韓国映画を見に行くと、わたしは牛乳だった


 S子と電話した。
 S子はある右翼活動家の秘書のようなことをやっている女だ。秘書というか、シンパの活動家の一人ということだが、実際上は一緒に暮らして時々街宣車に乗っているくらいのものだろう。良くは知らない。
 わたしはこの右翼活動家の思想を面白いと思い、大分以前に何度かお会いしたことがある。あり得たかもしれないもう一人の自分のような、危うさと切なさ、鋭さを兼ね備えた人物だった。
 S子とは彼を通じて知り合ったのだけれど、彼女は彼女で一目で「普通じゃない」感じがした。もう三十も過ぎようとしている筈だけれど、小柄で細身で、少女がそのまま大人になったようだが、ゴシック趣味の少女の持つような危うい匂いがあり、しかしサブカルのような弱々しさは感じない。自分の中のグロテスクな欲動と、地に足のついた生活感を同居させていて、これも件の活動家の影響のなせるわざだったのかもしれない。
 彼らは九州に住んでいるので、頻繁に顔をあわせる機会はなく、時折ネットごしに近況を伺い知る程度だ。
 そのS子と久しぶりに電話をして、ベッドの上でごろごろ身を揺すりながら、他愛もない会話を楽しんだ。
 彼女とはまったく音楽の趣味が合わない。彼女ばかりではなく、わたしが気になる人とは大体音楽の趣味が合わない。音楽の趣味と人間の相性とか好みというのは別物ということだろうか。あるいは単に、わたしはそこまで音楽にこだわりがないので、あまりマニアックな音楽になると理解できない、というだけかもしれない。
 この時S子が話したバンドも、まるで好みではなかったのだけれど、電話しながらインターネットで探した動画を見ると、確かに他のロックバンドとは違う印象は受けた。四人バンドが演奏する白黒のプロモーションビデオだったが、ギターの旋律が細くレーザーのようで、精密に作られた機械のようだった。ただ、わたし自身はそもそもロックが好きではないし、ギターソロがあるような音楽もほとんど聞かない。

 この電話でS子に勧められたからだったと思うのだけれど、それから数日してある映画を見に行った。
 マイナーな韓国映画で、上映しているのもアート系の作品をかけている小さな映画館で、それも映画祭的なイベントで多くの作品をかけている、その中の一本だった。
 この映画館を経営しているのは、元々は隣にある喫茶店のマスターで、映画好きがこうじて潰れかけた映画館を買い取り、シネフィルたちのために採算度外視で上映活動をしているのだ。採算も何も、映画館の電気代すら捻出できているのか怪しい。実際、この韓国映画を見に来ているのは、わたしを入れて数人程度しかいなかった。
 映画の中で、主人公が駅の巨大な地下街のようなところを歩いている。東京駅のような感じで、どこまでも広い地下通路が続いていて、通路沿いに綺麗な店舗が立ち並んでいる。
 通路には時々トイレもあるのだけれど、そのうちの一つに入ると、きらびやかな通路とは対照的に、どの便器も詰まって茶色い水をためていて、まるっきり打ち捨てられた廃墟のようになっている。使えるトイレは別にあって、使えないトイレは取り壊す前にそのまま放置されているらしい。
 こんなトイレでは使えない、と今来た扉を開けると、驚いたことに古い木造校舎のようなところに出てしまう。近代的な駅の地下通路からトイレに入って、同じドアから外に出たのに、そこは崩れかけた木造校舎なのだ。
 この校舎は建物の作りが複雑で、中二階のような不自然なところに部屋があったり、突然の行き止まりがあったり、忍者屋敷のような作りになっている。校舎のあちこちに無闇に巨大で複雑なトイレがある。
 この迷路のような建物、複雑なトイレというのは、わたしがよく夢に見る風景で、S子も同じらしい。それで彼女はわたしにこの映画を勧めたのだろう。
 後でWikipediaで調べたところでは、この映画の特徴は劇中劇にある。
 映画の中にもう一本映画作品が入っていて、それはギャング映画のような作りになっている。
 マフィアのような男たちが何人もくつろいでいる暖炉のある部屋があり、そこに主人公の男が入ってくる。部屋にいる男たちは、実は主人公を殺そうとしているのだけれど、そんな様子は見せずに葉巻をくわえながらにこやかにウィスキーを勧めてくる。
 しかし実は主人公は時間を何度もループしている人間で、彼らが自分を殺そうとしている、ということを知っている。
 そこで殺される前に拳銃を抜いて、次々とマフィアたちを撃ち殺していく。
 マフィアも五六人はいるので、いくら事前に知っているからといって、一瞬で全員を殺すのは難しい。そのせいで、ループは一回で終わらず、もう何度も何度も繰り返しているのだ。
 ループから抜けられないのは、ただ彼らを全員確実に殺すのが難しい、というだけでなく、殺すこと自体はできるのだけれど、何かその前に一つ、ループを抜ける条件があるらしい。それはマフィアたちからある秘密を聞き出すことらしいのだけれど、秘密を聞き出してなおかつ殺される前に全員を殺す、というのは、いかに事前に状況を知っていたからといって、簡単にできることではない。
 何度目かのループで、主人公は余裕をもってほとんどの男たちを射殺するのだけれど、撃たれた男の一人がカセットコンロのボンベを持っている。このボンベに跳弾が当たったのか、殺すまでは簡単にできる筈だったのに、突然に部屋は爆発して、結局主人公も死んでしまう。

