『オナニーマスター黒沢』と眼差し、ホルバイン『大使たち』


 『オナニーマスター黒沢』(原作 伊瀬カツラ 漫画 YOKO)というweb漫画を読みました。
 タイトルから容易に想像できる通り、少年マンガ独特の「キツさ」もあるのですが 、とてもよく構成された作品でした。
 放課後の女子トイレでこっそり自慰にふけることを生きがいにする中学生、黒沢。ある日この秘密をいじめられっ子女子の北原にバレてしまい、それから北原に横暴な「取引」を持ちかけられるようになる。それは北原に代わり、ある手段を使っていじめっ子たちに「復讐」することだった・・というお話。
 やっていることは明らかな変態的・犯罪的行為なのですが、少なくとも漫画で描かれる黒沢は「いじめられ」的な存在ではなく、常にメタ的な視点から物事を見ている、良く言えば人と群れない、悪く言えば気取った協調性のないタイプ。クールな黒沢がそんな秘密を握っているなど、誰一人想像していません。
 北原と黒沢の会話は、トイレのドア越しを基本にしています。いくつかの根拠から、北原は「そこ」に隠れているのが黒沢だということを、見抜いてしまうのです。「黒沢くんなんでしょ?」「返事をしないということは、黒沢くんなのね」「いいわ、そのまま聞いて」。
 これは典型的な「世界を覗き見る主体」の構造です。黒沢は別段覗きをしているわけではありませんが、狭い個室に籠って、相手からは見えない位置から世界を「見て」いる。「わたし」は不可視化し、世界は風景としてある。彼の内言の多い性格にも、これが表れています。黒沢への同一化が促されるのは、主体とは「黒沢的」なものだからです。
 しかしやがて、この関係が逆転する時が来ます。
 以下、「ネタバレ」も含まれるため、本編をご覧になってか、覚悟の上でお読み下さい。

 北原の復讐とは、「標的」の女子の衣類などを盗み出し、それに精液をかけて戻す、というものです。黒沢の立場からはただの変態行為ですが(彼には衣類へのフェチはない)、北原からすれば安全圏から「報復」を果たすことができます。犯人は絶対に男性だからです。
 黒沢は、押入れから他人の性行為を覗き見するように個室に籠り、北原はその孤立性を経由することで二重の「隔離された安全」を手にする。
 秘密をネタにイヤイヤ復讐の片棒を担ぎ続ける黒沢ですが、北原の要求がエスカレートし、遂にその標的が憧れの滝川に至った時、臨界が訪れます。黒沢は逡巡するのですが、結局彼女が自分の侮蔑していた男と付き合ってしまったことで、「復讐」を実行に移してしまいます。
 後悔の念に駆られる黒沢は、北原へ「取引」の無効を宣言します。元より、この「取引」に黒沢の選択権はありません。一方的な脅迫です。ただし、この力関係を逆転してしまう方法が一つだけあります。
 自ら、犯人が自分である、と名乗り出てしまうことです。
 黒沢はこれを実行に移します。当然ながら、激しいイジメの嵐、親の呼び出しなどの社会的制裁が押し寄せます。それでも彼は耐えます。
 この「カミングアウト」において、黒沢は正に「クローゼットから出」たのです。「個室」から外に出て、世界を覗き見る主体から、対象世界の中へと参入したのです。
 これが「責任ある大人になること」で、「見るわたし」は消滅してメデタシメデタシでしょうか。
 違います。

 わたしたちの誰もが、「見られる」ものとして世界に存在していますが1、依然として「押入れから覗き見ている主体」は消滅していません。
 元より、わたしたちは「見られる」以前から「見られて」います。思考の出発点としての透明なsubjectを獲得してしまった瞬間から、ここより「以後」以外思考できなくなってしまうのですが、この始まりの点には「始まりよりもっと前」があります。
 視覚において、見られることは見ることに先立っています。わたしたちは誰でも、世界を見る前から世界に見られていました。「見る」側に立った瞬間から、その前にわたしたちを眼差していた世界を直接見ることはできなくなりますが(そう、それが自体として「あった」時には、見る視覚を備えていなかった!)、眼差しは消えたわけではありません。だから、「カミングアウト」とは、前へ進むことであると同時に、ある失われた過去を「思い出す」ことです。
 わたしたちは誰も、望んで「この世界」に来たわけではありません。気が付いたらここにいたのです。世界を眺め、思考するわたしが苦しいのは、思考している「わたし」そのものには「責任」などないからです。ここから逃れる方法は一つしかありません。ない「責任」を敢えてかぶり、自ら濡れ衣を着るのです。それは、わたしが世界を思考するより前から、世界がわたしを思考していたことを遡及的に「発見」することです。
 そうしてわたしたちは「大人」になるわけですが、「カミングアウト」しても「思考するわたし」は消えません。「逃れる方法」と言いましたが、実は「カミングアウト」しても逃げ切って解脱などできないのです。これが非常に重要な点です。
 残念なことに、人生はまだまだ続きます。「わたし」は消滅しません。
 何かが外に出ると、別のものが内に入ります。
 つまり、黒沢が出て、北原が入ります。
 黒沢に「開き直ら」れてしまった北原は、その行為の理解しがたさ、報復の手段を失ったことなどから、精神的に追い詰められていきます。ついに流血の事態に至り、彼女は学校へ来るのをやめ、卒業式にも顔を出しません。北原は自室に引きこもることになってしまいます。
 中学生活が終わっても「個室」に籠り続ける北原を、黒沢が訪ねます。
 北原は部屋から出ようとしません。母親ですら、ドア越しに話をしています。しかし黒沢は気にしません。「ドア越しに話すのは、慣れていますから」。
 今度は北原が「個室」の中で、黒沢が外に立っています。黒沢は呼びかけますが、北原はなかなか応じません。
 とうとうクラス会の日が訪れます。黒沢の語りかけに、遂に北原は扉を開きます。そこで物語は終わります。
 正確には、終わりではありません。外に立つ北原、つまり「黒沢」と「北原」が共に外に立つ、という場面は露骨には描かれません。その代わり、一瞬の「錯覚」が示されます。
 それは、電車の中から、通り過ぎた駅のホームに見た残像です。
 黒沢は、そこに北原のような人陰を見ます。遂に彼女が、高校へ行き始めたかのような姿を。
 ただし、はっきりと正面からではありません。駅はもう通り過ぎてしまいました。視界の隅を掠めるように、北原らしき陰を認めるのです。

