時化た冷たい海を、大型の軍用ゴムボートがゆられている。空が低い。
六人の軍人が武装してボートに乗っている。暗いトーンの迷彩服に、同じ配色のライフジャケットを身にまとっている。二人は銃身を切り詰めたパラトル-パ-用のアサルトライフルを持ち、二人はドイツ製のサブマシンガンを抱えている。一人はオ-ストリア製のブルパップ方式のライフルを持ち、最後の一人がボートのエンジンを操作している。様々な人種の兵隊が混ざっている。全員が傭兵なのだ。そのうち二人がボートの突端で立ったままバランスを保ち、他は寒さから身を守るように体を丸くして座っていたり、だらしなく縁に背を預けている。
ボートは「暗殺作戦」に向かっている。見込みのない作戦だ。失敗に終わったとしても、闇から闇に葬り去られ、タブロイド版の記事にもならないように巧妙に計画されている。だからこそ正規の軍人ではなく、傭兵が用いられているのだ。
船尾に腰かけてライフルを抱えている男がいる。中途半端に伸びたグレイの髪に無精髭を生やした痩せた白人だ。アイルランド人に見えるが、定かではない。一見軍人らしからぬ弱々しい風情だが、眼光は鋭い。湿って火もつかないくたびれた煙草をくわえている。
「ゴルバチョフ機関」はこの男を追っている。男が〈裏切り者〉だからだ。
*****
男の裏切りによって世界経済が破綻し、「核の冬」が訪れつつある。
「核の冬」は皆がそう呼んでいるだけで、放射性物質とは関係ないのかもしれない。ただの冬かもしれない。ただ誰もが二度と冬が訪れることがないと信じていて、その最後の冬を「核の冬」と呼んでいるのだ。この世界では、様々なことが思い込みと誤解によって回っている。
*****
「ゴルバチョフ機関」と男の最初の接触は、まだ冬の訪れ間もない時のことだった。むしろ夏とも言ってよい。「核の冬」はあくまで最後の時期という意味なので、季節は関係ないのだ。
自主映画サークル「ゴルバチョフ機関」は二台の車に分乗し、男の車を尾行していた。男はBLKという黒い車に乗っていた。
車が有料道路「西山京浜自動車道」に入った途端、彼等は渋滞に巻き込まれた。BLKと「機関」の車は五十メートルほどの距離をあけてのろのろと進んだ。窓から身を乗り出して遠く目をこらしてみても、ただただ車が駐車してあるようにしか見えない、長大な渋滞だった。
そのうち、前の車を運転していたキャメラマンの斉藤が居眠りして追突しそうになったため、もう一台に乗っていたバイクスタント担当の基維が運転を替わった。キャメラマンが乗った方の車では、睡魔が全員に伝染したようで、いつの間にか少しも進まなくなってしまった。それでも周りの車はクラクション一つならすことなく、羊の群れのように車間距離がほぼゼロの状態で停止していた。他の車にも睡魔が伝染したようだ。この世界では一人の心理や想像が全体に影響し、また全体が複数の個人に関係する。
結局基維の運転する車だけが追跡を続けた。その車には監督と録音助手の小林が乗っていた。
BLKは横浜市の中にある起津市に入った。起津市は独立した行政区であると同時に、横浜市の一部でもあるのだ。BLKと「機関」の車は、何時間もかけて「西山京浜自動車道」を行軍していった。次第に渋滞がほころびだし、何とか走行と呼べる状態まで速度が回復したきた。入った時は高架の有料道路の筈だったのが、段々と路面が低くなり、防音壁がなくなり、渋滞が解消する頃には一般道と見分けがつかなくなっていた。更に周りが住宅街になって、それも山の手から次第に下町へと進んでいっているようだった。BLKは速度を増し、離合も困るような生活道路の網の目に入り込んでいった。
突然、雑然とした下町の風景の中に、不似合いな豪邸が現れた。高圧電流でも通っていそうな高い塀で囲まれた家だ。BLKは、この豪邸の前で停まった。
基維らの車は、尾行を悟られないように一度そのまま豪邸の前を通り過ぎた。基維はバイクスタントで鍛えた独特の直観力を持っている。目前に迫った危険を反射的に回避する能力があるのだ。それは予知という程はっきりとして力ではなかったが、特殊能力「予兆」として「ゴルバチョフ機関」メンバーから一目おかれていた。
そのまま直進し数回角を曲がると、目の前が海になっていた。海水浴場だ。車は砂浜に降りて停車した。
基維は車を降りると、携帯電話を取り出して、まずもう一台の車と警察に連絡しようとした。だが監督がそれを制した。せっかく男の車をここまで追い詰めたのだから、自分達の手柄にしてしまおうというのだ。基維は反対した。
「無謀です。まずは人数を揃えて確実に仕留めるべきです」
しかし監督は一度言い出したら引き返さない男だ。今までもこの強引な性格で撮影を進めてきた。ワンマンなようだが、映画監督という人種にはこのような無鉄砲さがあった方が良い場合もある。
録音助手の小林は監督に賛成した。彼は監督の言うことなら何でも黙って従う、自主性のない男なのだ。しかも太っている。
結局、基維の反対をおして、一行は歩いて豪邸へ戻ることになった。
海のそばには古びた平屋建てのカメラのサクラヤがあった。丁度海の家のような作りだ。「核の冬」が近付き、海の家はどれも店仕舞いしているので、営業しているのはカメラのサクラヤだけだ。写真に夏も冬もないとも言えるが、放射線はフィルムに影響するので、とてもまともな営業が成り立つとは思えない。実際、サクラヤは戦後の焼跡のバラックのような様相を呈していた。
砂浜から道路に戻るには、サクラヤの横にある階段を登ることになる。というより、崩れかけたサクラヤ自体が階段の横面を壁の一つにして何とか形を保っているのだ。
基維と小林は階段を登って道路に戻った。監督もそれに続いて行こうとしたのだが、何気なく「困ったなあ……」と呟いてしまった。別段困ったことがあったわけではないのだが、監督にはブツブツと独り言を吐きながら歩く癖があったのだ。
それが合図になったかのように、突然カメラ屋の中から老婆が飛び出してきた。
「何でもお助けします!」
監督が無視して進もうとすると、老婆はバスケットのディフェンスのような動作で監督の行く手を阻んできた。割烹着を着て頭に手ぬぐいを巻いた老人だったが、異常に声が通り、曲がった腰に似合わず動きが素早かった。老婆のディフェンスの機敏さに、監督は全く前へ進めなくなってしまった。
基維が戻ってきて階段の上から見下ろしていたが、助けようとはしなかった。自分の助言が無視されたのが気に食わないようだった。
監督はとうとう腰に差した催涙ガスを抜いて噴射したが、どういうわけかそれも全く効果がない。老婆は催涙ガスに耐える特別な訓練を受けているのかもしれない。
そうしているうちに、更にカメラ屋の中からぞろぞろと屈強な男達が這い出してきた。皆同様に汚れたランニングシャツと作業ズボンを着た、労働者風のいかつい男達だ。監督はとっさにナイフで男の一人を刺してしまった。
しかし男達は後から後から際限なく現れて襲ってきた。まるでフナムシのようで、崩れかけたサクラヤがその巣になっているようだ。
進退極まった監督の元へ、小林が新左翼のようなヘルメットをかぶって戻ってきた。
「監督!」
小林は録音助手から立場を上げたいと必死だったため、自らの危険も顧みずに監督を助けに来たのだ。小林は自主性がなく太っているが、監督の為なら命も惜しまない覚悟がある。
「さあ、こっちです!」
小林は監督の手を取ると、力ずくで男達をかき分けて階段を登った。不思議なことに、階段を登り切ってしまうと男達はついて来られないようだった。砂の上でしか生きられないように体の構造が変わってしまっているらしい。
一行は何とかサクラヤの男達から逃れ、住宅街にやってきた。基維は「それ見たことか」という風にして、監督らが息を切らせてやってくるのを冷笑的に眺めていた。監督は内心面白くなかったが、確かに冷静に考えれば基維の判断の方が正しかった。
*****
しかしこのサクラヤの一件により、BLKの男が例の〈裏切り者〉であることが確実になった。そうでなければ、このような手の込んだトラップが仕掛けてあるはずがないのだ。豪邸があの男のアジトか何かだとすると、彼等は「機関」の接近を予期して海の近くに拠点を構えたのだ。
それを裏付けるように、豪邸は短い時間の間に影も形もなく消えていた。消えていたというより、迷路のような住宅街をたどって戻ることが出来なくなってしまったのだ。来た時とは道が変わってしまっていたのである。
この世界では、時間と共に地形が次々と変化していく。また人間の行動や心理が、地形や時間の流れに影響する為、ある場所や時点といったものを他と独立に同定することが難しい。
