ish☆数えます

手作りスキンケアから現代思想まで

 S子と電話した。
 S子はある右翼活動家の秘書のようなことをやっている女だ。秘書というか、シンパの活動家の一人ということだが、実際上は一緒に暮らして時々街宣車に乗っているくらいのものだろう。良くは知らない。
 わたしはこの右翼活動家の思想を面白いと思い、大分以前に何度かお会いしたことがある。あり得たかもしれないもう一人の自分のような、危うさと切なさ、鋭さを兼ね備えた人物だった。
 S子とは彼を通じて知り合ったのだけれど、彼女は彼女で一目で「普通じゃない」感じがした。もう三十も過ぎようとしている筈だけれど、小柄で細身で、少女がそのまま大人になったようだが、ゴシック趣味の少女の持つような危うい匂いがあり、しかしサブカルのような弱々しさは感じない。自分の中のグロテスクな欲動と、地に足のついた生活感を同居させていて、これも件の活動家の影響のなせるわざだったのかもしれない。
 彼らは九州に住んでいるので、頻繁に顔をあわせる機会はなく、時折ネットごしに近況を伺い知る程度だ。
 そのS子と久しぶりに電話をして、ベッドの上でごろごろ身を揺すりながら、他愛もない会話を楽しんだ。
 彼女とはまったく音楽の趣味が合わない。彼女ばかりではなく、わたしが気になる人とは大体音楽の趣味が合わない。音楽の趣味と人間の相性とか好みというのは別物ということだろうか。あるいは単に、わたしはそこまで音楽にこだわりがないので、あまりマニアックな音楽になると理解できない、というだけかもしれない。
 この時S子が話したバンドも、まるで好みではなかったのだけれど、電話しながらインターネットで探した動画を見ると、確かに他のロックバンドとは違う印象は受けた。四人バンドが演奏する白黒のプロモーションビデオだったが、ギターの旋律が細くレーザーのようで、精密に作られた機械のようだった。ただ、わたし自身はそもそもロックが好きではないし、ギターソロがあるような音楽もほとんど聞かない。

 この電話でS子に勧められたからだったと思うのだけれど、それから数日してある映画を見に行った。
 マイナーな韓国映画で、上映しているのもアート系の作品をかけている小さな映画館で、それも映画祭的なイベントで多くの作品をかけている、その中の一本だった。
 この映画館を経営しているのは、元々は隣にある喫茶店のマスターで、映画好きがこうじて潰れかけた映画館を買い取り、シネフィルたちのために採算度外視で上映活動をしているのだ。採算も何も、映画館の電気代すら捻出できているのか怪しい。実際、この韓国映画を見に来ているのは、わたしを入れて数人程度しかいなかった。
 映画の中で、主人公が駅の巨大な地下街のようなところを歩いている。東京駅のような感じで、どこまでも広い地下通路が続いていて、通路沿いに綺麗な店舗が立ち並んでいる。
 通路には時々トイレもあるのだけれど、そのうちの一つに入ると、きらびやかな通路とは対照的に、どの便器も詰まって茶色い水をためていて、まるっきり打ち捨てられた廃墟のようになっている。使えるトイレは別にあって、使えないトイレは取り壊す前にそのまま放置されているらしい。
 こんなトイレでは使えない、と今来た扉を開けると、驚いたことに古い木造校舎のようなところに出てしまう。近代的な駅の地下通路からトイレに入って、同じドアから外に出たのに、そこは崩れかけた木造校舎なのだ。
 この校舎は建物の作りが複雑で、中二階のような不自然なところに部屋があったり、突然の行き止まりがあったり、忍者屋敷のような作りになっている。校舎のあちこちに無闇に巨大で複雑なトイレがある。
 この迷路のような建物、複雑なトイレというのは、わたしがよく夢に見る風景で、S子も同じらしい。それで彼女はわたしにこの映画を勧めたのだろう。
 後でWikipediaで調べたところでは、この映画の特徴は劇中劇にある。
 映画の中にもう一本映画作品が入っていて、それはギャング映画のような作りになっている。
 マフィアのような男たちが何人もくつろいでいる暖炉のある部屋があり、そこに主人公の男が入ってくる。部屋にいる男たちは、実は主人公を殺そうとしているのだけれど、そんな様子は見せずに葉巻をくわえながらにこやかにウィスキーを勧めてくる。
 しかし実は主人公は時間を何度もループしている人間で、彼らが自分を殺そうとしている、ということを知っている。
 そこで殺される前に拳銃を抜いて、次々とマフィアたちを撃ち殺していく。
 マフィアも五六人はいるので、いくら事前に知っているからといって、一瞬で全員を殺すのは難しい。そのせいで、ループは一回で終わらず、もう何度も何度も繰り返しているのだ。
 ループから抜けられないのは、ただ彼らを全員確実に殺すのが難しい、というだけでなく、殺すこと自体はできるのだけれど、何かその前に一つ、ループを抜ける条件があるらしい。それはマフィアたちからある秘密を聞き出すことらしいのだけれど、秘密を聞き出してなおかつ殺される前に全員を殺す、というのは、いかに事前に状況を知っていたからといって、簡単にできることではない。
 何度目かのループで、主人公は余裕をもってほとんどの男たちを射殺するのだけれど、撃たれた男の一人がカセットコンロのボンベを持っている。このボンベに跳弾が当たったのか、殺すまでは簡単にできる筈だったのに、突然に部屋は爆発して、結局主人公も死んでしまう。

