「上に言ってもらう」日本 平等・ブラザー・嫉妬


 兄弟間の相続に差異がある場合、その民族は「人や文化の間には決定的な違いがある」個別主義・本質主義的な世界観を発達させ、一方兄弟間の分配が平等な場合、普遍的「人間」の思想を発展させる傾向がある。
 これはエマニュエル・トッドが『文明の接近』などで展開している論で、文字通りに受け取るには余りに乱暴な還元論ですが、眉に唾しつつ思考のきっかけとして使うには、なかなか興味深いお話です1
 日本は典型的な「兄弟間格差」システムで、兄弟と言っても兄(とりわけ長兄)と弟には絶対的差異があり、brotherに相当するような概念がありません。もちろん「兄弟」ということで「同じ親から生まれた男たち」を示すことはできますし、brotherにだってelderやらyoungerやらあるわけですが、brotherの本質は「オレたち年も性格も違うけど、同じ< 父>の元で等しくブラザーだぜ!」な「平等感」です2
 日本的システムにあっては、この水準での「根源的平等」が欠落しているため、普遍的< 人間>の概念も育ちにくい一方、「違って当たり前」「色々あって良し」という寛容さが共有される傾向がある、と言えるでしょう。こうした思想は「文化本質主義的」ですが、翻せば諸文化を貫通する「本質」への信が薄い、ということです。
 逆に< 人間>という普遍概念が強いシステムは「相対主義的」に振舞いますが、この「相対」は比べる軸があっての「相対」であって、軸そのものが相容れないシステムと出会うと、途端に不寛容さを示す場合がある、と言えるでしょう。

 職場などで揉め事があった時、直接当事者同士でぶつかると、諍いがエスカレートしてしまう場合があります。そういう時、日本人はよく「上に言ってもらう」という間接的なアプローチを取ります。権力に取り入っている、と言えば聞こえが悪いですが、ことを荒立てないように「第三極」としての「お上」に仲裁を依頼しているわけです。
 日本の「お上」は、人間社会に内属しています。「お上」と言っても、相対的に「上」なだけで、同じ人間です。その人間の間に絶対的差異がある、というコンテクストがあるために、相対的「上」で十分なのです。
 一方、普遍的< 人間>の概念がよく発達している場合、「部長も社長も所詮人間やないか」という意識が前に出て、半端な「お上」では仲裁の用をなさないことがあり得ます。良く言えば「部長もブラザー」なのですが、悪く言えば「ブラザーに仕切られる謂れはない」ということです。
 すると平等な「人間たち」に対して絶対的第三者としての審級が要請されます。例えば、一神教的な神というのは、こうした文脈から発達したもの、とも考えられるでしょう。

 エジプト人は、喧嘩を見るとすぐに仲裁に入ります。日本人のように「見て見ぬフリ」をする人もいますが、通りの喧嘩で誰一人介入しようとしない、というのは余程ヴァイオレントな状況だけのようです。この時よく口にする台詞が「神を恐れよ、兄弟!」といった内容のもの、と聞きます。
 介入といっても、自らが「第三局」「上」の立場を取るわけではありません。そんな態度に出られたら、間違いなく二人は喧嘩をやめて、協力してこのエラそうな背教者を袋たたきにすることでしょう(笑)。そうではなく、立場はあくまで「ブラザー」です。「オレも同じブラザーだけれど、< 父>が見ているからやめようぜ」ということです。そういう立場での「介入」であるが故に、比較的喧嘩の間に割って入りやすいのかもしれません。
 東京の街中で喧嘩があっても、ほとんどの人が見て見ぬフリをするのは、人口の過密ゆえに個々人の責任意識が薄い、匿名性が高い、単に都会が世知辛い、というだけでなく、「介入とは『お上』がするもの」という意識があるのではないでしょうか。翻せば「介入者」は、介入の時点で高みに立っていると取られかねない訳で、「ブラザー」的介入より「何を偉そうに」「お前が出しゃばることか」ととばっちりを受けてしまうリスクも高まります。

 トッドは「平等」な兄弟間分配は共産主義と相性が良い、と考えているようです。とりわけ、父権が強く兄弟間が平等であるロシアのような社会では、共産主義が浸透しやすかった、と解釈しています。
 日本社会は「最も成功した社会主義」などと言われることがありますし、一昔前までの「総中流」的社会、現代の「格差」に対する過剰な反応を見ていると、トッドの理屈とは矛盾するようにも見えます。おそらく「日本的平等」というのは、兄弟間の絶対的格差(本質主義的差異の思想)に対し、「違うけれど、違うものが色々あっても良い」という多極的思想がバランサーとして機能する時に生まれるものなのでしょう。ですから、「ブラザー」が強い世界での「平等」に比べると、今ひとつ歯切れが悪い。逆に言うと、現実社会の如何ともし難い不平等が予め織り込まれている分、実際的である、という面もあるでしょう。

 先日の「働かざる者食ってよし!」が思わぬ反響を頂戴し、関連エントリをいくつか拝読しました。その中のsocioarc:日本は「社会主義」というより「嫉妬主義」に、こんな下りがあります。

確かに様々な「格差社会」への批判は根強いが、それは階級概念の否定や、平等意識から来ているようには余り思えない。一言で言えばそれは「自分より上手くやっている(ラクをしている, etc.)他人への嫉妬」であり、それが極端に強い「嫉妬主義」とでも言えるだろうか。