基維はキャメラマン斉藤らの乗った車に電話をかけたが、その電話すらつながらなかった。もしかすると、あの有料道路の高架の上で、永遠の眠りに引きずり込まれてしまったのかも知れない。そうなってしまうと、停止した時間の中から自力で脱出することはほとんど不可能である。最悪の場合、「ゴルバチョフ機関」はキャメラマン斉藤に加えて彼の持っていた高価な未使用フィルムまで失ってしまったことになる。
監督はその事実を知って怒り、小林に八つ当たりした。だが基維にしてみれば、その程度のことを予期せず行動する方が問題なのだ。
やむなく追跡を諦め、一同は図書館で豪邸の場所を調べることにした。地図も時間と共に変化する為、今では余り役に立たない。初めは起津市の場所すらはっきりしなかった。が、そこで監督の才能が発揮された。
監督の持つ特殊能力とは、この渾沌とした世界の中で渦の中心のような特異点を見抜くことなのだ。これさえ見つけることができれば、後は三点測量の要領でかなりの情報を得ることが出来る。この希有な才能「同定」を持ち合わせているからこそ、彼は監督という大役を任せられているのだ。
しかしその能力をもってしても、家そのものまでは限定する事が出来なかった。一同は「1025」という地図の番号を控え、図書館を後にした。
*****
何故たった一人の傭兵の裏切りによって世界経済が破綻し、「核の冬」が訪れたのか。その謎に正確に答えられる者は、この世界には残っていない。
残り五人の傭兵ならば、答えを知っていたかもしれない。しかし彼等の行方は知れず、恐らく裏切りの直後に全員殺されたのだろう。
「ゴルバチョフ機関」のキャメラマン斉藤は、「機関」メンバーの中でも随一の映画ファンだ。年間三百本以上の映画のチェックを怠らない。
六人の傭兵がボートに乗っている風景も、彼の見た映画の一場面だった。また別の映画では、特殊な化学物質が大気中に放出され、その影響で人々の思念が共有されてしまうという現象が描かれていた。言わば、世界中の人間がテレパシー能力者になってしまうというSF作品だ。
また別の映画では、人間の大半が実は衛星からコントロールされている人造人間だった、という設定があった。このようなテーマは古くから繰り返されているもので、我々の感情や判断自体が衛星や薬物によって制御されているという紋切り型のストーリーだ。
映画に限らなければ、十七世紀の哲学者ゲーリングスによる「機会原因論」も似たようなものである。「機会原因論」とは、いわゆるデカルト主義によって生み出された心身問題、つまり別々のものである物質=身体と精神がいかにして交流するのか、という問題を解決する為に考え出されたアイデアの一つだ。
「機会原因論」による説明はこうだ。例えば、我々が腕を動かそうとする。するとその意志が、まず神に伝わる。すると神が物質に作用し、腕が動かされる。逆に腕が何かに当たったとすると、その信号が神に伝わり、神が痛みや触覚といった情報を精神に送り込んでくる。
「機会原因論」における神の役割を何が担っているかは、映画によって異なるので、一概には決定できない。しかも、斉藤は寝るのが好きで、映画の途中で大抵眠ってしまう。その為、どの設定からどのような結果や解決法が生み出されるのか、その関係をよく把握していないのだ。
その上、斉藤は余りにも多くの映画を見ていた。だから件のボートに乗る傭兵の場面が、どの映画の一部であったかも思い出せないのだ。
「機関」のメンバーの間では、現象発生後、例会の度に作品の同定を巡って話し合いが行われたが、結局はっきりしなかった。最もマニアである斉藤にすらわからないことが、その他のメンバー達に分かる筈もなかった。
だがあくまで推測の範囲内では、恐らく中国がこの現象の鍵を握っている。これは「ゴルバチョフ機関」最高の肉体派俳優である辻本の証言による。
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辻本は自分の演技により磨きをかける為に、実際に格闘技を習っていた。幼少の頃より空手、柔道を学んだが、現在の彼の師範は中国人である。彼は空手を学ぶうちに力や体格の限界を感じ、その源流であるとも言われる中国拳法の研究に向かったのだ。
辻本は師範の演武を何回か見たことがあったが、それは今までついた他の武術教師らと比べても、次元の違うものだった。だからこそこの先生に師事しようと心に決めたのだ。勿論、辻本のような一般の学生が師範に直接に教授されることはあまりなく、普段の練習は日本人の師範代の元で行われる。だから、中国人の師範と辻本が直接に会話をすることはほとんどない。
だが、辻本には格闘技者であると同時に映画俳優としての一面があった。彼の出演した「ゴルバチョフ機関」の作品のいくつかは、自主映画としては高い評価を得て、海外の映画祭などでもとりあげられていた。その為、熱烈な映画ファンであり、同じく中国人である師範夫人とは親しく会話する機会があったのだ。
辻本は夫人から大陸の事情を色々と聞かされた。夫人によると、中国と日本ではまるで町の雰囲気が違うそうだ。中国ではどの家にもレゴブロックのようなアスレチック施設やプールがあり、日本の家は小さくて気味が悪いという。
しかし辻本がそれまで新聞やテレビで見た知識では、中国の一般家庭がそれ程豪華であるとは考えにくかった。そもそも、アスレチック施設をレゴブロックにたとえること自体おかしい。夫人は目を輝かせながら、しきりに「レゴ、レゴ」と繰り返しており、その様子は単なる比喩では説明のつかない固着ぶりだった。立場上、夫人の言葉に異を唱えるような真似は出来なかったが、内心夫人の言動を不審に感じていた。
後に現象が始まってから、辻本はこのことを思い出した。夫人は病的な映画ファンなのだ。そして夫人が中国人であり、中国で生まれ育った以上、その映画暦のほとんどは中国映画によって占められている筈だ。つまり、夫人の奇妙な言動は中国映画によるものなのだ。
だとすると、中国では現象が他の地域より早く始まっていた事になる。勿論、これだけはっきりとした差が出たのは夫人の映画熱が尋常でないせいだろうが、それでもやはり、現象は中国から始まったと考えるのが妥当だ。大陸で、現象の原因となる何かが、人民を対象に実験的に行われていたのだ。
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「ゴルバチョフ機関」としては、現象発生後も辻本を接点に中国について調査を続けたかった。しかし「裏切り」からしばらくして、辻本は「機関」に顔を出せなくなってしまった。
辻本は徴兵されたのだ。
ある日、自宅に帰った辻本がふと居間の食卓を見ると、いくつかの郵便物に混じって彼宛の変わった封筒が置いてあった。何気なく封を切ると、驚いたことにそれは召集令状だった。今まで考えたこともなかっただけに、辻本はその紙を何度も裏返したりして確認したが、確かに召集令状だった。ただ噂のように赤い紙ではなく、普通の白い紙にプリンタで出力したらしい文字が事務的に並んでいた。税金の督促状のような無機質な令状だった。
奇妙なことに、その召集令状には、辻本のことが五十代の身体障害者として記載されていた。若者は総て戦地に赴いている状況で、そんな人間にもお呼びがかかった、というような説明が付されている。
しかし辻本はまだ二十代で、五体満足だ。おまけに、令状の個人データの所には、答えた覚えのないアンケート結果がプリントされている。心理テストのような仕組みで、記された回答に対してコンピュータが診断を下しているようだ。そのアンケートには、痴漢をしたことがあるか、しないとしたら何故しないのか、するとしたら女性は感じるかどうか、などといった問いが並んでいた。
とにかく、令状の宛名は辻本になっているので、無視してしまう訳にはいかない。召集検査の場所は、都内のあるホールになっていた。
翌朝、辻本は眠い目をこすりながら件のホールに赴いた。ホールと言うよりは体育館のような場所で、ガランとした会場に十数名の男女と二人の軍人らしい係官がいるだけだった。辻本以外は皆七十を過ぎているような老人ばかりで、裸にされて身体検査などを受けていた。
辻本は一通りの検査を受けた後、写真を撮る任務を言い渡された。任地の欄には「東京都」とだけ記されていた。辻本は家族や友人との連絡も許されず、その足で任務を開始しなければならなかった。
*****
辻本は令状を受け取った日の夜、監督に電話している。監督は、令状を受け取ったショックや、令状の記述の奇妙なことを聞いた。これを最後に、辻本からの連絡は途絶えた。