 結構スリリングな映画で、しかも最後には綺麗に伏線が回収されて、わたしとしては十分に楽しめた。
 しかし映画が終わって明かりがともると、やはり映画館にはほとんど人がいない。人気のない映画なのだ。
 丁度そばに、映画館で受付をやっている、マスターの秘書にあたるような女性がいたので、「面白い映画なのに」と声をかけると、彼女は無感情に「そうですか」と応える。
 ピンヒールにタイトな膝上丈のスカート、細いメガネ、と、いかにもオフィスのできる秘書、という感じの出で立ちで、なぜ映画館で働いているのかわからない。
 ふと見ると、座席の一つに映画館のマスターが座っている。背は低いけれどずんぐりとした恰幅のいい体躯の持ち主で、始終タバコをふかしている。
 マスターの評価は辛口で、「だめだよ、最後うまくいっちゃ」と手厳しい。そう言われてみれば、劇中劇の部分ばかり、印象が強かったように思う。
 次の映画が始まるようで、前の映画とは対照的に、大勢の若い観客たちが入場してくる。やはりこの韓国映画は面白くないのだろうか。わたしには結構楽しめる作品だったのだけれど。
 数少ない前の観客たちやマスターらと共に劇場を出ると、マスターがまた話しかけてくる。「S子に言われて来たんだろう?」。
 マスターはS子を知っているのか。確かにわたしがこの映画を見に来たのは、S子に勧められたからだったけれど、その映画館のマスターがS子のことまでわかっているとは、どういうことだろう。
 「アンタとS子なら、どっちもこの映画を気に入るのはわかってるんだ。どっちも人間じゃないからな」
 そうか、とわたしは気付いた。これはこれで、また別の映画の一部で、今、設定が説明されているところなのではないか。
 「人間のように見えるけれど、宇宙人が作った間に合わせなんだ。だから同じ夢を見る」
 なるほど、そういうことならS子とわたしが同じ夢を見て、その夢のような風景の出てくる韓国映画を気に入るのもわかる。
 「それだけじゃない、アンタたちは女に見えるけれど、S子の中身はオッサンだ」
 マスターは衝撃的な事実を告げた。しかしそう言われてみれば、それはそれで合点がいく。S子にはどこか蠱惑的な魅力があり、わたしはなんとなく彼女に性的に惹かれるような淡い感情があったのだけれど、彼女の中身が「オッサン」なら、それも説明がつく気がしないでもない。
 「それから、アンタは牛乳だ。アンタの中身は牛乳で、宇宙人が作っただけだ」
 S子はオッサンで、わたしは牛乳。二人とも見せかけだけの存在だった。
 しかし、わたしが実は牛乳だというのも、言われてみればなんとなく納得いくところがある。わたしは一見、信念や思想の強い人間に見えるが、実のところ芯になるような中身は何もない。何かのコピーのようなものの寄せ集めでできている。どこかで聞いた台詞、どこかで聞いたロジック、どこかで聞いた思想、どこかで聞いた人格。そういったものを集めて、でっちあげているのが、わたしという人間なのだ。
 しかしわたしがそもそも牛乳で、見せかけだけ宇宙人が作ったのだとしたら、中身に一本通るものがないのも当たり前だ。牛乳で液体なのだから、土台となるべき人格なんて、あるはずがない。
 そしてあの忍者屋敷のような木造校舎や、無闇に複雑で機能していない多すぎるトイレは、わたしの身体なのだ。それは見せかけだけのものかもしれないけれど、宇宙人が作ったものなので、複雑すぎてわたしには理解できない。理解できないものがわたしの身体で、わたし自身は牛乳なのだ。
 何かこれは、あの韓国映画のように納得のいく、良いエンディングのように思われた。
 しかしマスターはこれにも辛口なのだろうし、わたしにとってはまとまりの良い話でも、観客など入るわけがないのだ。

 埋没林は、かつての森林が土砂に埋まったまま海底に沈み、そのままの形で残されているものだ。その埋没林が保存されている博物館のそばの、無闇にきれいに整備されて幅ばかり広い国道を、男は妻と一緒に歩いていた。日が高く、人気はまるでない。
 突然に、妻がめまいをおこしたかのように倒れた。倒れるというより、しゃがみこんでコロンと道に横たわってしまった。
 苦しそうな様子はなく、ただ唐突に気を失って横になってしまった様子だ。
 男は慌てて、妻を抱きあげて、とにかく病院に連れて行かねば、と思った。
 幸いタクシーが通りがかったので、呼び止める。元は漁師だったかのような色黒で小柄な初老の男が運転手だった。
 「病院に行きたい」と告げると、運転手は少し先にある老人ホームのような建物を顎で示し、「あそこに行けば医者がいる筈だ」と言う。国道沿いに建つ平屋建ての施設で、すぐ目と鼻の先だ。
 妻を抱きかかえたまま施設の門をくぐると、老人ホームのようだが、老人の姿は見えず、そればかりかまるで人気がなかった。
 中には確かに診察室があり、初老の医師が白衣で待っていた。
 ただその診察室は戦後まもなくからずっとそのままのように薄暗く、リノリウムの床には血が飛び散っていて、冷たいステンレスの医療機器がぼうっと青い蛍光灯の中で光っている。おどろおどろしく、不気味な部屋だ。こんな診察室で大丈夫だろうか、と男は不安になった。
 しかし医者は「大丈夫」と言う。
 妻は結局入院することになり、男は妻を置いて診察室を去った。

