字は汚い方が良い?


 アマゾンの書評などを見ていると、時々「誤植が多い」とコメントされている本があります。
 もちろん誤植はないに越したことはないのですが、個人的には余程度が過ぎない限り気になりません。むしろ放送事故のような生々しさがあって、嬉しいくらいです。
 最近エジプト人の先生に師事してアラビア語を習っているのですが、彼との授業で使っている教科書は、アラブ圏における外国人向けアラビア語教科書としては定番中の定番で、なかなかオーソリティもあるものらしいです(当然すべてアラビア語)。ところが、この教科書には平気で誤植が転がっています。授業の時にも「あぁ、そこ違うから直しといて」とサラリと言われます。アラブらしいと言えばアラブらしいですが、むしろ誤植にやたら目くじらを立てる日本人の方が少数派な気もします。誤植を直すのも勉強の内じゃないですか。
 余りに数が多ければやはり問題ですし、特に教科書のような本ではシビアだとは思いますが、間違った印刷、読みにくい文字を乗り越えていく時にこそ、真に柔軟な知性が発達するものでしょう。

 予備校時代、アナキストくずれの英語の先生が「字は汚い方が良い」という過激な主張をされていました。
 彼によると「キレイな字なら誰にでも読める。汚い字をがんばって読むから、頭が良くなるのだ!」ということで、実際、彼の板書は素晴らしく汚かったのですが(笑)、教師としては超一級でした。
 彼の言葉を真に受けて、同じく大変字のヘタクソなワタクシは「そうか! 汚くてもいいんだ!」と開き直ってしまい、その後の人生で幾多の大恥をかいてきたので、「汚い方が良い」は言いすぎだと思いますが・・・。

 言語も文字も所詮人の書いたもので、顔のある人間から遊離した「言語そのもの」に振り回されると、語学の学習ではロクなことになりません1。何人かのネイティヴのアラビア語を聞くと、明らかに発音法が異なる箇所などが耳につくことがありますが、それをもって「貴方のアラビア語は違う」というわけにもいかないでしょう。そうした差異を包含した全体が「アラビア語」なのです。
 「違う」ことに振り回されるより、「違い」の向こうに見果てぬ純粋形を追い求めつつ、目の前の人物の発音にできる限りシンクロする、そうした向き合い方の方が実りも多いし、楽しいです。

 でもやっぱり、言語を問わず、ネイティヴの書いた走り書きを読むのは時に至難の業ですよね・・。わたしの手書き日本語が外国人の方の目に触れませんように。

  1. しかし、顔から離れ抽象化した「言語自体」を想定できることは、言語の成立にとって不可欠な要素であり、本当はここにこそ言語の真価がある。 []