だが、この時監督は重要な情報を彼から得ていた。本来口外してはならないことなのだが、動揺した辻本がつい監督に喋ってしまったのだ。それは招集検査の行われたホールの名前だった。
辻本の召集後最初の「ゴルバチョフ機関」例会で、監督はこの件を議題にあげた。
監督はホールの名前に聞き覚えがあったのだ。彼はそのホールで撮影された、動物のテレビ番組を見たことがあり、しかもビデオに録画していた。監督は動物が好きで、将来は動物映画を撮りたいとまで考えていたので、テレビの動物番組はよく研究していたのだ。
例会では、その番組のビデオが上映された。ブラウン管に映し出されたホールでは、コックの服を着た男がパグをデッキブラシで洗っていた。ナメクジのように異様に目が飛び出たパグで、それが石鹸の泡の中で伸びたり縮んだりしていている。テロップではパグとされているが、冷静に見ればとてもパグには見えない。それどころか、哺乳動物であるかどうかも怪しい。背景音には観客の脳天気な笑い声がアフレコされていて、それが余計に無気味だ。
基維はそれを見た時、実はこれが動物番組に偽装した歴史番組であることに気付いた。
「監督、パグウォッシュ会議……」
「そうか!」
ビデオを巻き戻して子細に観察すると、ただ象を写せばよいだけの映像が、ハンニバルを意味するように編集されていることが分かった。他にも沢山の符丁が隠されていた。
勿論、この番組は現象の前に放映されたものだ。しかしここに既に「核の冬」の予兆が現れていたのだ。師範夫人が中国映画により影響されていたように、彼等もまた動物を使ったトリックにまんまとはめられていたのだ。
辻本なきあと、現象の秘密を探り〈裏切り者〉を探し出すには、動物がヒントになりそうだった。それこそ、監督の得意分野だ。監督は慎重に切り出した。
「いくつかのテレビ局が、ホールに犬を集めて番組を制作したため、それぞれのホールには、動物の間で決まった評判というのがあるらしい。それは口コミのようなもので伝わっていて、予防接種の際などは、喜んで行く場所とそうでない所があるそうだ」
つまり、動物の情報ネットワークにアクセスすることが出来れば、その動物を利用した歴史番組の経緯についても知ることが出来るかもしれないのだ。ニセ動物番組が中国映画と同様の手法を用いていることから、〈裏切り者〉との接点も必ず見つけだすことが出来る筈だ。
こうして、「ゴルバチョフ機関」は短い実験的な動物映画を撮影することになった。同時に辻本の消息を探る為、軍についての調査も開始した。勿論、入念な取材の後には「ゴルバチョフ機関」初の本格戦争映画が制作されるのだ。
*****
「ゴルバチョフ機関」はモチーフとして羊を選択した。監督の「特異点探知能力」が、最適な動物を羊と判断したのだ。
動物園では、戦争の影響か、猛獣が次々と射殺されつつあった。そんな状況であるから、動物園から羊を譲り受けるのもそれ程難しいことではなかった。飼育係の人達には動物を愛する心があり、殺すくらいなら少しでも大切に育ててくれる里親に預けたいと考えていたのだ。
しかしよく考えてみれば、羊は射殺しなければならない程凶暴な生き物ではなかった。
「ゴルバチョフ機関」は譲り受けた羊をスタジオに連れて行き、様々な角度から撮影した。撮影は三十時間にも及び、膨大な量の素材フィルムが得られた。
現像の出来たものから順に、フィルムは編集されていった。この作業は非常なスピードが要求された。素早く編集しなければ、撮影された像自体が変化してしまうのだ。これを担当したのは編集マン金井だ。金井はその特殊能力「切断」を買われてゴルバチョフ機関にスカウトされてきた男だ。普通の編集マンでは考えられない速度で、金井はフィルムをつないでいくことができるのだ。
「核の冬」以降、固定化された情報の変化速度は圧倒的に増していた。それ以前に制作された動物番組がそれ程変わらない状態で上映出来たのと比べると、現在では地図や実際の地理すら分単位で変化してしまう。
アフレコする余裕もなかった為、作品はサイレントで上映されることになった。そもそも、この映画にはセリフもナレーションもない。せめて音楽だけでもつけようかという案もあったが、時間が優先された。作品は「羊達の沈黙」と名付けられた。
実に撮影から二週間という超スピードで、映画は完成した。といっても、十分足らずの実験作品である。
早速試写が行われた。居合わせたのは、監督、基維、小林、斉藤、録音の大林、照明の藤原、そして「ゴルバチョフ機関」看板女優のKだった。
試写を見た全員が唖然とした。動いている羊を撮影したにもかかわらず、映画の終盤に向かって徐々にフィルムスピードが落ち、ついにはストップモーションになってしまっていたのだ。勿論、撮影時にそんな技術は使っていないし、オプティカル処理も施していない。
ここではっきりしたのは、羊にはある種の停止能力があり、この停止能力が符丁となって、羊のコミュニケーション手段となっているということだ。減速と停止、これが羊ネットワークの基盤になっていたのだ。
実際、寝るのが好きな斉藤は、わずか十分の映画にも関わらず終幕を見ることなく眠っていた。
しかしそれだけでは、動物ネットワークの一端を垣間見たに過ぎない。「ゴルバチョフ機関」は、「機関」所有となった羊に様々な電気的加工を加えて何度も撮影しなおすことで、停止現象の変化を観察した。理論的には、この変化率を微分することで動物ネットワークの搬送波周波数を知ることが出来るのだ。
監督の「特異点能力」は微分に似た機能を持っている。コンピュータが使えない状況で、またこの能力が活躍する場が現れた。
「機関」はゆっくりとではあるが、確実に〈裏切り者〉のポイントに近付きつつあった。
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「ゴルバチョフ機関」が羊映画によって動物ネットワークへのアクセスを試みていた頃、辻本は一人軍務により写真を撮り続けていた。
そうは言っても、辻本の持っているのは実家で不要になった安物のオートカメラだけだ。しかも彼はあくまで肉体派の俳優であり、映画関係者と言っても写真の腕は素人である。
だが、軍の命令では仕方がない。写真はかなりの望遠で撮らなければならないようなので、そのカメラに無理矢理テレコンバーションレンズを積んだ。二眼レフなので、ファインダーを覗いても何が写るのか正確に分からない。
何をどう撮ればよいのか、一切指示がかなかったので、辻本は闇雲に町中の風景をフィルムに収めて歩いた。この撮影行為にどういう意味があるのかさっぱり分からなかったが、とにかく撮らない訳にはいかなかった。路上などで寝泊まりしながら、何日も何日も写真を撮り続けた。
フィルムは定期的に軍の工作員に手渡された。知人への連絡も許されず、彼は都内に潜伏して撮影生活を続けた。軍との接触もフィルムの受け渡しのみで、他にどんな兵隊が活動しているのかも分からなかった。いかに肉体派とはいえ、この孤独な軍事行動は身にこたえた。
しかし考えてみれば、戦時下でのんびり武術の練習や自主映画の制作に明け暮れていた今までの方が特別だったのだ。町中には緊張した空気はまるでないが、やはり戦争は続いているのだ。
「核の冬」が始まった時、当然、皆は戦争を連想した。突発的な核兵器の使用が導いた現象だとしても不思議はないのだが、日中戦争のような泥沼的戦争が背景にあることを直観したのだ。おそらくはこの直観自体が「核の冬」現象の結果であって、根拠のあるものではない。とにかくそう考えた途端、誰もが戦争ははるか以前より続いていたというより他に考えられなくなってしまった。
この戦争が始まったのがいつなのか、詳しいことは分からない。少なくとも辻本の生まれた時分には、もう今の状態が当たり前になっていた。前線の状況は新聞などで知ることができるが、いつも感情の欠けた数字が並んでいるだけで、勝っているのか負けているのかもよく分からない。いずれにせよ、銃後の生活にそれ程変化があるわけでもないので、辻本を含めて多くの国民は戦争に無関心になっていた。戦地に送りだされた若者は、大抵そのまま音信が途絶えたが、それも当たり前のことになってしまって、誰も興味を持とうとしなかった。
一か月ほど経った時、突然辻本は師範から呼び出しを受けた。知人との接触を禁じられていた筈が、何故か特別扱いのようだった。事情をのみこめないまま道場に駆け付けた辻本に、師範は満面に笑みをたたえて表彰状を渡した。どうやら、辻本の撮ったフィルムの中に、いくつか重要な情報が含まれていたようだ。