 数日後、妻を見舞いに出かけると、そこはガラス張りの近代的な高層ビルになっていた。しかし相変わらず人気はない。
 中に入ると、広いエレベーターホールの前で、スーツに身を固めたキャリアウーマン風の四十歳ほどの女性が待っていた。
 妻のことを尋ねると、「二十年経っています」と言う。
 不審に思い、今日の日付を尋ねると、9月3日だと言う。それは確かに今日の日付だ。そこで何年か尋ねると、2016年だと言われた。
 確か2015年だった筈で、それからだと一年しか経っていない筈だが、二十年経っていると言う。
 そこで自分の左手をかざしてみると、見る見る間に腕が皺だらけになり、自分が老人になっていることに気付いた。恐怖のあまり、叫びだしそうになった。
 2016年といえば、四年ごとのオリンピックの年で、四年後は2020年だ。16に4を足しても20になる。そういえば、9も3の3倍だ。
 ふと見ると、ガラスの向こうの部屋から赤や黄色、緑の光が漏れている。まるでクラブか何かのようで、中からは狂ったかのような叫び声が聞こえ、暴れている様子だ。しかしそれは、何か狂気じみた享楽を楽しんでいる風景に思えた。人であって人でない、獣じみた享楽だ。
 窓の向こうにいるのは妻なのだろう、と思った。
 何もしない間に年老いてしまい、その恐怖に身を裂かれそうになっているが、妻は男の知らない何かを楽しんでいる。しかしその世界に足を踏み入れないでいることが、ここで生きるということで、生きていれば年をとるのだ。

 『帰ってきたゴルバチョフ機関』という電子書籍をKDP(Kindle Direct Publishing)で発売しました。

帰ってきたゴルバチョフ機関 帰ってきたゴルバチョフ機関
石倉由子

2015-05-23

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 内容は『帰ってきたゴルバチョフ機関』『ニーチェの作り方』『福武さん』の三編の小説。
 『帰ってきたゴルバチョフ機関』は大分以前に出した『ゴルバチョフ機関』を丸々リライトしたもので、長さも倍くらいになって全然違うお話になりました。
 『ニーチェの作り方』は、これも大分以前に「文藝」に掲載されたとても短いお話。一度ネットにも出しましたが、今は消してあります。
 『福武さん』も一時ネットにあげていましたが、今は消しているもの。多少書き直しました。

 特に『帰ってきたゴルバチョフ機関』はメチャクチャというか、書きながら「これはひどい!」と変な笑いが出てきたクルクルパーなものです。
 よろしくお願いいたします。

 その家では女性数人が共同生活を営んでいて、シェアハウスのような形になっている。住人の一人であるMさんは、フェミニズムの活動家でもあるけれど、別段思想的な理由で集まっている訳ではない。単に家賃を安く浮かせるために、一緒に住んでいるのだ。
 家の一室、三畳ほどのとても狭い部屋が、狙撃用に使われている。薄暗いなにもない部屋の壁に、横に細長く切り込みが入れられていて、そこからライフルの銃身を覗かせる。スナイパーたちが三四人ほど、腹ばいに寝そべって並んでいて、ライフルを構えて一様に細い銃眼の向こうを見つめている。
 普通のマンションの一室だけ、暗がりの中でプロジェクターで映画を上映しているかのようだ。銃眼の向こうがどの戦場なのかは、よく分からない。
 交代の時間になり、別のスナイパーに代わってわたしが床に腹ばいになる。長いスナイパーライフルを構えて、遥か遠くの風景に狙いを定める。
 とはいえ、本当のところ狙いが何なのかはよく分かっていない。まだ新入りのスナイパーなのだ。質問が許される空気でもなく、今はただ黙々と銃を構えて、そのうち狙いが分かってくるのではないか、と思っている。
 銃眼の向こうは薄暗がりの世界だけれど、夜なのかというと、真っ暗闇でもない。映画の中の夜のように、薄暗いながらもある程度の見通しがきく。ずっとぬばたまの薄闇が続いているような戦場だ。
 そこで蠢くものに目を凝らしながら、じっとライフルを構える。
 遠くに戦車の陰があり、わたしはその砲身を狙って引き金を引いた。戦車の砲身をライフルで撃ったところで何にもならないだろうけれど、狙いも分からないので、とりあえず撃ってみたのだ。
 しかし弾丸は砲身に当たることなく、少し下の地面に着弾した。照準がずれている。
 照準器を確かめると、極小のドライバーがないと調整できないことが分かった。しかし、狙ったよりは下に着弾した時、照準器を上に動かすべきなのか、下に動かすべきなのか。それがよく分からない。いずれにせよ、極小ドライバーが必要だ。
 極小ドライバーなら実家にあった筈だ。
 クッキーの空き缶のような箱の中に、色々な工具が雑多に放り込んであった。
 あの中に必要な極小ドライバーがあったに違いない。

 実家で数日を過ごしたその最後の日、「ちょっとそこまで」なので、母の運転する車に裸で乗り込んだ。
 しかし逗子から梶原まで、歩いて行かなければならなくなる。これは任務であり、仕事なのだ。極小ドライバーを届けなければいけない。そして母は車で家に帰らなければいけないのだ。
 逗子には父方の祖母とその親戚一同が集まっていて、わたしは母の車から出ないまま、皆に別れを告げる。温泉好きの祖母が、毎年のように親戚一同を引き連れて旅行に出ているのだ。従兄弟たちや父の姿もある。彼らはこの曲がりくねった複雑な温泉街で、少し先にある甘味屋に行き、あんみつを食べるのだ。
 わたしはしばらくのところまで母に車で送ってもらい、そこからは一人、徒歩で山道を行くことになった。
 山道と言っても、最初は住宅街の中だ。斜面に作られた古い集落の中には、縦横に細い路地が入り組んでいる。その中を抜けて、人家の途絶えるところまで進む。そこから先は本当の山道で、うまく山越えできれば梶原まで一番短い道のりで行ける。
 やはり服を買おう、と思ったけれど、考えてみれば、裸では服を買いに店に入ることもできない。お金も持っていない。
 裸の状態から服を手に入れるには、一足とびに総てを取り揃えるのではなく、少しずつ簡単なところから手に入れて、買いに入れる場所を段々と上げていかなければいけないのだ。
 徒歩で抜けれなければいけない山道は薄暗く、遠回りになっても電車で行くべきだったのでは、と考える。しかし後戻りすることはできない。裸で来てしまった以上、もうこの道を抜けていくしかないのだ。母の車ももう行ってしまった。
 狙いより弾丸が下に着弾する場合、照準器を上に動かすのか下に動かすのかもまだ分からないが、それは実際に動かして撃ってみれば分かることだろう。実際にやってみれば、考えるより簡単なことも多いのだ。
 大体、祖母はとうの昔に他界していて、父も鬼籍に入ったところではないか。
 もうわたしは、この暗い山道を抜け、裸で戦場に帰るしかないのだ。
 でも極小ドライバーは手に入れたのだから、きっとすべては上手くいく。

