『はじめてのアラビア語』とアラブのことわざ

『はじめてのアラビア語』 宮本雅行 『はじめてのアラビア語』 宮本雅行

 アラビア語に興味を持って最初に買ったのがこの本。
 タイトル通り、まったくアラビア語学習経験がない人に「アラビア語ってどんな言葉?」を紹介する一冊です。微妙に恥ずかしいのですが、わたしこそ正にその「未経験者」なので、頭を垂れて教えを請いました。
 面白いです。
 この手の「語学系新書」にありがちな通り一遍の説明ではなく、ツカミからの持って行きかたが上手です。アマゾンのレビューにもありましたが、著者が語学教師ではないこともプラスになっているのかもしれません。この本でますますアラビア語に惹かれ、何気に次の小さな一歩を踏み出しています。
 『はじめてのアラビア語』ではありますが、文字通りの純初心者にとっては、この本一冊みっちりマスターするだけでもかなりの前進です。

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オフ会は一乗寺の決闘の如きなり

 「オフ会で会った人の容姿について言及すること」の話題がちょっと面白いです。多分、始まりはひーらーちゃんぷるー:文章からルックスを読むで、大野さんがOhno blog:ブロガーのルックスを云々することで反応し、そのコメント欄で議論が盛り上がった、という展開っぽいのですが、草日記:オフ/ルックス/非暴力的抑圧が一番まとまっている、というかここでまとめられていることにしかわたしは興味ありません。
 まず、そこで引用されているsho_taさんのコメントを孫引き。

例えばオフレポで瀧澤なりマサオさんなり草さんなりについて、大野さんが「思ったとおりのイケメンでした」と書いたとします。本人たちはそりゃあ喜ぶでしょう。けれどそれを読んだ、自分の顔にまったく自信のない人、遠隔地に住んでいる人、もっと直截に書いてしまえば、顔に傷や病気のあとが大きく残っている人、それでも瀧澤やマサオさんや草さんや大野さんらに「会いたい」と強く思っている人は、どう思うでしょうか? それは「抑圧」と言えるでしょう? 草さんが射程に入れているのはこういった部分なんじゃないでしょうか(「非コミュ」な人はたぶんオフ会に出てこれないでしょうし、その契機さえないわけで)。

 これに対し、ご本人の草さん。

私が言いたかったのは、だいたいこういうことです。言及された本人が感じる抑圧のことではなく、不特定多数の人が感じるものについて。もっと絞れば、「オフに出たけど言及されなかった人」のことよりも、「オフに出なかったけど、オフレポ*1を読んだ人たち」のことが気になります。前者については要するに「特定の人を誉めるのは、他の人を貶すのと同義」という話であって、これは当たり前と言えば当たり前かな、と。私が特に関心を持っているのはルックスについてのアレコレであって、遠隔地でオフに行けないとか、そういう問題は措いておきます。「会いたい」と思っているかどうかも、さほど重要ではないかも。

 面白いですね。
 草さんという人はこの手の状況を本当に公平に認識できる人だなぁ、と常々感じているのですが、その認識を得た上で取る行動というのがわたしとは180度違う。だから面白い。
 わたしは褒めるのが好きだし、容姿についてもポジティヴな面なら(詳述はしませんが)、割と平然と言及してしまいます。それで容姿に劣った人が接触し辛くなるなら、なお結構。一石二鳥じゃないですか。
 ただし、「容姿に劣っている」というのはあまり客観的に判断できることではなく、誰しも一つや二つはコンプレクスを抱えているものです。ですから、実際の容姿がどうであるかは別問題として、容姿という重力に負けて敷居をまたげないような根性ナシには用はないし、敷居は高くしておきたい、という意味です。
 自信は結果としての現象により得られるのではなく、そこにかけたエネルギーから身につくものです。「これだけやったんだ」というか、むしろ「もうこれ以上無理です、殺してください」ぐらいまでいけば、誰でも侠道を歩いて敷居をまたげます。個人的に「自然が一番だよ」とかいう大嘘つきが心の底から憎いので、人工的気合を第一に生きている人としか関わりたくないです。気合は会えばオーラが見えるので、すぐわかります。結果は問題ではない、というよりオーラという一番重要な結果がちゃんと得られています。
 それでも問題が一つ残ります。「空気が読めない者、その罪状と判決」で触れた「そもそも壁が見えない人」です。こういう人には、どういう防壁をはってもムダです。ハイパスがかけられるのは結構なのですが、超重低音もパスしてしまうところが難点です。