この時初めて、辻本は師範が軍の上層部とつながりを持っていることを知った。軍と武術が関係があるのは考えてみれば当たり前の話だが、軍部は辻本の想像以上に複雑な形で一般社会とつながっているようだった。
重要な情報というのは、偶然に写真に写った三人の中国人のことらしい。確かに、二人の男と一人の女が、ベタ焼きの中で並んでいる。三人は以前よりマークされていた人物のようだった。
標的の中国人、中国拳法の師範、軍、この三つが並んだことで、辻本は「核の冬」現象の端緒に日本軍もが関係していることを嗅ぎとった。「ゴルバチョフ機関」の調査により、「核の冬」が中国から始まったらしいことが分かっている。軍はそれとまるで無関係のように行動しているが、実は初めから「核の冬」を計算に入れて活動しているのではないか。
恐らくは辻本の言い渡された撮影活動も、「核の冬」そのものに関係した調査活動なのだ。「核の冬」の効果を調べる為に、あえて無作為に写真を撮らせているのだ。そうでなければ、ファインダも覗かずに撮った写真に意味がある筈がない。意味のない所に意味が発生し、変化することこそ、「核の冬」現象の核心ではないか。
辻本は軍と現象の関係を「ゴルバチョフ機関」に報告したかったが、工作員の監視のもとではそれもままならなかった。
*****
その間、「ゴルバチョフ機関」もただだまって指をくわえていた訳ではなかった。
計二十三頭の羊を犠牲にした実験の結果、「ゴルバチョフ機関」は動物ネットワークの搬送波周波数を特定することに成功したのだ。
監督は動物好きが高じて獲得した動物との精神感応能力を用い、人間とのシンクロ率を最大限にまで高めた変異種「電波羊」の神経回路へとダイブした。実際に動物ネットワークへと侵入してみないことには、その内部で用いられている変調方式や暗合の使用法が分からないからだ。
その様子を、キャメラマン斉藤は撮影し続けた。シンクロ実験は長時間に亘ったが、斉藤は睡魔と戦いながらキャメラを回し続けた。斉藤がこれ程長い間寝ないで仕事をしたのは初めてのことだった。彼にも、この実験の重要性が認識できていたのだ。
実験は外見上まるで動きのないものだった。だが斉藤はキャメラを止めなかった。やがて来る一瞬のモーションを撮り逃がすわけにはいかないのだ。こうして、膨大な16ミリフィルムが無駄になっていった。
その間、監督は目を半眼に閉じたまま、「電波羊」を通じて「特異点探知能力」によるコード解析を進めていた。三時間を超えるシンクロ実験の結果、監督は遂にあの動物番組で用いられたパグの変異種との接触に成功した。
驚いたことに、動物ネットワークの中では「核の冬」の到来がかなり以前から予期されていたようだった。変異パグ自身、自分が現象惹起の片棒をかつがされていることを承知の上だったようだ。にも関わらず動物達が「核の冬」に対して何の抵抗も示さなかったのは、動物ネットワークの中心を占めるある宗教的信念が関係しているようだった。が、さすがにその中枢までは人間である監督には入り込むことが出来なかった。
その代わり、動物番組を制作したテレビ局に、例の〈裏切り者〉が関与していたことがはっきりした。視覚変換された情報を通じて、〈裏切り者〉の顔を見ることが出来た。それはまぎれもなく、あのアイルランド人らしい傭兵の姿だった。
「どこだ、ヤツはどこにいる!?」
ヴィジョンが錯綜する。その中に、一瞬BLKの映像が走った。恐らくは通りすがりの犬が偶然目撃したものだろう。監督はダイブを解き、地図を持って「特異点探知能力」を最大限に開いた。監督の脳裏に、やがて来る「ゴルバチョフ機関」によるBLK追跡のシナリオがはっきりと浮かび上がった。
「機材を用意しろ! 撮影開始だ!」
*****
こうして「ゴルバチョフ機関」によるBLK追跡が始まり、そしてそれは失敗に終わった。
しかもキャメラマン斉藤、録音の大林、照明の藤原という貴重なメンバーまで失ってしまった。彼等は羊のような睡眠に巻き込まれ、完全に時間の流れから切断されてしまったのだ。
監督は「電波羊」を利用して何とか彼等を救出しようと試みたが、無駄な努力だった。羊は減速と停止を基本的な符丁に使っており、停止している斉藤とも接触することが出来る。しかし、一度眠ったものの目を覚ますことは、例の動物宗教によって固く禁じられているようなのだ。
この事態を、ただ一人録音助手の小林だけが内心ほくそ笑んで眺めていた。なぜなら、録音チーフの大林が脱落したことによって、彼が録音作業を全面的に任せられることが確実になったからだ。しかし苛立っている監督の前で喜びを露にしてしまうことは、せっかく開けた出世の道を自ら塞いでしまうことになる。小林は必死で笑みを噛み殺していた。
小林を除いたメンバー全員が意気消沈していた。「ゴルバチョフ機関」は敗北した。
だが撤退は許されなかった。プロデューサーからの厳命があるのだ。
「ゴルバチョフ機関」は、自主映画サークルとしては破格の予算で映画を撮り続けている。斉藤による凄まじいフィルムのムダ遣いが許されたのも、予算の余裕があればこそだ。その金は、総べてプロデューサーの手配によってまかなわれている。恐らくはロシアルートで、潤沢な資金が「ゴルバチョフ機関」に流れ込んでいるのだ。
恐らくというのは、監督以下「ゴルバチョフ機関」のメンバーは誰もプロデューサーの素顔を知らないのだ。プロデューサーは「チャーリー」といコードネームで呼ばれ、誰とも直接接触しない。ただ金と命令だけが「機関」に届けられる。
そして「核の冬」発生と同時に指示されたのが、「核の冬」の発生の秘密を探る映画の制作だったのだ。
「ゴルバチョフ機関」に属している者は、皆映画人としては半端者だらけだ。斉藤は寝るのが好きだし、小林は太っている。編集マンの金井は、フィルムの切断好きがこうじてバラバラ殺人の罪まで犯している。基維も普段は冷静な男だが、バイクにまたがると凶暴化し、今までに七人の通行人を轢き殺している。皆、この場所を除いては映画を撮る機会を奪われた者ばかりなのだ。
だからこそ、「核の冬」の映画はなんとしても完成させなければならなかった。その為には、現象を引き起こした張本人である〈裏切り者〉を撮影することがどうしても必要だったのだ。
「振り出しに戻りましたね」
金井が力なく呟いた。
「いや、そうか?」と、基維が言う。「確かに我々は一度〈裏切り者〉を撮り逃がした。しかし、監督の能力で地図番号までが特定できたじゃないか」
「地図番号が何です? そんなもの、明日になれば何の役にも立たなくなるのは基維さんも分かっているでしょう」
「本当にそうか?」
基維は黒板に向かって、「1025」という地図番号を書いてみせた。
「この『1025』はただの地図番号に見える。しかし他の見方も出来ないか? 何かの長さ、重さ、時間……」
「機関」のメンバーがはっと顔を上げた。基維の言う通り、「核の冬」現象の中では一つの記号が複数の意味を持ち、全く関係ない連合野に接続されていく。「機関」が地図番号を入手出来たという事実自体、今後の展開に無関係な筈はないのだ。
Kが呟いた。
「1025って、十月二十五日じゃない? 明後日だけれど……」
「明後日?」
そう、それは「ゴルバチョフ機関」の宿敵エリツィン来日の日だった。
*****
エリツィンがとうとう来日する。
「ゴルバチョフ機関」は「核の冬」現象以前から、エリツィンと敵対関係にあった。それは「チャーリー」によるエリツィン暗殺計画として何度も「機関」に知らされていた。
「ゴルバチョフ機関」の作品が、海外映画祭でノミネートまで選出されても最優秀作品賞を授賞出来ないのには、ギリギリのところでエリツィンの介入があるからだと言われていた。
エリツィンさえいなければ、現在行われている「核の冬」映画も早期に完成に漕ぎ着けることが出来るかもしれないのだ。
現在までの「機関」によるエリツィン暗殺計画は総べて失敗に終わっている。いかに資金が十分にあるとはいえ、「機関」はあくまで自主映画サークルなのだ。「機関」所属のスタッフには殺人経験者が少なからず含まれていたが、要人暗殺となると勝手が違う。
アマチュアテロリスト出身の照明マンがセルヴィアで迎え撃つ映画「オーストリア皇太子暗殺事件」も、未然に発覚してしまった。この時は捜査の手が「機関」にまで及び、「機関」自体の存続まで危険にさらされた。勿論、この照明マンの行方は知れない。恐らく生きてはいまい。
今回のエリツィン訪日に関しては、「チャーリー」の指示は特になかった。しかし〈裏切り者〉を追う過程で辿り着いたこの日程に、意味がない筈がなかった。