 山梨県に引っ越した。
 一緒に暮らしていた彼が東中野に引っ越すことになり、その家が手狭な木造アパートだったことから、引っ越すことになった。
 山梨駅の何駅か手前、東京よりの駅で、綺麗な部屋だ。前の家ほど広くはないけれど、一人で暮らすのだから十分だ。家賃も安い。
 しかし、引っ越して周りを歩いてみると、駅の裏側に一軒スーパーがあるだけで、他に買い物できる場所もない。新興住宅地として整備されていて、新しいマンションがいくつも建っているのだけれど、赤羽のような賑やかさには程遠い。
 そう思って部屋に帰ると、小奇麗なマンションも何とも息苦しい。
 一人分の荷物だけを持ってきたのに、まだ片付いていないせいか、嫌に薄暗くごちゃごちゃして感じる。
 なぜ山梨県に引っ越してしまったのだろう。それも一人で。東京はとても遠い。
 一人で新しい部屋を手に入れれば、自由になって、しかも家が二軒になるような気がしていたのだ。
 実際はそんなことはない。住める家は一つだけだ。二軒の家に同時に住める訳ではない。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
 それに、彼に対する背信を考えていたような気がして、寒くなった。
 恐ろしくなって駅へ駆け出し、慌ててホームへの階段を登ると、電車の扉が閉まる直前だ。
 走りこんで目の前でドアがしまったけれど、その1センチほどの隙間にグニュニュと身体をねじ込んだ。
 身体がゴムのように薄くなり、なんとか中に入ろうとする。でもどうしても入れない。
 すると駅員さんがドアを開けてくれた。開けてはくれたものの、とても迷惑そうな顔でこちらを睨んでいる。

 電車で数駅行くと、遊園地かテーマパークのような場所があった。
 地方の遊園地らしく、閑散としていて遊具も錆び付いている。
 そこのプールに、二十歳そこそこのカップルが何組も、和服を着て浸かっていた。
 皆、土木作業員とギャルの夫婦のような雰囲気で、既に子供がいるような風もある。プールはお腹くらいまで水が張ってあるのけれど、成人式か何かのような格好で、カップルたちが整然と並んでいる。皆、二人一組で、カップル同士くっついていて、カップルとカップルの間は等間隔に離れているので、ちょうど方眼紙の升目のような感じに、和服のヤンキーカップルが並んでいる。
 しかし季節は冬だ。木枯らしが吹きすさむ中、冷たいプールに浸かっているのは苦行に等しい。
 何かのテレビの撮影のようだったが、とうとう男たちの何人かが怒り出し、プール際のスタッフらしき人たちに罵声を浴びせるようになった。
「いつまでかかってんだコノヤロウ!」
「ふざけんな!」
 しかしスタッフたちは意に介する様子もなく、ただせわしなくプールサイドを駆け回っている。
 プール監視員の椅子に監督のような男が座っており、飛び込み台の上やプールサイドにあるカメラに指示を出している。

 駅に戻ってみると、そこは新幹線の通っている駅のようだった。
 新幹線に乗れば、東京にもすぐ行けるかもしれない。
 見ると、新幹線のホームで、正月のかくし芸のような珍妙な衣装を身につけた男が立っている。
 向かいのホームにはカメラがあり、これも撮影のようだ。
 新幹線が通過するタイミングに合わせて、男はジャンプしながら素晴らしい美声で一定の音程の声を出す。
 このように撮影したカットをつなぎあわせて、長大なオペラを構成するらしい。男のそばには、コンパニオンのような格好をした若い女が三人おり、彼女たちもコーラスのように一音ずつ歌うようだ。
 オペラが完成するには何ヶ月もかけて新幹線の通過ごとに撮影を繰り返さなければならない。
 新幹線の通過と一音だけの歌声という組み合わせが大切なのだろうが、よく考えてみると、向かいのホームからでは新幹線の陰に隠れてうまく撮影できない気もする。カメラが高い位置にあるのだろうか。
 そうやって何ヶ月もかけても、新幹線は通過していくばかりで、永遠に東京にはたどり着けないのだ。
 たとえ手狭な東中野の木造アパートでも、彼と一緒に一つの家に住んでいた方が正しかったのだ。