 この陰が、外に出た後もなお残る何かです。
 すぐさま連想したのが、ホルバインの『大使たち』です。
ホルバイン『大使たち』
 16世紀の作品ですが、わたしがこの絵を思い出すのは、ラカンが『精神分析の四基本概念』の眼差しに関する下りで取り上げているからです。
 『オナニーマスター黒沢』を眼差しという視点(!)から思考するには、ここでラカンに叩き台にされてしまっているサルトルから考えるのが平易です。つまり、覗き見しているところを見つかってしまった主体は、「恥」そのものとなって消失してしまう、という指摘です。

サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序付けるという意味で、私に不意打ちを食らわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場に置いて、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗転化させるまでに至る、という特権を持つことになります。

 不意打ちを食らわされた覗き魔は、「恥」そのものとなって消えます。代わって、対象としての「わたし」が発見されます。対象にとって、眼差しは「暗点」となる、つまり「見えない」というサルトルに対し、ラカンは、眼差しは「見える」と言います。
 「見る」わたしと「見られる」わたしは併在できない。これはわかりやすいです。黒沢が出て、北原が入ります。
 しかし、わたしたちは完全に外にいるのでも、完全に中にいるのでもありません。もちろん「間」などというものはありません。やはり、外と中が同時に「ある」のです。解脱しないで、眼差しの元にありながら、同時に思考もしているのです。
 それは、ここで不意打ちを食らわされるのが、(当人が思っているような)客観的に世界を眺める傍観者などではなく、欲望の主体だからです。個室で自慰に耽る黒沢だからです。透明な「世界の原点」は、既に欲望に絡め取られています。
 そこでラカンが取り上げるのが、ホルバインの『大使たち』です。
 ここに描かれているのは、当時の「虚栄」を象徴するものたち、そして測量機器や地球儀、楽器など「諸科学」を表すものです。しかし、それだけでしょうか。つまり、描かれているのは本当に「客観的な世界の把握」でしょうか。
 この絵を眺め、展示室を出ようとした瞬間、視界の隅に映り込むものがあります。中央下に描かれた歪んだ像、それは正面からではよくわからず、去り際にのみ「明確に漠然と」認識されるものです。これは髑髏です。走り去っていく駅のホームに映った、「仔リスのような」北原の姿です。
 黒沢と北原が同時に「外」にいても、「内」の< わたし>は消滅せず、欲望しています。「通り過ぎてしまった」北原の像とは、「かつて」黒沢がそうであったもの、眼差しの元に見出され、救い出された< わたし>の痕跡です。

 『否定的なもののもとへの滞留』の中で、ジジェクはヒッチコック『裏窓』を例に取り、この「発見」、つまり欲望から欲動へのシフトチェンジを語っています。
 決定的な瞬間は、覗いているジェームス・スチュアートが、裏窓の向かい側の家にいる殺人者から見詰め返される、つまり「『自分を見る自分を見る』ことをやめ自分の見ている対象に対して自らを見せしめる」時です。

光景[絵画]内のこうした染み――フレーム内のこうした見通しがたい見知らぬ身体、われわれのまなざしを惹きつけるこの場所――に対して自分自身を見せしめる[見られる対象とする]や、われわれは欲動へと「ギアをチェンジする」のである。欲動を規定しているのはまさにこの反転である。私がそこからまなざされているような他者のなかの地点を私が見ることができないそのかぎりで、私にとってなすべく残された唯一の事柄とは自分自身をその地点へと可視化することなのである。

 そう、スチュアートは殺人者に窓から放り出され、「その地点」へと落下していきます。

つまり、窓から落下することで、彼はラディカルな意味で、彼自身の光景[絵画]の中に落ちたのであり、彼自身の可視性の領野の中に足を踏み入れたのである。ラカンの言葉でいえば、彼は自分自身の光景[絵画]の内部――すなわち自分の視野と規定される空間の内部――の染みへと変身したのであり、そこにおいて彼は自らを見せしめる[見られる対象とする]のである。

 『オナニーマスター黒沢』の面白さは、関係の逆転とそこからの回帰の末に、「直視できない」何かが、それでも依然として「見える」という経験を示していることです。
 何かが視界の隅を通り過ぎます。過ぎてしまった今では、はっきりと確かめることのできない、儚くも決定的な陰が。
 眼差されていた< わたし>の痕跡です。
 その欠片、何でもない陰が、「世界の中にあり尚世界を思考する」ことを可能にしている圧倒的な眼差しを証しているのです。

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  1.  「人間は見えるのは当たり前じゃないか」と指摘されるかもしれませんが、わたしたちが「人間」として見てしまった瞬間、それは既に「モノとしてのわたし」ではありません。「人間」としての認識には、常に「見るわたし」が先回りして映りこんでいるからです。わたしたちは通常、「モノだったわたし」に似たものすら見ることができません。それが「見える」のは、モノが語りだすような瞬間、新しい命の誕生のような発見、ここで語っているような一瞬の「出会い損ね」を通じてのみです。 []