おそらくはエリツィンと〈裏切り者〉、そして「核の冬」現象の間には何らかのつながりがあるのだ。実際、多くの権力者が現象の混乱によりで失脚していく中、エリツィンだけはロシアの覇を握り続けていた。これはエリツィンが「核の冬」現象のメカニズムを知り、それを巧みに利用していることを意味している。
「ゴルバチョフ機関」は「チャーリー」の指示なくエリツィンとの接触を試みることにした。それは危険な賭けであったが、撮影がここまで難航している状況では、他に突破口が見当たらなかったのだ。
この計画は、監督と撮影助手のジミーによって行われることになった。隠密性を要求される作戦の為、なるべく少人数で行動する必要があるのだ。
ジミーは斉藤なき後、正規のキャメラマンに昇格する男である。キャメラの才能では斉藤に劣ったが、銃の腕前は「機関」随一だ。
基維は監督が作戦に参加することに反対した。監督は決断力と特殊な「特異点探知能力」にこそ秀でているものの、短気でカッとなりやすい性格だ。暗殺や隠密行動に向いているとは言えない。また万が一作戦の過程で監督を失うことになってしまっては、「核の冬」映画の計画自体が頓挫してしまう。
しかし監督は自らの参加を強く主張した。「探知能力」が狙撃の役に立つということもあったが、斉藤らの仇を何としても自らの手でうちたいという気持ちがあった。結局、監督とジミーの二人による作戦実行が決定された。
「斉藤、藤原、大林、お前等の死を無駄にはしないぞ」
しかしよく考えてみれば、別にこの三人もエリツィンに殺された訳ではなかった。
*****
「1025」、エリツィンを歓待する夕食会が催された。監督はこの席に関係者として潜入した。「羊達の沈黙」で改造された「電波羊」の催眠能力を用いて、短時間であるが会食の席を迷妄状態に陥れたのだ。
夕食会にはエリツィンや日本国首相を始め、大臣や要人が大勢あつまっていた。蝶ネクタイの男達による立食パーティーだった。
監督は慎重にエリツィンのそばに歩み寄った。監督の絞めている蝶ネクタイには特別な細工がしてあって、裏に同時録音用のマイクと送信機が隠されている。ガンマイクの使えない状況でセリフを録音するのに用いるものだ。また、襟元のボタンには超小型CCDカメラが仕込まれている。
エリツィンは既にウォッカがかなり回っていた。「電波羊」による催眠より寧ろアルコールの力が、彼を混乱させているようだった。彼は傍らに来た監督が誰とも分からないまま話しかけ、監督の衣裳を誉めた。そして監督がその席に相応しくない程若いことを悟ると、突然自分の息子について語りはじめた。
彼の息子は東大生らしいのだが、どうも成績が芳しくないらしい。エリツィンは息子が無事に卒業することを願って、その目的で来日となったようだ。
監督はエリツィン子煩悩ぶりに辟易しながらも、ネクタイの裏の送信機でジミーに場所を知らせた。ジミーは京都の寺町御池で狙撃銃を構えて待機している。「核の冬」以降、弾丸は一般相対性理論の影響を受け直進しない。それどころか、障害物や時間の壁も場合によっては問題なくなってしまう。だから、最適の狙撃ポイントを決定するのは、監督のような「特異点探知能力」を持っている者以外には難しいことなのだ。
殊に、今のエリツィンは酒に酔って気が大きくなっている。普通に狙撃しても、気付かない恐れもあるし、また酒の勢いで弾丸くらい弾き返してしまう可能性もある。その為、ライフル弾の威力と意外性を最大限に発揮させる京都寺町御池からの発射が決定されたのだ。
監督が合図し、ジミーが銃を発射した。頭に一発、左胸に一発。監督の目の前で、頬を紅潮させたエリツィンが血を吹いて倒れた。
「やったぞ!」
途端に場内がざわめき、皆がテーブルの下に屈んで隠れた。何人かの要人はSPに引きずり倒され、その陰に入った。
監督は混乱に乗じて会場を抜け出した。
「やった、遂にやったぞ!」
監督は「ゴルバチョフ機関」長年の目標であったエリツィン暗殺を成し遂げたことで、かなり興奮していた。しかもその決定的瞬間を、ビデオではあるが記録することに成功したのだ。
「今度の映画は、すごい作品になるぞ!」
が、意気揚々として戻って来た「ゴルバチョフ機関」作戦室は、暗く沈んでいた。皆の様子がおかしい。テレビがつけっぱなしになり、メンバーが沈んだ顔をしてうつむいている。
「どういうことだ」
テレビのニュースによると、どうやらジミーの撃ったのは天皇だったらしい。首相や何人かの要人も何者かによって暗殺されたということになっている。監督はテレビにかじりついてアナウンサーの言葉を聞いた。
ニュースによると、天皇はショットガンの流れ弾に当たって死んだらしい。銃器の専門家が「遠距離からショットガンを使うのはおかしい」とコメントしている。またある要人は、車で走行中、並走するバイクからATG30なる自動小銃で四発撃たれて死んだという。専門家はこの射撃技術をしきりに評価している。しかも、防犯カメラの荒い映像に映し出された狙撃者は、「ゴルバチョフ機関」の基維だった。
監督は基維を振り返った。
「違う、俺はやってない! これは罠だ!」
「何!?」
監督は不吉な予感を感じ、「電波羊」にかけよって動物ネットワークにダイブした。ネットワークから送られてくる映像では、ジミーが人混みに混じって寺町御池を歩いている。ライフルは分解して鞄におさめられているが、日本刀が長過ぎてはみ出している。しかも、いつの間にか祇園祭が始まっていて、周囲は警官と観光客で一杯である。
「だめだ、逃げろ!」
しかし、監督の声は届かなかった。ジミーはたちまち警官隊に抱囲され、逃げ場を失った。なんとか人垣を越えて飛び出したものの、そこは薙刀矛の目の前だった。避ける間もなく、ジミーは薙刀矛の下敷におしつぶされていった。
「ジミー!!」
同時に、警官隊が一斉に拳銃を発射した。監督は慌てて「電波羊」から離れたが、間に合わなかった。ネットワークを通じて侵入したニューナンブの弾丸が、基維の体に降り注いだ。特殊能力「予兆」をもってしても探知できない速度だった。
「基維!!」
金井が基維をかばおうとスプライサーを盾に立ちはだかった。特殊能力「切断」を使って、襲い来る弾丸をスプライサーでカットしていく。だが、余りにも弾丸の数が多すぎた。弾丸は天井や床からも現れ、金井の体を貫通し、更に基維の肉体をズタズタに引き裂いた。
弾丸は更に監督にも向かって来る。その前に盾のように小林が立ちはだかった。
「監督!」
小林は自主性がないが、監督の為なら命も惜しまない覚悟があるのだ。小林の体に弾丸がめり込んだ。
小林は特殊能力「肥満」を使って弾丸を吸収し、弾き返した。肉の壁の前に、弾丸が無力に跳ね返っていく。やがて弾幕が止んだ。
「な、何故この場所が……」
突然、作戦室の中央に、〈裏切り者〉のホログラフが現れた。ジジッと放電音を立てながら、〈裏切り者〉は薄ら笑いを浮かべて監督の方を向き直る。斉藤が映画で見、監督が通りすがりの犬を通じて確認したあのアイルランド系の男だった。
助監督のザクが咄嗟にカメラを構えたが、すぐにカメラは弾き飛ばされた。作戦室に据え付けられたどのカメラも、ホログラフの発生と同時に破壊されていた。
「無駄だ……この私の姿は虚像にすぎない……私を撮影することは不可能だ……」
「貴様……」
「世界は終わろうとしている……私はお前達の精神の内部に巣食っている……それ故、私は撮影することが出来ないし、スクリーンにも永遠に登場しないのだ……」
「では、斉藤の見た映画は!?」
「映画? それこそお前達の思い込みじゃないのか?」
ホログラフがスパークし、衝撃波に全員が弾き飛ばされた。機材が乱れ飛び、ザクの一つしかない目に破片が突き刺さった。ディスプレイが倒れ、フィルムが散乱し、皆が棚の下敷になった。ただ〈裏切り者〉の笑い声だけが時空にこだましていた。
監督が映写機の下から這い出した時、生き残っていたのはデブの小林、女優のK、分身という特殊能力でエキストラを一手に引き受けているサスケの三人だけだった。
*****
天皇と首相及び多くの要人が暗殺されたことにより、軍部による戒厳体制がしかれた。暗殺の実行者は不明とされていたが、一部の報道によると「機関」を思わせる団体にテログループとして容疑がかけられているようだった。
軍は余りにも長い戦争により疲弊し、焦燥感にまみれていた。その焦りからこの行動に出たことは間違いない。泥沼的戦争にはロシアと中国が関係しているようだったが、異常な長期に亘る戦争と「核の冬」の影響で、敵も味方も分からなくなっていた。その為、軍部は元々敵であったらしい中国と共同で「戦争」に向かったりしていた。そこでは何の目的で誰と戦っているのかも定かでなかった。