 わたしが右目の下あたりの頬から入れた注射のせいで、彼は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならなくなった。
 しかし彼は、穏やかな笑みを浮かべて、恐れているようにも怒っているようにも見えない。
 だがわたしの頬に打った注射のせいで、なぜ彼が手首を切断しなければならないのだろう。丁度頬から下あたりで、わたしは彼とつながっているようにも思う。
 ふと病室を見ると、一人の女がベッドに縛り付けられて喚いている。そう、あの女が右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならないのだ。女は全く納得できず、髪を振り乱して抵抗している。医師らは女をベッドに固定し、無理やり麻酔の点滴を施している。それで眠ってしまったら、目覚めた時には右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されているのだ。女は眠るまいと、より一層激しく暴れる。
 すると彼は切断されなくてよいのだろうか。
 それとも、彼とあの女は一つで、彼は落ち着いているけれど女は喚き立てているということなのだろうか。
 しかし、彼と一つにつながっていて、注射で入れた弱い毒が回ってしまうのは、わたしではなかったのか。

 わたしの結婚が決まった。
 相手は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男だ。
 男は元々足も不自由で、他にも色々と障害があったのだが、わたしは気にしていなかった。彼は穏やかで聡明なのだ。
 しかし正直に言うと、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてからは、少し結婚に後ろ向きになっていた。
 いくら何でも、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていては、不自由が過ぎるのではないかと思ったのだ。
 だが、周囲はもう結婚が決まったつもりでいる。
 向こうの薄暗い部屋にいる彼の影が、僅かに壁に映っている。人々はこちらの明るい部屋で結婚を前に騒ぎ立てている。わたしは暗い部屋の彼が気になっている。

 壁は真っ白で何の装飾もなく、ただ滑らかな窪みがある。真っ白く輝いているのに、光がどこから来ているのか分からない。その部屋の中央には、滑らかな曲線で構成されたテーブルがあり、その周りにこれも滑らかな形の椅子がある。正面にはホワイトボードのようなものがある。
 そこに監督が怒り狂って入ってきた。
 中にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男と小野寺くんは、驚いた様子だった。
 二人は、今の今まで行楽の相談をしていてたのだが、本当は映画の撮影予定が詰まっているのだ。二人が出演を了解しながら、ちっともスケジュールを調整せず、その前に遊びに行く相談などをしていることに、監督は怒り心頭だったのだ。
 小野寺くんは元々ルーズな男だ。きちんと約束の時間を守った試しがない。それで何度も注意されているのに、悪びれた風もなく、へらへら笑って誤魔化すだけだ。それなのに綺麗なマッキントッシュを持っている。
 ふと思いだしたが、なぜ彼がマッキントッシュを持っているのだろう。彼は以前、ウィンドウズは優秀な女性秘書のようで、マッキントッシュはやたらと人懐こい男友達のようだ、と、ウィンドウズ派を語っていたのに。
 しかし監督は、マッキントッシュのことなど目もくれず、烈火の如く二人に怒鳴りつけた。小野寺くんはいつものようにヘラヘラと笑って誤魔化している。
 ホワイトボードの前にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男には、白くまばゆい部屋に似つかわしくない影があった。白く書き込みの少ないマンガのコマの中で、彼だけが劇画調で描かれているようだ。その沈んだ様子で、小野寺くんが監督に怒鳴られているのを眺めている。
 小野寺くんは小太りでヘラヘラしていて、衣装もペラペラで真っ白い部屋と調子が合っている。合っていないのは男の方だ。
 だがよく見ると、怒っている当の監督も、男ほどではないにせよ、どこか劇画調だ。古い8ミリカメラを手に持って、服装も薄汚れている。小柄な身体で、自分より二回りも大きい小野寺くんに怒鳴り続けている。
 その時分かったが、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男は、エジプトのニュースキャスターであるアフマド・ムスリマーニーにそっくりだ。

 少し落ち着きを取り戻したらしい監督が、狭い別の部屋にやって来た。
 白い部屋とは打って変わって、未来風でも何でもない、普通の部屋だ。わたしが子供の頃に使っていた部屋に似ている。壁中が本で囲まれている。
 その部屋に杉浦くんがいた。
 監督は言い過ぎたと思ったようで、杉浦くんに謝っていた。
 「医者のシーンだけだったら、一日で撮影も終わる。何なら、スタッフの方が皆んなで仙台まで行って撮影したっていいんだ。ロケ場所があるようだったら」。
 本当は監督の方も、ロケ場所の目処が立っていないのだ。役者たちの予定が立っても、ロケ場所が決まっていない。だから監督は、うまいこと言って、スケジュールの方を融通する代わりに、ロケ場所を杉浦くんに見つけて貰おうとしているらしい。
 しかし、なぜ監督が杉浦くんに謝るのか。
 よく見ると、確かに杉浦くんはアフマド・ムスリマーニーに似ている。落ち着いていて聡明だ。
 しかし彼は、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてはいないのではないか。
 結婚して二人の子供までいるのだ。
 あるいは、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていても、結婚して二人の子供を作れる、ということなのだろうか。

 証すために、殺さなければならなかった。
 彼と二人で暮らす部屋は、どんよりと薄暗く狭苦しい。その狭い部屋に、わたしたちの他に動物たちがいる。敷きっぱなしの布団の向こうに、動物たちが暮らしている。
 その動物の一匹を、殺さなければならなかった。
 羊は大きすぎるし、わたしには殺せるか分からない。そこでアヒルを呼んでみた。
 アヒルも怒ると手の付けられない生き物なので、少し不安だったが、いつになく大人しくわたしのそばまで来てくれた。悟られないように優しく首に手をかける。彼はとなりの布団の上に座り、あまり関心なさそうに見ている。
 細い首にかけた手に、少し力を入れる。アヒルは大人しくわたしに寄り添ったままだ。これ以上力を入れたら暴れられて、クチバシで突かれるだろう。そこでもう片方の手も添えて、一気に捻った。
 雑巾を絞るように両手でアヒルの首を捻った。一瞬でも力を抜いたら、断末魔の苦しみの中でわたしも傷つけられ、凄惨な場面になると思った。捻った形で腕が固まるほど、全身の力を込めて首を捻った。
 アヒルは首が不自然な角度で曲がったまま、絶命した。最後まで一度も鳴かなかった。予想と違い、あっけないほど大人しく死んだ。
 恐怖でうちふるえていたのはわたしだった。
 可愛らしかった白いアヒルを、首を捻って殺してしまったのだ。
 アヒルが息絶えると、彼はまた無関心そうに布団の上で向こうを向いた。性行為の後に背を向けて煙草を吹かすようだった。