 と、ここまで来たのですが、実は容姿がどうこうという流れよりむしろ、「オフ会」なるもの自体の方が気になっています。

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『ムスリム・ニッポン』東京モスクと亜細亜主義

『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也 『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也

 危険なまでの面白さです。
 「イスラーム」「亜細亜主義右派革命勢力」という、わたしのために選ばれたような素材であるから、というだけでなく、ジャーナリストらしい実に読ませる文章です。いずれか一つ、あるいは「イスラームと日本」ということにだけ興味のある方でも、必ず面白く読める、とお約束できます。
 イスラームと亜細亜主義と言えば大川周明で、当然ながら本書でも紙数が割かれているのですが、王道すぎて初見のエピソードもほとんどなかったため、むしろ無知だった東京モスク設立の経緯が特に印象に残りました。

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モテ/非モテと侠気、一枚目

 主に「はてな」界隈で「モテ/非モテ」に関する議論をしばしば目にします。たまたまわたしの巡回しているブログでそういう話題が多いだけかもしれませんが、以前からこの話がさっぱり面白くない、というか、一体なぜそんなことに少なからぬ人(少ないのかもしれないし、よく知らない)が関心を持つのか、理解できないでいました。
 でも、ひーらーちゃんぷるーさんの「さよならオナニー」はちょっと面白かったです。
 「振った女を殴る代わりに社会運動にした」というフルカツ氏、それを政治的DVと読む大野氏、さらにこれに対し「それを言っちゃぁすべての政治がDVでしょ」とツッコみつつ「フルカツさんは本当に振った女を殴りたかったのか?」と微妙に話の焦点のズレたところに頭を使ってみる瀧澤氏。この話のズレ加減だけでも興味深いです。

 「モテ/非モテ」ということが話題にされている度に疑問に思っていたのは、そもそも「モテる」という基準というかパラメータのようなものが存在するのか、ということです。
 わたしも「モテ」という言葉を使うことはありますが、それは「モテを上げるっ!」とかハシャいでハイになってみる、といった程度のことで、ネタとしか思っていません。
 仮に「意中の異性とお付き合いできる率が高い」ことを「モテ」だと考えてみると(多分この還元はズレていますが ※1)、「うまくいく」かどうかはその人に本性として備わった「モテ」なる属性が決めるのではなく、ただ単に行動するか否か、そしてその時その時の行動で「首尾よく」振舞うか、あとは運が決めることです。
 瀧澤氏は、「好意を持った女性には、常に口説きまくりんぐ」だそうですが、イロコイなどというものは九割方勢いで決まるもので、「口説きまくりんぐ」で行けば結果的に「うまくいく」ことも多いでしょう。もちろん、失敗することもあるでしょうが、口説かなければ、男性の場合ほぼ100%失敗です。大抵の女は押しに弱いですから、押して押して押しまくれば、そのうち洗脳にかかってなんとなくコロッといってしまうことも多いのではないかと思います。失敗したらどんどん次に行って、成功体験を積んでいけば、成功率も高まっていくことでしょう(※2)。
 技術も重要ですが、技術は実践と成功体験から獲得するものなのですから、行動しなければ始まりません。すべてとは言いませんが、多くの自称「非モテ」な人は、単に行動しないだけなのではないか、と想像します。
 ただ、これで話が終わるわけではなく、すぐに思いつくポイントが三つあります。「思い入れ」と社会的抑圧、そして容姿の問題です。

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音読と黙読、「内面」と読誦

 黙読と音読、そして「内面」について、ハッとさせられることがありました。きっかけはマイケル・クック『コーラン』の次の一節です。

(クルアーンが詠唱されることについて)他の宗教と比較すると、これはまったく珍しいことではないと分かる。ヘブライ語聖書やヴェーダも詠唱される。ブッダは弟子に、ヴェーダのような様式で聖典を詠唱しないようにと言ったが、それでも彼らは詠唱している。実際のところ、自分の正典的テクストを詠唱しないプロテスタントのキリスト教の方が、風変わりなのだと考えるべきだろう。

