『大日本人』松本人志


B000W05NUK 大日本人
松本人志

 友人に薦められて見ました。
 今ではお笑いというものをまったく見なくなりましたが、松本人志は大好きです。ダウンタウンが有名になりかけた頃の勢いは凄かったです。
 評価が分かれる作品だと思いますが、少なくとも前半については十分正しく映画になっています。
 「伝統職人としてのウルトラマン」のような役割を受け継ぐ松本人志。今では省みられることもなく、むしろ冷たい世間の風を浴びる「大佐藤」。妻との別居、跡取問題、祖父の介護問題など、余りにも世知辛い日常を、取材カメラの視点が追っていきます。
 この手法や、描かれる「どうにもならなさ」、「電変場」と呼ばれる変電所のような施設の風景、仰々しくも形骸化した儀式など、美しく映画的です。しかし、後半になって松本は、この映画的構造自体を自ら壊していきます。
 後半部について酷評する声を聞きますし、実際わたしもあまり良い印象は抱きません。
 でもおそらく、松本人志はそう評されるのをわかって、あえて「作品」としてのまとまりをオシャカにしてしまいたかったのでしょう。「映画」になってしまうのが鬱陶しかったのだと思います。
 結果として、松本人志のテレビ的ファンにも映画ファンにもウケない作品になってしまったところはありますが、それも松本人志らしいと言えば松本人志らしいです。

 『大日本人』でふと気付いたのは、松本人志そのものが、元より「映画的」だということです。
 ボケというものの本質でもありますが、彼の面白さはモノを「ポン」と置いて放置してしまうところにあります。
 それが放置されたままだと安心して笑えないので、「ツッコミ」という役が必要なのです。ボケが人ならぬ世界へと一度引きずり出し、ツッコミが人間に引き戻す、というのがボケ・ツッコミの基本構造です。
 こうした面白さが一番際立つのは、置く「モノ」が創作ではなく、自然にあるもの、偶然の現象である時などです。モノが転がっているどうしようもなさ、切なさ、哀れっぽさ。松本人志はそうしたものを見つけてくるのが天才的に上手です。
 そして映画の面白さというのも、「モノ」が置いてある感じです。フォトジェニックと言ってしまうとそれまでですが、何も語られず、説明されず、物体があるがままにただ時が流れる。そういう時間が美しい時、映画は一番成功しています。
 存在が映画的なだけに、ミニシアター的に小奇麗にまとまってしまいそうで、これに対する抵抗と天邪鬼さの結果が、『大日本人』な気もします。

 もう少し歳をとったら、また思い出したように映画を撮ってもらいたいです。