見せた時、「無意味な意味」としての奇跡が返ってきます。
 最初にあるのは、神の問いかけです。「最も重要なものを差し出すことができるのか」。
 アブラハムは犠牲をもって問いに答えるのですが、このyesは、noと応えることの罪から、いくらか彼を解放したのでしょうか。

「お父さん、空はなぜ青いの?」子どもは本当は空そのものには興味がない。この問いの真の狙いは、父親の不能、つまり空が青いという動かせぬ事実を前にしたときの無力さ、その事実を実証できず、その証明に必要な一連の論証を提示できない無能さを暴露することである。したがって空が青いということは、父親の問題になるだけでなく、父親の落ち度にもなる。「空は青い。なのにあんたはそれについて何ひとつできず、馬鹿みたいにぼんやり眺めているだけだ」。問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけであっても、つねに主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。つまりこの事実を前にした時の無力さの責任を負わせるのである。(『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク)

 わたしたちは、空の青さについていくらでも語ることができます。しかしどんな科学的事実を述べたとしても、何かが決定的に取り逃がされています。空の青さです。問いというものには、正しく答えれば答えるほど、罪と恥じらいを生み出させる効果があります。
 アブラハムが神に逆らったとしたら、「罪」は分かり易いものです。
 しかし神に従うことは、「本当の本当に、これは命令通りなのだろうか。『正しい』ということは正しいのだろうか」という暗黙の罪悪感を導きます。空の青さを問われ、空の青さについて一所懸命に語れば語るほど、空の青さから取り残されていくのです。

これこそがまさしく問いのもつ猥雑な次元であり、問いが狙うのは、外密的な核、主体の中にあって主体以上のもの、主体には欠かせない主体の中の対象である。いいかえると、罪悪感のない主体はない。つまり、主体が自分の内部にある対象のせいで恥ずかしがっているかぎりにおいてのみ、主体は存在する。(同書)

 語られなかったものが、物質として返却されます。神はアブラハムに羊を返します。「君はこれだよ」と。
 もちろん、羊に意味はありません。アブラハムの罪であり恥じらいである羊、それもまた犠牲に捧げられます(抑圧)。こうして意味の始原にある無意味、物質としての< わたし>、呼びかけの対象であった赤の他人は、再び失われ、永遠の対象となります。つまり、欲望の回路が開かれます。

主体は、< 他者>の問いに対する< 現実界>の(対象の、外傷的核の)応答である。(同書)

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