 シャリーア(イスラーム法)的には「クルアーンの読誦は善、音楽は悪」らしいですが、詠唱は明白に「音楽的」です。つまり、

黙読 < 音読 < 詠唱 < 歌 < 音楽

 というラインが考えられます。
 わたしたちは「読む」というとまず「黙読」ですし、小学校か中学以外の場面で「音読」する機会はあまりありません。というか、電車の中で音読していたらかなり迷惑です。
 黙読と音読の差異は「音として聞く」段階にあります。音読している人がいたらその声は聞こえる、ということですが、同時に「自分の声を自分で聞く」ことでもあります。
 重要なのは、「自分の声を自分で聞く」時、「発声する自分」と「聞く自分」の間に論理的時間差がある、ということです。読む< わたし>と聞く< わたし>にはズレがあります。< わたし>が読んでいる時、その< わたし>は聞いていない。聞いている< わたし>はただ「声」に身を預ける< モノ>となっている。つまり、思考としての< わたし>とモノとしての< わたし>、という主体の分裂が、音読には潜んでいます。詠唱や歌における恍惚感は、< モノ>になる享楽とつながっています。

 しかし実は、黙読であってもわたしたちは「声」を聞いています。

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デブと移民

 昨日、数少ない友人の一人(というか義兄弟)と電話していた時のこと。
 彼女はまだ学生で、しかもド田舎に住んでいてほとんど電車に乗らないで済む素晴らしいご身分なのですが、こんな話題になりました。

「あのね、わたしこないだ電車に乗っていて思ったんですけど」
「ん?」
「カッターシャツ着てお腹の突き出た太った人とかいるじゃないですか。ああいう人って、どうしてあれで電車に乗れるんでしょうね。わたしやったら、引きこもるか何かすると思うんですけれどね」

 素晴らしい! さすが我が同胞!
 わたしが毎日毎日毎日毎日ハラワタ煮えくり返るような思いでいることを言ってくれました!
 わたしが絶賛し、「とりあえず30kg痩せるまでは選挙権剥奪すべきやね」と言うと、

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ムーサとアル・ハディル

 クルアーンと並んでイスラームにおいて重要なテクストに、ハディースがあります。ハディースは言わば「ムハンマド言行録」で、預言者の身近にいた人々の証言を様々な伝承で伝えるものです。ハディースについても、気に入ったところはクルアーン筆写にポストしようかと思っていたのですが、余りにも魅力的な一節があったため、ここに引用しておきます。なお、文中「ムーサ」とは、ヘブライ語聖書のモーセのことです。

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イスラームは「砂の思想」なのか

 クルアーンを読んでいて目についたポイントの一つに、ベドウィン(アラブの遊牧民)の扱いがあります。
 クルアーンでは何度か、ベドウィンについて今日的に言えば「差別的」表現が表れ、「信用ならない者」として記述されています。
 わたしたちはイスラームというと「アラブ、砂の民」を連想してしまいますが、ムハンマド自身はマッカの商人であり、都市生活者です。そしてイスラームはベドウィンの部族的信仰の否定として始まったのであり、安易に「イスラーム=砂の思想」と位置づけることのできない複雑な背景がここにあります。
 クルアーン翻訳者の井筒俊彦さんも、『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(※1)で次のように仰っています。

砂漠的人間とは、具体的にはひとつの場所に定住せず、広漠たる砂漠をたえず移動しながら遊牧生活を送るいわゆるベドウィンのことでありますが、イスラームを興した預言者ムハンマドは(・・・)、決していま申しましたような意味での砂漠的人間ではなかったのであります。彼は商人でした。マッカとマディーナ(*)という当時のアラビアとしては第一級の国際的商業都市の商人であり、商人としての才知をいろいろな局面で縦横に発揮した人間であります。(・・・)同じアラビア人といいましても、砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティーも、生活感情も、生活原理もまるで違います。砂漠的人間であるどころか、預言者ムハンマドはまさに砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの、砂漠的人間観の価値体系そのものに真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げたのであります。
(*最初「メッカとメディナ」という旧来の表現をしたあと、本来の発音に近いこちらに言い換えられているため、この表記とさせて頂きました)

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