だが動機が軍の焦りにあるにせよ、「機関」の暗殺計画を逆手にとって利用することは、簡単なことではなかった筈だ。というのも、監督の「探知能力」は「核の冬」状況下で希有な能力であり、この裏を読んで更に罠にはめるには、余程の同定能力者が関係していなければ不可能なことだ。
そのような力技を実現できるのは、やはり〈裏切り者〉をおいて他にいない。軍は権力奪取の手段として戒厳体制を敷いたつもりでいるが、その軍自体が〈裏切り者〉に利用されているのだ。
戒厳令下、依然として軍の特殊任務をついていた辻本にも、この裏のカラクリが見えていた。辻本は頑強な肉体とずば抜けた挌闘能力を備えていたが、監督や基維のような特殊能力は持っていない。だが長年「ゴルバチョフ機関」で活動して得た知識や、監督らから受けた薫陶により、普通の人間より遥かに「核の冬」の性質を裏読み出来るようになっていた。辻本は軍務をこなしながらも、「核の冬」の秘密を探り続けていた。
当初の辻本の読み通り、「核の冬」は中国から始まっていた。だが中国は実験地として選ばれただけで、中国政府自体が「核の冬」を操っていた訳ではないらしい。〈裏切り者〉は恐らく香港の民間の映画制作機関に潜伏し、「核の冬」の胞子を散種したのだ。この胞子が具体的にどのような形をとっていたのかは定かではないが、人から人へと伝染し、いくらかの潜伏期間の後、一斉に「核の冬」へと巻き込む性質のものだったようだ。
辻本の考えでは、「核の冬」とは、一つのイメージなのだ。「核の冬」は想像の産物にすぎないが、一度そのイメージに捕われると、監督のような特殊能力を持たない限り、このイメージに制限された形でしか思考できなくなってしまうのだ。
本来固定され死んでいるはずの情報が変化していくのも、情報が想像力によって生命を吹き込まれているからに他ならない。問題は、いかにしてこの暴走を食い止めるのか、だ。しかしそれは〈裏切り者〉と直接接触しない限り解けそうもない問題だ。
天皇暗殺事件が発生した時、辻本は街角のテレビで基維が要人を狙撃している映像を見た。勿論、辻本にはそれが事実と異なることが分かった。同時に、「ゴルバチョフ機関」が罠にはめられつつあることを悟った。
それでも、彼には何もすることが出来なかった。それどころか、彼が「機関」出身者であることが分かれば、彼自身の身も安全でなかった。
実際、戒厳令施行から数日も経たないうちに、辻本は命の危険に曝された。児童センターで本を探している時、中国女二人の襲撃を受けたのだ。
彼女らは真っ黒な特殊部隊の戦闘服に身を包んで図書室の入り口に現れ、懐中電灯でもかざすようにサブマシンガンの銃口を向けた。乾いた銃声が響き、居合わせた人々が次々と銃弾に倒れていった。辻本は本棚の下敷きになってかろうじて難を逃れた。銃声が止み、硝煙の煙る中、彼はようやく本棚から這い出した。辻本以外の人たちは女子供も皆殺されていた。
接触した工作員は敵のゲリラ部隊だと説明していたが、都心深く潜入した敵部隊がわざわざ一介の写真兵を狙う訳がなかった。中国と混乱のうちに結託した軍部が、辻本を処理しようとしたのだ。工作員は用心の為と言って、望遠レンズを積んだキャノンのEOSとアルミ製の軽量三脚を支給して去った。
こうなってしまっては、もう辻本を守るものは何もなかった。二眼レフが一眼レフになったくらいで、命が守れる道理がなかった。
翌日、工作員には知らせないまま、都内のある映画館に彼は向かった。インディーズ作品を中心に上映するそのミニシアターでは、ちょうど今「ゴルバチョフ機関」制作による作品がかかっていた。戒厳令下、観客は辻本を除いて一人もいなかった。
スクリーンの上では主演の辻本とKが敵の猛攻をくぐり抜けながら戦っていた。敵兵を演じているのは総べてサスケである。辻本は巨大に映し出された自分自身の顔にレンズを向けると、シャッターを切りはじめた。
しかし余りの望遠の為、ファインダーを覗いても何が映っているのか分からない。
「何が映っているか分からない……?」
辻本は自分の思考を声に出して反復した。それこそが、この目的不明の写真活動の真の目的だったのではないか。
辻本自身には何が映っているか分からない写真を撮らせることで、写真の内容と辻本の意識を切り離したまま、ただ著名だけが辻本に回付される。
「そうか……」
辻本はゆっくりとファインダーから目を離し、それからEOSの裏蓋を開くと、中に入ったフィルムを引きづり出した。
ふと顔をあげると、スクリーンには北海らしい暗い海の風景が映し出されていた。
海の上には一艘の軍用ボートが浮いていた。今にも大粒の冷たい雨が降り出しそうな重い空だ。
ボートの上には六人の兵隊がいる。二人は突端でパラトル-パ-用に切り詰めたライフルを抱えて立ち、他の四人はめいめい勝手な場所でボートの縁に背を預けている。
その内の一人、アイルランド系らしいグレイの髪の男が、画面の中からカメラ目線でこちらを見返した。
「何だ……これは……」
辻本は男の視線に引きづられ、つい自分の背後を振り返った。しかしそこにはただ白い光を瞬かせる映写室があるだけで、何もある訳がなかった。はっとして再びスクリーンに目を移す。
そこは冷たい海の中だった。映画館にいた筈の辻本は、いつの間にか北方の凍てつく海に放り出されていた。
声を出す間もなく、全身が冷気に締め付けられ、鼓動が大きくなった。呼吸が苦しい。
グレイの髪の男が、辻本の額に照準を合わせる。パスン、と乾いた銃声が響く。それもすぐに吠えるような海鳴りの中にかき消されてしまう。
突端に立った男が振り返る。
「どうした、何があったんだ?」
アイルランド人は微妙な笑みを浮かべ、なんでもない、という風に首を振る。
「暗殺作戦」は始まったばかりなのだ。
*****
戒厳令下、「ゴルバチョフ機関」は残された四人のメンバーで、逃亡生活を続けていた。
正規のキャメラマンを失ってしまった為、多少は覚えのある監督がキャメラを担当していた。といっても機材はわずかなフィルムを残した16ミリキャメラと、安物のDVキャメラだけである。
都内に潜伏しつつ、「チャーリー」からの連絡を待った。通信手段もほとんど失われてしまった為、てんじくねずみとうさぎを飼った。電波羊は〈裏切り者〉来襲の際に失われてしまったし、何より羊では逃亡生活には大きすぎるのだ。
動物飼育が大家に発覚しないよう、二匹とも地面に埋めて飼った。アルミホイルに巻いて穴に入れ、定期的にエサをやり、動物ネットワークを通じて連絡が来るのを待ち続けた。
だが連絡はなかった。代わりに、ある日エサをやる為に地面を掘り返してみると、他のねずみが増えていた。ミミズやカエルもいる。てんじくねずみが二匹になっていて、カエルを引き裂いていた。これらの動物達は、既にネットワークから切断されていた。動物達は、「核の冬」が末期段階に入ったことを悟り、動物宗教の教えに従い孤立化しようとしているのだ。宗教から離れた動物は、ガン細胞のような暴走的な増殖や共食いを始める。
監督は追い詰められながらも、なお撮影のチャンスを伺っていた。とにかく、〈裏切り者〉さえ撮影することができれば、映画完成の道も開けるのだ。そして「チャーリー」からの指令から想像するに、映画の完成が、「核の冬」の進行を食い止める手段になる筈なのだ。
そもそも、〈裏切り者〉とは何の裏切りだったのだろうか。斉藤の見た映画などから推測するに、それは「暗殺計画」を裏切ったということだ。ということは、「暗殺」は失敗に終わったことになる。誰かが「暗殺」されずに生き残ったことで、「核の冬」が始まったのだろうか。
いや、そうではない筈だ、と監督の「特異点探知能力」が囁く。誰が「暗殺」されるかが問題なのではなく、「裏切った」という事実が重要なのだ。〈裏切り者〉は単に〈裏切り者〉なのだ。
そこまで考えて、監督はふと思い当たった。「暗殺計画」が失敗して窮地に追い込まれるのは、正に今の「ゴルバチョフ機関」の状況そのままではないか。するとエリツィン暗殺の失敗も、何者かの裏切りによるのか。あるいは、その裏切り者も〈裏切り者〉なのか。
監督はDVキャメラを構え、「機関」メンバーの逃亡生活を撮影した。「暗殺」に失敗し追い詰められる「機関」自身を撮ることが、「核の冬」映画になるような気がしたからだ。しかし肝心の〈裏切り者〉をフレームにおさめることが出来なければ、映画は完成しないのだ。
〈裏切り者〉はどこにいるのか?