 証すために、殺さなければならなかった。
 しかし何を証すために。
 彼のためだろうか。あるいは、わたしが女であるために。
 だが、わたしの強さを証すためだったかもしれない。それができる、ということを示すためだけだったのかもしれない。

 余震の発生の仕方が奇妙だ。正確に同じ時間ごとに発生し、しかもその前後に、動物たちが仮死状態に陥る、という現象が見られる。地震の発生する一定時間前から仮死状態に陥り、丁度同じ時間だけ経過してから、何事もなかったように目覚める。
 この仮死状態には「向こう側」に抜ける秘密が隠されているようで、多くの科学者たちの興味を惹いている。
 そんな中、「火口付近」というタイトルで、TweetPicに一枚の画像が投稿された。そこには、二匹のてんじくねずみと一匹のウサギが「山」という字のように寄り添って眠っている姿が映っていた。
 「火口付近」という言葉は富士山爆発を連想させ、実際に火山活動が活発化する中、「不謹慎」であるとして、ネット上では大いに批判された。
 しかし「火口付近」の真意は、そんなところにあるのだろうか。
 これもまた、仮死状態の秘密に迫る一つのヒントなのだ。
 仮死状態は冷たく停止しているようで、実は噴火のように「向こう側」に抜けることと同義だ。なぜなら、二匹のてんじくねずみと一匹のウサギは、「山」の形に寄り添って眠っているからだ。
 しかしながら、いかに欲求不満が高まっても、目覚めてみればてんじくねずみが二匹とウサギが一匹。所詮は種が異なるということだ。

 ゴマちゃんは、まだ魚だった頃は川に住むメダカで、滝を登ったり降りたりしていた。
 なぜかというと、登って登ってどんどん登ると、これ以上先がなくなるからで、だから登ったら降りて登ったら降りていたのだけれど、うっかり流されすぎて海に出て、それからイナダになった。
 なぜイナダなのかというと、サンマほど細くないし、イワシみたいに腹がザラザラじゃないからで、黒潮に乗って北の海で暮らしていたのだけれど、タツノオトシゴと決闘するために南に下っていった。
 まだその時は魚のようなアザラシのような微妙な感じだったのだけれど、タツノオトシゴと一しきり戦って友情が芽生えた頃には、結構アザラシっぽくなっていた。
 出世してブリじゃなくてアザラシになった。
 それから地上に上がるのだけれど、それもムツゴロウみたいなビチビチした感じじゃなくて、結構華麗に地上に登ってきた。シュッとしてヒュッみたいな感じだった。
 そんなわけで、ゴマちゃんは今うちの部屋で暮らすようになった、という話を、昨日教えて貰った。
 お前も色々あるんだね。あと出世したね。

 狭い部屋の床や天井を、まるで重力がないかのように、猫が飛びまわる。跳躍というより、ボールが当たって跳ね返るように、上も下もなく凄い速度で延々と猫が閉鎖空間を飛びまわる。これが変猫嫌悪だ。
 変猫嫌悪は「ヘンビョウケンオ」と読む。
 身体が女性化する、という恐怖が根底にある、という見解があるが、変猫嫌悪は男性に特有のものではない。女性でも変猫嫌悪は起こりうる。女性の変猫嫌悪は、身体が社会的な女性の記号を負うことに対する抵抗が背景となっており、男性における去勢不安のような変猫嫌悪とは性質が異なる、という見方もあるが、確かなことはわかっていない。ただし、女性の変猫嫌悪は男性に比べると数は少ない。およそ三対一の割合で男性が主体だ。
 変猫嫌悪には器質的な要因が指摘されており、一種の中毒症状だ、という説が有力だ。脳の特定箇所にある種の重金属が蓄積されたためで、中毒説派はその箇所を脳幹の嗅覚に相当する部分としている。ただし、嗅覚そのものは変猫嫌悪で冒されることはない。その代わりというわけではないが、「音が聞こえる」という変猫嫌悪がある。
 幻聴と考えるのが普通だろうが、そうとも言い切れない理由がある。というのも、変猫嫌悪に陥った人々のうち、「音」が聞こえるようになった者は、共通して同じ音を聞くからだ。彼らには「通信」が聞こえるという。「モールス信号のようだが、意味はわかる」というのが、よく使われる表現だ。
 この音は動物たちの間での通信らしい。少なくとも、彼らは決まってそう主張している。変猫嫌悪の人々を同じ動物の前に連れてくると、同じ音を聞いているような言動を取る。「音」についての描写も一致する。ただし、機器等によりこの「音」が計測されたことはない。
 一方で、彼らの聞く通信の内容というのは、非常にパターンが限られていて、ほとんど決まったことしか言わない。通信の内容が複雑なのであれば、そこに本当に通信があるのか確認することができるが、同じような内容だけ聞くのであれば、証言の一致をもって、何らかの客観的対象を共通して聞いている、とは断定しにくい。

