ブログの読み方には、非常にざっくり言って、
①ブログ単位で読む(RSS、アンテナ的)
②エントリ単位で読む(ブクマ的)
の二通りがあるように思うのですが、当然ながら、どちらか一極ではなく軸上のテキトーなところに浮かんでいて、一定の「愛読ブログ」を巡回する一方、注目のエントリや検索で拾い出したエントリをポロポロ持っている、というのが普通でしょう。
以前に「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派で書いたことともクロスオーバーしますが、これはもう、皆さん割と飽きてしまった話題ではないかと思います。
ちょっと気になるのは、①の対象にする、ブログ単位で評価するキッカケです。
ブログというのはコンテンツの集積なわけですから、①の対象にする、ということは、一見するとコンテンツの面白さが理由のように見えますが、必ずしも「面白いエントリに出会う確率が高い」としてターゲットにしているわけではない気がします。純粋にそういう切り方をしているケースも多いでしょうが、個々のエントリがどうこうというより、そのブロガーの「存在」が妙に気になる、ということがあります(有名人のブログ、という意味ではありません)。頭では「面白いエントリに出会う確率が高い」と合目的的に分析しながら、いつの間にかブロガーに恋しちゃってる、そんなこともあるのではないでしょうか。
そういうラヴなブログを見つけるのは、愛読ブログのリンクにあったからとか、ふと目にしたエントリがキッカケであるとか、リファラ辿ったら面白そうだったとか、まぁ出会いのキッカケですから何でもアリでしょうね。
そのキッカケが「恋」に変わる、つまり巡回対象にセットする閾値は何だろう?と、合理的答えのあるはずもないことを敢えて自問してみると、あくまでわたしの場合ですが、デザインというのがとても重要な要素になっています。
ここで言うデザインとは、ユーザビリティがどうだとか、格別オシャレなブログであるとか、そういう意味ではありません。単にパッと見てどう感じるか、というだけのことです。
日本国民の標準を逸脱したポイントが多すぎる奇人の言うことなので、世の中の方はもうちょっと理性的に判断している確率が高いですが、どんなに文章が面白そうでも、見た目が不吉だとどうしても読めません。
わたしは「不吉」「邪悪」とかものすごい大雑把な表現しか持っていなかったのですが、先日某大物ブロガー様にお目にかかった時に「一定のスペースにすべて収めようとしている」と地球の言葉に翻訳して頂いて、合点がいきました。「ヤバイ」ブログは、狭いところに妙にキツキツ収めようとしています。それから、センタリングが大好きです。
レイアウトだけでなく配色も大きなポイントなのですが、こちらは未だに言語化できていません。わたしは青などの寒い色が苦手なのですが、寒色系のサイトがNGというわけではありません。「ヤバイ」というのは好悪とは別なのです。明らかに「あり得ない配色」と感じられるバランスがあるのですが、説明する言葉を持っていないので、デザイナーなど色に詳しい方、強引に意を汲んで解説して頂けないでしょうか。
ちなみに、件の大物ブロガー様は、「ブログの普及により、ヤバいサイトの識別が難しくなっている。テンプレートが利用できるから」と面白いポイントも突いてこられていました。確かにホームページビルダーの時代より、「ヤバイ」が判別しにくくなっています。ただ、わたしの知っている範囲でも、せっかく用意されたテンプレートを闇の力で改造しまくり、ちゃんとダークフォースを発散しているブログが結構ありますが・・。
恋するポイントを考えるつもりが、足切りの方に話がズレてしまいました。
プラス評価の方はマイナスよりさらに分かりにくいのですが、アイコンが可愛いとかも、個人的には非常にポイント高いです。プロフの画像も重要です。
これは面食いとか可愛いものがイイ、という意味ではなくて、自分の顔写真等ではない場合にこそ人柄が表れる、と考えているからです1。
極私的には、アニメっぽい女の子の画像やgifアニメをプロフやアイコンにしているブロガーはちょっと警戒します(全否定ではない)。もちろん、偏見です。念のためですが、別にアニメが嫌いな訳では全然ありません。単に神が「気をつけろ」と囁くので気をつけているだけです。
あぁ、またマイナスの方に話がズレました。マイナスって、どうしてこんなに話が弾むのでしょうね。
こうした判断の仕方は、「全体から部分へ」辿るものです。
素朴に考えると「全体」とは部分の集合なわけで、ブログで言えば個々のエントリからブログ総体に、「部分から全体へ」評価していくのが合理的に見えるのですが、「全体」がいきなり飛び込んでくる直観的判断というのが、意識できないレベルも含めると思いの他大きく作用しているように思います2。
ブロガーと会うということは、ブログにおける究極の「全体」とも言えますが、「全体から部分へ」が極まると、会ってからブログを読み始める、という事態が想定できます。
身近な知人のブログ、オフなどで出会ったブロガーのブログも結果的にこのケースになりますが、もっと奇形なパターンとして「それほどちゃんとブログを読んでいないのに、なぜかオーラが気になって会ってみたらちゃんと面白い人で、以後マメにブログを読むようになった」という流れも考えられます。
「ロクに読んでもいないブロガーに会いに行くって」というツッコミが聞こえてくるようです。一般的にはあまりない事態かもしれませんが、わたしはキチガイなので、こういうケースが結構あります。というか、一度会ってからでないと、なかなかちゃんとブログが読めません。ダメすぎます。
ちょっと言い訳しておくと、「会ってみたい」と思わせる魅力は、必ずしも狭義のコンテンツから生じるものではないでしょう。媒体がブログしかない以上、文章+デザイン(+そのブロガーの社会的評価?)がすべてではあるのですが、文章の魅力は、言及している内容の魅力とは限りません。
例えばわたしは釣りにまったく興味がありませんが、釣りを主なコンテンツにしているブログを二つ巡回しています。釣りの話はサッパリわかりませんし、面白いとも思いません。ただ、釣りを巡って展開する彼・彼女の語らいが美しいのです。そういうブロガーには、会ってみたいと思います。
会っても釣りの話はできません。会った後でも、多分釣りコンテンツを理解する日は来ないでしょう。でも会いたいです。「会いたい」と言われる方は、たまったものではないでしょうが・・。
というわけで、興味の対象がかなりズレていそうにも関わらずお時間割いて頂いてしまった大物ブロガー様、ありがとうございます。
この出会いもきっと主のはからいによるものですから、今はわからなくても死んだ後くらいに意味がわかると思います。
『WordPressサイト構築スタイルブック―デザイナーのためのテンプレートタグリファレンス+サイトデザインテクニック』
- もちろん、物理的顔面にも色々なものが表出しますし、表出しないようなものはどうせ見えないのでどうでもいいです。「期せずして表出してしまっているもの」+「意識して表現している顔面」の総体で全部です。 [↩]
- 正確に言えば、「全体」は部分の集合ではありません。むしろ部分の集合に対する剰余にこそ、「全体なるもの」の真価があります。何度となく触れている問題ですが、特に詳しいのは「『新約聖書の誕生』善悪の知と永遠の命」「ファシズム・全体・死者とネットの人間関係」あたりです。他に「現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質」「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」もよろしければ参照してやってください。 [↩]

不吉なデザインのブログ、ブロガーと会うこと

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