 嫉妬自体は別段特殊日本的なものではありませんが、そうした不平等感や羨望の仲裁手段には、日本的なものがあるでしょう。絶対的な平等と普遍性が前提とされていない分、外面的な「括り」と「お上」という相対的強者への恭順によって、仲裁がなされていたのではないか、と考えられます。
 個人的に「嫉妬」と言って思い出すのが、クルアーンのAl Falaq章の最後の一節です。

و من شر حاسد إذا حسد
ワミンシャッリハーシディン イザーハサダ
嫉妬する者の嫉妬の悪から(我は主に加護を請い願う)

 この嫉妬とは、他人から買う嫉妬だけではなく、自らが抱いてしまう嫉妬をも指していることでしょう。そうした羨望の罠に対して、絶対の主に加護を求めるのです。
 普遍概念がよく確立されていたとしても、現実世界の不平等が消えてなくなることはありません。そもそも、嫉妬とは実際的な不平等から来るものではありません。物質的平等がいかに達成されたところで、隣の芝生は常に青いのです。そうしたシャイターン(サタン)の誘惑に対し、イスラームでは絶対的一者という第三者にすべてを預けることで、仲裁を実現しようとします。

 日本が「格差社会」と騒いだところで、この格差は例えばイギリスのような階級社会、あるいは第三世界に見られるような圧倒的な経済的格差に比べれば、まったく可愛いものです。それでも少なからぬ人が過敏にならざるを得ないのは、普遍概念の希薄な分、物質的・実際的(ラカン的には「想像的」)な平等が仲裁システムとして働いていたからでしょう。
 何千年もかけて培われた人類学的遺産がそう簡単に崩れるとは思えませんが、それでも「日本的」仲裁は少しグラついてきています。「違うものが色々あって良い」が微かな希望だったはずが、世界が小さくなり過剰な差異に晒されるにつれ、「違い」が許容し難い性質を帯びつつあります。本質概念が希薄であるが故に、実際的(「想像的」)差異が「それでも人間=普遍の相対的変種」という象徴化を経ることなく、まともに絶対的差異として受け取られてしまうからです3
 このことと「日本的孤独」は表裏一体です。ブラザーなき世界とは、一歩間違えると絶対的個に閉じこもってしまう世界です。東アジア的「泥の文明」4では、人と人の距離が極めて近く、かつては「個」と言う間もなく雑多なものが並存している、という状況があったのでしょう。しかし、近代化と経済的成長の過程で「個」が析出されてくると、その「個」は孤立しながらもブラザーと共に< 父>を共有する「個」ではなく、本当に一人ぼっちの「個」になってしまいました。

 ではどうするのか、と言っても、とりたてて処方箋もありませんし、申し訳ありませんが余り考える意志もありません。神様が大好き人間としては「もっとブラザーになろうよ」とも思いますが、このスタイルが日本でマジョリティになるとは考えにくいです。
 現代日本でも一見「ブラザー」のような小規模グループ化の現象が見られますが、「空気」を読みあう「仲良しグループ」は、< 父>の抽象という象徴化プロセスを経ない直裁的・「想像的」密着であり、「ブラザー」とは本質的に異なります。そのようなグループ性のいくつかには、民族宗教から普遍宗教が生まれたように、「ブラザー」的なるものへと変貌する可能性があるでしょうが、しばらくは「密着小集団」の並立とそこに入りそびれた孤立した「個」、そしてマイノリティとしての「ブラザー」といった風景が続くのでしょう。

 別段「布教」を考えているわけではまったくないのですが、こうした状況で「ブラザー」への道が開くとしたら、「仲良しグループ」の質的転換よりはむしろ、「個」が突然に< 父>を発見する、というところにあるのではないか、と考えています5。致命的分断を経由した「ブラザー」は、生粋の「ブラザー」とも異なるはずです。
 願わくばその「ブラザー」が、日本的多極性をうまく取り入れ、「ブラザー」ならざる者たちへの憎悪すらも仲裁する< 父>を備えんことを。

  1. 以下、エマニュエル・トッド関連記事。
    「『文明の接近』エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ」
    「識字化と脱宗教化、頸の血管より近き者」 []
  2. ブラザーの最も重要な性質は、本当は「無関係」だということです。ブラザーが平等と言っても、実際の兄弟では個々人の違いが著しいですし、「母」のような直裁的「肉」の関係を持っているわけではありません。ですから、ブラザーは「義兄弟」を想像した方が、より適切です。実際の兄弟では生物学的に一定の遺伝子が共有されてしまったりして、少しミスリーディングです。つまり、< 父>なる象徴的審級の元で「平等性」が実現されている、ということであって、この平等性は物理的な平等性から一段抽象されたものです。社会生活においてブラザーが文字通りの物質的平等を享受しているわけがありません。 []
  3. 一方、象徴化のショックアブソーバーは、象徴系そのものが相容れない系に出会った時には、極端な不寛容に急転し易いことは前述の通り []
  4. 以下、松本健一関連記事。
    「webは「砂の文明」である」
    「mixiと女社会と「泥の文明」」
    「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」 []
  5. サイボーグ・ファシズムの含意しているのはそういうことです []