 結構スリリングな映画で、しかも最後には綺麗に伏線が回収されて、わたしとしては十分に楽しめた。
 しかし映画が終わって明かりがともると、やはり映画館にはほとんど人がいない。人気のない映画なのだ。
 丁度そばに、映画館で受付をやっている、マスターの秘書にあたるような女性がいたので、「面白い映画なのに」と声をかけると、彼女は無感情に「そうですか」と応える。
 ピンヒールにタイトな膝上丈のスカート、細いメガネ、と、いかにもオフィスのできる秘書、という感じの出で立ちで、なぜ映画館で働いているのかわからない。
 ふと見ると、座席の一つに映画館のマスターが座っている。背は低いけれどずんぐりとした恰幅のいい体躯の持ち主で、始終タバコをふかしている。
 マスターの評価は辛口で、「だめだよ、最後うまくいっちゃ」と手厳しい。そう言われてみれば、劇中劇の部分ばかり、印象が強かったように思う。
 次の映画が始まるようで、前の映画とは対照的に、大勢の若い観客たちが入場してくる。やはりこの韓国映画は面白くないのだろうか。わたしには結構楽しめる作品だったのだけれど。
 数少ない前の観客たちやマスターらと共に劇場を出ると、マスターがまた話しかけてくる。「S子に言われて来たんだろう?」。
 マスターはS子を知っているのか。確かにわたしがこの映画を見に来たのは、S子に勧められたからだったけれど、その映画館のマスターがS子のことまでわかっているとは、どういうことだろう。
 「アンタとS子なら、どっちもこの映画を気に入るのはわかってるんだ。どっちも人間じゃないからな」
 そうか、とわたしは気付いた。これはこれで、また別の映画の一部で、今、設定が説明されているところなのではないか。
 「人間のように見えるけれど、宇宙人が作った間に合わせなんだ。だから同じ夢を見る」
 なるほど、そういうことならS子とわたしが同じ夢を見て、その夢のような風景の出てくる韓国映画を気に入るのもわかる。
 「それだけじゃない、アンタたちは女に見えるけれど、S子の中身はオッサンだ」
 マスターは衝撃的な事実を告げた。しかしそう言われてみれば、それはそれで合点がいく。S子にはどこか蠱惑的な魅力があり、わたしはなんとなく彼女に性的に惹かれるような淡い感情があったのだけれど、彼女の中身が「オッサン」なら、それも説明がつく気がしないでもない。
 「それから、アンタは牛乳だ。アンタの中身は牛乳で、宇宙人が作っただけだ」
 S子はオッサンで、わたしは牛乳。二人とも見せかけだけの存在だった。
 しかし、わたしが実は牛乳だというのも、言われてみればなんとなく納得いくところがある。わたしは一見、信念や思想の強い人間に見えるが、実のところ芯になるような中身は何もない。何かのコピーのようなものの寄せ集めでできている。どこかで聞いた台詞、どこかで聞いたロジック、どこかで聞いた思想、どこかで聞いた人格。そういったものを集めて、でっちあげているのが、わたしという人間なのだ。
 しかしわたしがそもそも牛乳で、見せかけだけ宇宙人が作ったのだとしたら、中身に一本通るものがないのも当たり前だ。牛乳で液体なのだから、土台となるべき人格なんて、あるはずがない。
 そしてあの忍者屋敷のような木造校舎や、無闇に複雑で機能していない多すぎるトイレは、わたしの身体なのだ。それは見せかけだけのものかもしれないけれど、宇宙人が作ったものなので、複雑すぎてわたしには理解できない。理解できないものがわたしの身体で、わたし自身は牛乳なのだ。
 何かこれは、あの韓国映画のように納得のいく、良いエンディングのように思われた。
 しかしマスターはこれにも辛口なのだろうし、わたしにとってはまとまりの良い話でも、観客など入るわけがないのだ。