ファインダーの中にその姿はない。
*****
「核の冬」現象はますます悪化していた。世界は終わろうとしている。
東京が軍政下におかれて数日してから、雨が降り出した。
初めはただの長雨に見えたが、何日経っても何週間経っても雨は止まなかった。灰色の大粒の雨が町を静かに浸していった。
東京は沈みつつある。すでにほとんどの道路がヘドロのような海の底になっていた。それでも雨が止む気配はない。
重い黒褐色の雲がたれ込める低い空の下で、消防隊が必死の救出活動を続けていた。彼らの努力が虚しいものであるのは明白だった。メディアを通じて流れてくるニュースは、連日長雨による死傷者を報じた。やがてそれも茶飯事となってしまい、株価報道のように死者の数だけが発表されるようになった。テレビで報じられるのは、前線での瑣末的勝利、軍の翼賛ニュース、長雨の被害だけになった。
雨は「核の冬」の影響で毒素を含んでいる。一定時間以上雨に濡れた者は、初めは何も感じないか、風邪のような症状を訴えるだけだが、既に病魔におかされているのだ。時間が経つにつれて、病ははっきりとその姿を現すようになる。
この病気は「悪辣な病」と呼ばれた。この病にかかった者は、放射能の影響により、他人の思念を先読みするようになる。放射性物質を含んだ水分が媒介となり、他者の思念が望んでもいないのに伝播してくるのだ。さらに脳にまで放射能が達すると、精神自体が乗っ取られ、心が悪意のみによって満たされるようになる。誰も人を信じられなくなってしまうのだ。
運良く雨から逃げることが出来ても、「病」は人から人へと伝染する性質がある。長時間病人と接触していると、雨に濡れていなくても「悪辣な病」に感染してしまう。
監督は「特異点探知能力」によって「機関」メンバー個人の意識を同定し、何とか思念の流入を食い止めようとしたが、無駄だった。「核の冬」の力は、既に「機関」の能力を大きく上回るようになってしまっていたのだ。
一方で、町では軍政と「核の冬」に対抗しようとする若者の運動が起こっていた。
人々の交流の場は既にアーケードやドームの下に限局されていたが、そこではまだ根強い生への挑戦が行われていた。
監督とKが隠しカメラを携えて駅前商店街に買い出しに出てみると、チャリティ活動と称してバンドが演奏していた。それだけでなく、商店街全体が祭りになっているようだ。商工会の役員らしい中年男が、福引きのガラガラをものすごい勢いで回転させている。通行人の会話を盗み聞きした所では、その回転力によって祭り全体の電力を発生させているのだという。
演奏しているバンドは「○○とネコのバンド」という名前だが、「○○」の部分が恐らくは勝手に創作された漢字で書かれていて、判読できない。女性ばかり三人によるバンドだ。下手くそな演奏にもかかわらず、演奏者も観客も涙を流している。
監督とKが黙って通りすぎようとすると、ボーカル兼ギターの女の子が寄ってきて、寄付をつのった。汚い格好をしていたが、少年のような澄んだ瞳をした子だった。監督は彼女が「○○」であり、残りの二人がネコであることを直観した。特殊能力「同定」を開いてみると、なるほど残りの二人は人間ではなかった。
「これでも歌謡学校でバンドやってるんだから」
Kが十円玉を二つ募金した。それでもバンドは納得せず、二つある灰皿の灰を捨てに行かされることになった。
灰を捨てにいくと、そのゴミ箱のそばにいた長髪の若者が監督に声をかけた。監督は見覚えのあるような気がしたが、誰だかは思い出せなかった。拾い集めた布を無作為に縫い合わせたようなボロボロの服をまとった男だ。服はヒッピー風にも、また未来の衣裳のようにも見えた。
男は吸っていた煙草を自分の眉間に押し付けると、そこで火を消してみせ、ニコッとした。とっさに思念が流入してきた。監督らが捨てようとした吸いがらの一つがまだ消えていなかったのだ。監督は言葉を使わずに思念を送り込んでくる若者が許せず、訳の分からないままに殴ろうとしてしまった。それをKが必死で止めた。
傍らでは、マイケル・J・フォックスのような外人が女を引っかけていて、灰がズボンにかかるのを気にして、迷惑そうに監督らの方を睨んでいる。
監督が何とか気を沈めると、若者が落ち着いた様子で話し掛けてきた。
「なんであんなんしたんや」
「イヤミでタバコの火が消えてないのを言ったと思った。キザなやつだと思ってカッとなってしまった。すまん」
「おごらせてくれ。早く酔っぱらって忘れて欲しいんや」
監督とKは若者に連れられて、バラックのような飲み屋でごちそうになることなってしまった。店には焼酎しかおいてなかったが、労働者風の男達で賑わっていた。
壁際に据え付けられた飲み屋のテレビでは、浅瀬に打ち上げられたイルカやクジラの映像が流れていた。彼らの灰色の皮膚はぶよぶよに腐っていた。
アナウンサーによると、世界の終わりに瀕して、初めて動物と言葉が交わせる方法が見つかったということだ。しかし動物たちは、ただ「淋しい、淋しい」と繰り返すだけで、孤独以外の何も心にはなかったということだ。
動物ネットワークとつながりのある監督には、その事情が分かっていた。彼等は死を覚悟し、動物宗教の掟により自らをネットワークから切断し、スタンド・アローンの状態で死のうとしているのだ。
若者の肩には入れ墨があり、ひし形のマークと「HKD」というアルファベットが彫られていた。監督はその文字列から〈裏切り者〉の乗っていたBLKを思い出した。どちらにもKが含まれていて、そのKは監督の横にいる。BLKもしくはHKDはここにいる三人を表象しているとも読めた。
一方で、Kを除くと他の二文字はアルファベット順で丁度二つづつズレている。未だに手に持った灰皿二つとぴったり合った。監督はこれが「チャーリー」からの指令であることを感じ取った。
HKDは北方にある島の名前だ。「ゴルバチョフ機関」は、HKDに向かうロードムービーを撮影しなければならないのだ。
*****
食料の代わりにバスのチケットを入手すると、「ゴルバチョフ機関」はHKDへの移動を開始した。専用バスをチャーターするだけの予算がなかった為、乗合バスになった。バスには、監督、K、小林、サスケの他、一組の夫婦と二人の女子高生が乗り合わせていた。
道中でたくさんの「悪辣な病」に犯された人々に出会った。彼らは無謀な旅を続けるバスを嘲笑し、蔑んでいた。さらに、「機関」メンバーの心にも「悪辣な病」が迫っていた。バスは放射能を遮断する特殊なコーティングが施してあるらしかったが、防水が完璧ではなく、一部のシートに毒素を含んだ雨が滴っていた。これではコーティングも意味がない。
小林は特殊能力「肥満」によって皆の盾になり続けていたが、やがてその脂肪も悪意を吸収し切れなくなり、ブヨブヨに腐敗し、溶け落ちていった。
サスケは最初「分身」能力によって「病」をかわしていたが、いつの間にか分身の一つが感染し、分身同士が仲たがいを始め、閉鎖的なサーキットに捕われていった。彼は次第に周囲の声に反応しなくなり、ブツブツと独り言を繰り返すだけの半病人になっていった。
長大なトンネルを抜け、HKDに出ると、雨が止んでいた。人口が少ないせいか、まだ雨が降り出していないらしい。監督らは久々に見る晴天に救われるような気がした。しかしその空を見ることもなく、小林は無言のまま既に息耐えていた。彼の手には最後までガンマイクが握られていた。その様子を、監督はキャメラに収めた。
現地のホテルに到着する頃には、小林の盾を失った監督も、次第に疑心暗鬼に捕らわれるようになっていた。もはやKとたった二人で映画を撮らなければならないにも関わらず、Kの背信をつい想像してしまう。Kだけはどういう訳か、「病」の影響を受けていない様子だった。いかに小林の盾があったにせよ、あまりにも超然としていた。監督はKが既にエリツィンや〈裏切り者〉の傘下に入っているのでは、という疑いを拭えなくなっていた。
バスがホテルに到着し、監督とKはバスを降りた。サスケも何とかバスから降ろそうとしたが、人間とは思えない怪力で座席にしがみつき、とても引き剥がすことが出来なかった。
ホテルは「ロ」の字型をした四階建ての古い建物で、薄暗い廊下には赤い絨毯がしいてあった。開業当初はモダンな造りだったのだろうが、今ではそれがかえって無気味に見える建築だった。
予算不足の為、監督とKはツインの同室になった。ポーターが部屋から去ると、Kと二人きりになった監督は、彼女への愛憎入り交じった劣情を抑えがたくなっていた。それが「病」の影響であることは分かっていても、もはや自分で自分を制御できない状態だった。Kはまるでそんなことに気付きもしないように、監督に背を向けてベッドに腰掛けていた。窓からの光に逆光になったその背中は、狂おしいまでに扇情的だった。
監督は劣情を断ち切る為、部屋を出た。同じ階の部屋に、バスに乗り合わせた人妻が入るのが見えた。すぐに走ってその部屋に強引に押し入ると、監督は女を殴り倒し、強姦した。セックスの最中も、間断なく殴り続けた。途中でその夫が部屋に戻ってきたが、「ああ、やっぱりか」という顔をして窓から飛び下りただけだった。セックスが終わった時、人妻は既に息絶えていた。
食堂に降りてみると、小男の芸能人が女子高生を陵辱しようとしていた。小男はホテルで行われるディナーショーの為に招聘されていたようだった。彼は「核の冬」以前五人アイドルグループのリーダーとして活躍していたが、現在は独立して一人で芸能活動を続けている。茶色く脱色した髪と異様に白い歯が目についた。彼は監督に気付くと、とっさに女子高生から離れ、「最近ダンスを始めたんですよ」とおどけた調子で腰を振り始めた。そのダンスは、この世のものとは思えない程劣悪でヘタクソだった。
監督は吐瀉物がせりあがってくるのを感じたが、何とかそれを抑えて、満身の力を込めて彼に向かってキャメラを構えた。斉藤もジミーも失った今、監督自らキャメラを回すより他に方法がなかった。監督は、亡きキャメラマン達、とうとうチーフとして活躍することのなかった小林を思い、込み上げる嗚咽と共にキャメラを回し続けた。劣悪なダンスが16ミリフィルムに焼きつけられていった。