 臭覚が冒されて音が聞こえる、というのは奇妙な話だが、とにかく彼らによれば、音が聞こえる。その通信の意味は、大雑把に言って「神の賛美」だ。
 「神の賛美」と言ってしまうと、神々しすぎるかもしれない。別段讃美歌のような荘厳さがあるわけではなく、高揚感も崇高さもなく、むしろ業務連絡のような単調さで、神が賛美されているらしい。
 変猫嫌悪の男性の一人が、面白い表現をしている。
「人工衛星とか惑星探査機とか、ああいったものは一定時間ごとに通信を送ってくるでしょう。ネットワーク機器なんかでも、生存確認のために一定時間ごとに信号を発するものがあります。ああいう感じです」。
 いわゆるハートビートのような調子で、神が讃えられている、ということだ。
 ただし、通信はハートビートのためだけではなく、確かに内容があり、そのほとんどは単純な賛美だが、稀に複雑な内容や動物同士の符丁のようなものも交わされているという。これらは群れの動きを制御したり、遠くにいる同族とやり取りするためのものだ、と主張する者もいるが、多くの場合、「複雑な通信」は意味がよくわからない、とされる。その部分は、人間の言語のように構造化されていて、慎重に聞き込まないと意味が取れないらしい。しかも、「複雑な通信」は単純な賛美に比べて圧倒的に数が少ないため、解析できた者も少数だし、それが本当に解析なのかどうかを検証することもできていない。

 まとめて言えば、変猫嫌悪は、
・猫が狭い部屋の中をボールのように飛びまわる
・女性身体と関係があるらしい
・臭覚相当の部位に関係がある
・動物同士の通信が聞こえるようになる(すべてのケースではない)
・通信の内容は主に神の賛美である
 ということだが、いずれも不分明な要素が大きい。

 そもそも、なぜこれが「変猫嫌悪」と言われているのか。
 猫が飛びまわるのだから「猫」の文字が入っているのは分かるが、「変猫」とは何だろうか。「変な猫」というなら、確かに変ではある。そうではなく「猫に変わる」ことだ、とも言われ、この場合の「猫」は女性身体を象徴しており、このことが身体女性化不安とつながっている、とも言われる。
 一方で「猫」は本当は「病」で、「変病嫌悪」のことなのだ、という見方もある。これらが重ねあわせられているのかもしれない。
 「ヘンビョーケンオ」という音も独特だ。変猫嫌悪の人々は、現象が始まると「ヘンビョーケンオ、ヘンビョーケンオ、ビョーケンビョーケンオケンオケンオ」といった決まった叫び声をあげることが多い。

 変猫嫌悪の人々の中で、とりわけ信用に足る証言をしている人物がいる。元医師のM氏だ。
 彼は元々変猫嫌悪の調査に携わっていたのだが、二年ほど前に自らが変猫嫌悪に陥った。
「変猫嫌悪の飛んでいる猫は、空間を埋めようとしているのです。上も下もなく飛ぶのは、部屋という空間を埋め尽くそうとしているのです。変猫嫌悪の根本にあるのは、『隙間』に対する抵抗です。『隙間』の不安を埋めるために、猫で空間を満たそうとしているのです」。
「ですから、この猫は実は動物の猫とは異なります。実際、飛んでいる猫からは通信が聞こえません。あの猫は、猫自体が通信の一種であり、言語なのです。猫は意味であり、言葉と言葉の隙間、意味の空隙を埋めるために、飛びまわるのです」。
「変猫嫌悪は人間だけの現象であり、動物ではありえないはずです。なぜなら、動物は通信により常に神と接続されているからです。言わば、変猫嫌悪は通信の代わりなのです。通信による神との接続が絶たれているために、変猫嫌悪のような方法で意味を埋める必要があるのです」。
「変猫嫌悪を取り除こうとするなら、正にこの変猫嫌悪で聞こえる通信をよく見極め、ここから動物の方法を学ぶ必要があります。動物にはネットワークがあります。このネットワークは、神への賛美により神と接続されるものですが、神と動物の通信というより、神への賛美を通し動物同士がリンクする役割が重要です。神からはほとんど通信がありません。ブロードキャストのような神からの通信が時折ネットワークを埋めつくすことがありますが、頻度は極めて低く、ほとんどは動物からの一方的な賛美です。この賛美は神だけでなく他の動物も聞くことができるのですが、これにより相互に位置を確認する働きが重要なのです。人間も同様のネットワークを築くことができれば、変猫嫌悪は克服できるはずです」。

 変猫嫌悪は狭い密室で発生するが、一度変猫嫌悪が発生すると、この空間は「汚染」される。「汚染」された部屋では、高い頻度で次の変猫嫌悪が起こる。つまり、一度変猫嫌悪が発生した部屋に別の人間が入ると、この人も変猫嫌悪に陥る可能性が高い、ということだ。
 変猫嫌悪は人から人に伝染するものではないが、それが発生した場所には何かがある。それも、一番最初に変猫嫌悪が発生した箇所、つまり誰かが変猫嫌悪を最初に体験した箇所、というのが汚染度が高い。一度変猫嫌悪を体験すると、他の場所でも何度も発作的に繰り返すものだが、二度目以降の発生箇所では、同じ場所に足を踏み入れても、「感染」が拡大するケースは少ない。
 この為、政府は変猫嫌悪発生箇所を管理し、立ち入りを制限しようとしているが、公共空間の一部である場合、完全に立ち入り禁止にするのは難しい。しかも、変猫嫌悪は、一度も発生履歴のない箇所でも始まる。これらをすべて立ち入り禁止にしていては、入ることのできない部屋が際限なく増えていくことになる。

