鎌倉湖


 急に肌寒くなった空の低い日、私は両親と弟と共に鎌倉駅にある湖に出かけた。
 湖の回りは横須賀線の線路によって囲まれており、中に入るには駅舎を通らなければならない。
 駅舎には人陰がなく、コインロッカーの陰に黒い小熊が一匹いた。小熊は私達を見て怯えているようだったが、弟達は小熊に気付くこともなく、無人の改札を通って湖に降りていった。小熊は真っ黒な長い毛に全身を被われ、瞳も体毛に被われて定かには分からない。私は小熊の震える様子が気になり、しばらくじっと見つめていたが、父の声に促されて改札を抜けた。
 湖は深い霧に包まれ、まるで視界がきかなかった。駅前より更に数度気温が低いように感じた。父は湖の辺に二艘の手漕ぎボートを見つけ、私達を呼んだ。私はあまり気乗りがしなかったが、父に促されてボートに乗り込んだ。
 父の漕ぐボートは静かに水面に滑り出し、霧の中に飲み込まれていった。振り返ると、岸の輪郭が白い霧に溶けこもうとしていた。弟は母と一緒のボートに乗っているようだった。
 私の父は楊家大極拳の創始者楊露禅そっくりの恰幅の良い大男である。閉ざれれた視界は私を不安にさせたが、父はまるで気にしていないようだった。
 水は不気味な程透き通っていたが、魚の姿はなかった。静かな湖面に、オールのたてる小さな水音と父の鼻歌だけが響いていた。
 十分程進むと、突然亡霊のような巨大な岩が霧の中に現れた。湖に浮かぶ小さな小島のようだった。ボートはゆっくりと島に近付き、舟の側面から静かに接岸した。父は当たり前のように岸にあがって歩き出す。私も慌ててボートを後にした。
 島は湖面に突き出た小さな山のようで、ごつごつした岩で被われている。水面に接する周囲は岩が砕かれて平面になっているが、その幅は五メートルもない。切り立った断崖のような岩が唐突に湖から突き出している格好だ。足下で砂利を踏み締める音がする。島の周囲を巡るうちに、岩の腹に洞穴を見つけた父は、まるで歩度を緩めることなく中に入っていった。
 洞穴の中はすぐに地下に向かう階段になっている。奥からは灯がもれていて、人の気配がする。階段を降りるにつれ、洞窟の奥から大勢の人間の嬌声が響いてくる。突然洞窟は大きな空洞に抜け、そこでは大勢の労働者風の男達が騒いでいた。まるで週末のビアホールか何かのようだ。見ると、空洞の中央がリングになっていて、そこで二人の半裸の男が組み合っている。どうやら男達は賭けプロレスに興じているようだった。
 父は喜んで近くのテーブルから唐揚げと焼酎を取り、男達と一緒になってプロレスに見入っている。私は男達に見つからないか気が気でなく、空洞の入り口の陰からこっそりと中を伺っていた。男達は口々に汚い野次を飛ばし、プロレスに夢中になっている。どの男も灰色の薄汚れた恰好をして、真っ黒な疲れた手をしている。リングの上の男の一方は、額から血を流しながら攻撃に耐えている
 ふと、男達の一人が私達を見つけると、一際高い叫びをあげ、罵り初めた。それに気付いた男達が次々に振り返り、プロレスに向ける以上の熱気で、言葉も聞き取れないような怒りの声を浴びせかけた。男達は叫びながら私と父を目掛けて獣のように飛びかかってきた。父は片手に唐揚げを持ったまま数人をいなすと、巨体に見合わぬ俊足で階段を駆け登って逃げた。私も二三人を蹴り倒し、父の後を追った。
 湖岸に出ると、父は私のことを放ってボートを漕ぎ出そうとしていた。間一髪でボートに飛び乗ると、タイミングを外した男が数人、湖に転がり落ちた。ボートは瞬く間に島を離れ、湖岸で叫ぶ男達も霧の中に沈んでいった。
 岸に着いた私達は、母らと共に駅舎に戻った。父は賭けプロレスの男達のことなどまるで気にしていないように、上機嫌だった。
 駅舎のコインロッカーの陰では、来た時と同じように小熊が震えていた。私は熊を連れていこうか迷ったが、大きくなった時の苦労を考えて諦めた。私達は車に乗って駅を後にした。
 しばらく行くと、いやにパトカーが多いのに気付く。湖程ではないが、駅の外も濃い霧が立ちこめている。白い視界の中に、突然パトランプの光が現れては消えていく。霧のせいか、ほとんど他の車や人陰もないのに、パトカーだけがあらゆる交差点で張り込んでいるようだ。
 突然、霧の中に警官が現れ、車が止められる。四人の警官が青い交通整理用のベストを着て検問に立っている。警官の一人が運転席の窓から父に何か尋ねている。
 私はふと、洞窟の中の男の一人が「鎌倉の警察は……」と言いかけていたの思い出した。そして警察が賭けプロレスの男達とグルなのを直観した。こんなことなら熊を人質に連れてくるべきだった、と後悔した。鎌倉や逗子の警察は京都の警察より質が悪いのだ。
 警官は中々質問を止めず、父は苛立って語気を荒げていた。それに気付いた仲間の警官が、私達の車に集まってくる。私は運転席後部の座席で、無言のまま、この状況を打破する方法を必死で考えていた。
 ふと、上空からヘリコプターの音が聞こえ、幾人かの警官達が何気なく空を見上げた。霧を裂くような爆音は次第に大きくなり、父を問いつめていた警官も視線を上にやった。父もつられて窓の外を見上げる。爆音は急速に大きくなり、地面に吹き付ける風を感じた。風はすぐさま突風になり、霧が渦をまいて流れていく。
 霧の中からするすると縄梯子が現れ、更にその梯子にぶら下がっている白装束の老人が目に入った。病院から逃げ出してきたような、骨と皮だけの痩せ細った老人だ。その老人が、ヨレヨレの襦袢のような抜の布を風にはためかせながら、片手片足で縄梯子につかまっているのだ。老人は空いた手を私達の方に差し出し、何かを大声で叫んでいる。爆音に邪魔されて良く聞き取れないが、歌を歌っているようだ。命を削るような、絶叫のような歌だ。
 警官達は帽子を飛ばされないように押さえながら、号令のようなものを掛け合い、銃を抜いて空に向けた。父は黙って老人を見つめている。紙切れやクズが風に舞い上がって、霧の中に真空のように開けた空間を舞っていく。私はふと、老人の歌っているのが、私の小学校の校歌だということに気付いた。
 
 
初出:「文藝」2000年春号(河出書房新社)
単行本『ゴルバチョフ機関』収録
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