*****
ホテルには死んだはずの監督の父が宿泊していた。誰もいない薄暗いホテルのロビーで、監督は父と再会した。監督の父は日本中を旅しながら仕事をしているのだ。子供の頃から疎ましく思っていた父であったが、世界の終わりに瀕して偶然に出会ってみると、何故か頼もしく思えた。父は監督に告白した。
「旅をするのに力を付けなくてはならないから、フランス料理を食べたいと言っていたんだよ」
そう言う父はひどくはにかんでいたが、監督にはそれが恥ずべき事だとは思えなかった。仕事の為に必要なことなら、ある程度は仕方がなかったのではないか、と思った。自分が子供時代に父の贅沢を責めたかどうか思い出そうとしたが、そんな記憶すらなかった。監督には父が放射能の影響で錯乱しているように思えたが、口には出さなかった。
監督の父は商売道具である鞄を開くと、ホクロ占いをやってやると言い出した。父は流しの占い師なのだ。特にHKDでは、足の裏のホクロ占いが流行っているという。
監督は裸足になると、椅子に腰掛けて足の裏を父に差し出した。父は大きな虫眼鏡で、もっともらしくその様子を観察していた。子供の頃脅威の対象だった筈の父は、眼鏡をかけ貧乏臭い口ヒゲを生やした怪し気な占い師にしか見えなかった。
監督の足の裏は大変な幸運を意味しているらしかった。しかし、足裏ホクロ占いは星座占いを併用していて、本当にホクロで占っているのかどうか疑わしかった。
「お前は凄い強運の持ち主だなあ。今、何やっているんだ?」
「映画監督だよ」
「そうか。偉くなったな。これからはお前のことを『監督』と呼ばなくちゃな。なあ、監督」
そう言われて、気恥ずかしいと思う前に、監督は何か重要なことを思い出したような気がした。しかしそれが何なのか確認しようとすると、視界の隅の陰のように失われてしまった。「同定」の能力も雨に洗い流されて弱まってしまったようだった。
「監督、お前は映画監督なんだから、映画を撮らないとだめだよ。頑張って立派な映画を撮ってくれ。そして、それが出来たら父さんにも見せてくれよ」
監督ははっとして、そうだ、映画を撮らなければ、と思い出した。そしてさっき思い出したことはこのことだったのだ、と自分に言い聞かせた。小男のダンスも、どこかのシーンで使えるかもしれない、と思った。
*****
部屋に戻ると、変わらずにKはベッドの端に腰掛けていた。監督は黙ってキャメラを構えると、Kの後ろ姿を撮影し始めた。カタカタというムービーキャメラの回転音が部屋に響いた。Kはそのままの姿勢で監督に話し掛けた。
「それは新しい映画に使うの?」
「そうだよ」
監督はキャメラを回したまま、少しずつKの背中に歩み寄っていった。ベッドの端から横に回り込もうとしたところで、初めてKがキャメラの方を向いた。そしてゆっくりと迎えるように両手を差し出すと、キャメラの両側に手を添えた。
「ダメだ、フォーカスが狂う」
「監督、私の特殊能力を忘れたの?」
「そうだな……一体何だったっけ?」
キャメラを抱えたままの監督をKは押し倒した。そしてKと監督はセックスした。
その途中でフィルムが切れた。
セックスの後、Kは監督に尋ねた。
「これからは、名前で呼んでいい?」
「いいよ……もう俺と君しか残っていないんだ。監督も何もない」
だが、監督には自分の名前が思い出せなかった。考えてみると、もう何年も監督としか呼ばれたことがない。しかしセックスの後の睡魔で、それ以上考えられなかった。眠りに落ちる直前、Kの特殊能力が「忘却」であったことを思い出した。
夢に、ゴルビーが現れた。
ゴルビーは何かを監督に伝えようとしていた。そこは強力なライトが当たるスタジオか何からしく、正装したゴルビーは額に汗をかいていた。それでも急いで伝えなければならないことがあるらしく、大袈裟なジェスチャーで監督に語りかけていた。しかしサイレントの映画のように、ゴルビーの声は全く監督に届かなかった。声が届かないと、ゴルビーの一所懸命な様子はただ滑稽にしか見えなかった。
そんなことより、ゴルビーのハゲ頭が気になった。汗が頭のシミの上を流れていた。ゴルビーの言葉はまるで聞き取れなかったが、そのシミの形には何かメッセージがあるような気がした。しかし見れば見る程、難解な漢字を見ているようで訳がわからなくなった。汗が複雑なシミの形に沿って、様々なパターンを描いて流れていく。それは「ゴルバチョフ機関」に与えられた新しい指令を意味しているようだったが、余りにも複雑な暗合化が施されていた。
監督は特殊能力「同定」を生かして、パターンを解析しようとした。しかし依然として、そこには何の意味も浮き出てこなかった。監督自身も、焦りで汗をかきはじめた。「核の冬」が進行しすぎて、能力が追い付かなくなったのだろうか。それにしても、ゴルビーの頭のシミと汗の筋には、一遍の記号性も発見できない。いかに能力が弱まったとしても、そんなことがあり得るだろうか。それでは、これから「ゴルバチョフ機関」はどう行動すれば良いのだろうか。
監督は自分から声を出して、ゴルビーに暗合の意味を問いただそうとした。しかし監督の声もゴルビーには届かないらしい。それどころか、監督が必死で訴えかけていること自体見えないようで、ゴルビーは依然としてただ大汗をかきながら訳の分からないロシア語を叫んでいた。
目覚めると、Kはいなかった。よくあるストーリーなのだ。
*****
翌朝、監督はキャメラを持ってホテルを出た。ホテル全体の外観を撮影しておこうと思ったのだ。
外に出てみると、周囲が線路になっていた。ホテルは電車車庫のように十数本の線路が延々と並ぶそのまん中に建っていたのだ。川の流れのように、鉄路がホテルを避けて両側にそれ、しばらく先でまた合流している。何年も使われていないような赤黒く錆びた線路が何本も連なり、外部に出るには百メートル近く線路を跨いでいかなければならなかった。その向こうは下町の住宅密集地らしく、ゴミゴミとした長家が続いている。銭湯か工場の煙突が数本そこから突き出していて、まっすぐに細い煙がのぼっている。
到着時からそうだったのかよく思い出せなかったが、昨日はバスが乗り付けられたことを考えると、一晩のうちに周囲の地理が変わったようだった。四階建てだった筈のホテル自体も、十六階建てになっていた。古い構造のまま縦に伸びた為、あちこちで鉄筋の軋む音がしていた。
ホテルと線路の間にある三角州のような部分には、不法投棄された古い電化製品が小山をなしていた。線路を跨いで捨てに来るとは考えにくいので、鉄道から直接投棄されたものらしかった。
ゴミの山が邪魔になる上、ホテルそのものが巨大化している為、建物全体を撮影するには距離がとれなかった。監督はキャメラバッグから広角レンズを取り出してレンズを交換した。
斉藤とジミーが死んで以来、中望遠のズームレンズばかり使っていた。監督は中途半端なワイド画面が嫌いなのだ。パンフォーカスでしまりがなく、何もかもが白けて見えてしまう。だがこの状況では広角レンズを使うより他に選択肢がなかった。監督は思いきって魚眼レンズのような超広角レンズを使うことにした。そこまでやれば、独特の効果が現れると思われたのだ。
三脚を立てて、超広角を積んだ16ミリキャメラをホテルに向けた。ファインダーを覗くと、綺麗にホテルが画面に収まっていた。多少ケラレが見えたが、それはそれで特殊効果に見えないこともなかった。更に効果を出す為、ハーフの減光フィルタを使ってみることにした。空の部分が明るすぎるのだ。ただ広角レンズの径に合うフィルタがなかったので、ゼラチンフィルタを手で持ったままキャメラを回すことにした。
構図を決めて撮影しようとした所で、画面の隅に点のようなヘリコプターが映り込んできた。キャメラをいじるのに夢中でまるで気付かなかったが、顔をあげるとバラバラとローターの音が遠くから響いていた。そのヘリが隅に入ると、丁度画面が引き締まって良い構図になる。監督は幸運に感謝しながら、再びファインダーを覗いた。
すると、さっきはなかった奇妙な陰が映っている。それが邪魔でアングルを調整してみても、やはり映っている。早くしないとヘリが行ってしまうかもしれず、監督は苛立ってきた。
更にいつの間にか、ゴミの山の方から子供とその老いた両親がやってきて、キャメラの前でうろうろし始めた。廃品から使えるものを掘り出して生活している親子らしい。撮影の邪魔になっていることも分からないようで、無遠慮にレンズの前を行ったり来たりしている。子供は珍しいオモチャを見るように間近からレンズを覗き込んでいる。
父親の方もキャメラに興味があるようで、これはオートなのかね、オートなのかね、と尋ねてきた。父親は労働者風の猫背の小男で、黄ばんだ肌着だけの格好だった。監督は苛立ちながらも、オートもマニュアルも出来ます、と答えた。すると彼はキャメラの前で手をチラチラ動かし、これでもピントが合うかね、ときいてくる。さらにホテルの玄関前に立って、自分をファインダーに捕らえるように言い、露出はいくらかね、と尋ねてくる。余りしつこいので、監督は彼にレンズを向けて、構図を作った。夕暮れ時のようなオレンジ色の光の中に、愚鈍そうな男のくたびれた笑顔があった。
その男の顔を見ていて、初めてさっき映った陰が自分の指であることに気付いた。急いで元の構図を取り直してみたが、もうヘリはベストの位置から遠ざかってしまっていた。ヘリには、〈裏切り者〉が乗っていたに違いない。
初出:単行本『ゴルバチョフ機関』(2003年)
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ゴルバチョフ機関

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