 一方で、そもそも変猫嫌悪は「克服」すべきものなのか、という問いもある。
 興味深いことに、変猫嫌悪の人々、当事者の中に、この主張をする人々が多く見られる。彼らにとって変猫嫌悪は「困った症状」ではなく、ある種の福音なのだ。
 変猫嫌悪には苦痛が伴なう。猫が飛んでいる時、当事者は非常に強い不安、パニックに襲われており、猫が去ってからもしばらく身動きも取れないほどだ。にも関わらず、当事者には変猫嫌悪を肯定する人々が少なくない。
「これは当然の試練なのです。目を伏せていたものが、見えるようになっただけなのです」。
「わたしたちは、変猫嫌悪を越えて、前に進まなければならない」。
 一方で、当事者以外、特に行政関係、医療関係者は、依然変猫嫌悪を「管理すべき対象」「根絶すべき病」と認識しており、変猫嫌悪発生箇所の管理と、原因の調査を求めている。

 この変猫嫌悪に対する姿勢の相違は、実は既にシビアな水準に達している。
 変猫嫌悪当事者の一部が、変猫嫌悪を「治癒すべき対象」ではなく、むしろ福音として迎えるべく、活動を展開しているのだ。その中心となっているのが、前述のM氏である。
 M氏が取り組んでいるのは、動物ネットワークの通信の解析だ。M氏はこの通信を元に、人間としての通信を築き上げれば、変猫嫌悪と共存することができる、と主張しているのだ。
 といっても、動物の通信は、現在のところ機器等で感知できてはいない。客観的実在すら疑われている。
 そのため、当事者グループが人力で通信を聞き取り、これを記録しようとしている。記録というより、記憶である。
 通信は「モールス信号」のように聞こえるが、一定のパターンがあり、動物の種によって速度や変調が異なる。しかし中核となるメッセージは同一で、訓練することにより聞き取りさらに発声することが可能だと言う。
 通信内容の記憶もさることながら、通信の「再現」にあたっては、音声的な特徴が重要となるため、この発音法の会得も壁となる。しかし、M氏とその賛同者たちは、既にかなりのレベルまで通信の再現に成功していると言い、実際、人間の声とは思えないような不思議な発音の混ざった「通信」を披露している。これは通常の人間の声によって行われているので、変猫嫌悪の経験如何を問わず、聞くことができる。
 変猫嫌悪発生時に当事者が叫ぶ「ヘンビョーケンオ」という音は、実はこの通信を真似ようとしたものらしい。当事者が本能的に通信の重要性を察知し、咄嗟に発声している、というのがM氏の考えだ。
 M氏の主張では、通信の変調方式は種によって異なるため、単純に動物の通信を模倣するだけでは駄目で、人間に適合した方法で発声する必要がある。しかし、訓練すれば十分発声可能であり、通常の速度でおよそ十五分ほどの「賛美のフレーズ」を暗記すれば、ほぼ動物と同様のネットワークを構築できるという。
 「賛美のフレーズ」を繰り返すと、変猫嫌悪の発作を抑制することができる。現時点で、医学会は何ら有効な「治療」法を提供でいていないが、M氏の方法で、とりあえず発作を抑えることができるというのだ。

 さらに、賛同者の一部は変猫嫌悪の素晴らしさを積極的に唱導し、変猫嫌悪の発生箇所、つまり次なる変猫嫌悪を誘発する可能性の高い場所に、敢えて一般の人々を招き入れ、変猫嫌悪人口を増やそうと試みている。これが、政府や医学会との間で最大の問題になっている。
 しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。
 仮にM氏の主張通り、通信パターンの習得により発作が抑制できるとしたら、確かに変猫嫌悪当事者にとっては有効だろうが、敢えて変猫嫌悪の人々をこれ以上増やす意味がどこにあるのか。わざわざ変猫嫌悪になって、その上で抑制する、というのでは、全くの無駄骨ではないか。
「そのご指摘はよく理解できます。しかし、変猫嫌悪というのは、潜在的だった不安が表面化しただけのものなのです。発作は確かに苦しいですが、これはそれ以前からあった問題がハッキリと形になったに過ぎません。顕在化させてくれただけ、むしろ変猫嫌悪は歓迎すべきものなのです。この契機により、わたしたちは動物ネットワークの通信を耳にし、学ぶことができたのですから」。
 しかし、変猫嫌悪当事者のすべてが「通信」を聞くわけではない。
「通信を聞くこと自体が目的ではありません。また、すべての人が直接通信を聞く必要もありません。重要なのは、この通信の重要性を認識し、人間生活の中に取り入れることです。ですから、本当は変猫嫌悪そのものはなくても構わないものです。この契機があれば、より一層通信の重要性が認識しやすくなる、というだけです。変猫嫌悪が一人もいなければ、通信の再生など誰も試みなかったでしょう」。
 それでも、変猫嫌悪の人々を更に増やそうというのは、当事者の驕りではないか。
「それは違います。まず第一に、変猫嫌悪の発生した場所に立ち入ったからといって、すべての人が変猫嫌悪を体験するわけではありません。全く同一の条件でも、体験する人としない人がいます。次に、わたしたちは、無理やり発生箇所に一般の方を連れ込んでいるわけではありません。少なくともわたしは、そうした方法には反対です。賛同者の方の中には、変猫嫌悪普及を急ぎ過ぎている方がいるようですが、わたしはこうした方法を強く諌めています。わたしたちの再現メッセージが十分な完成度に達すれば、人々は進んで変猫嫌悪を選ぶはずです。数は重要ではありません」。

 M氏が主張する変猫嫌悪の素晴らしさとは、要するに何なのだろうか。
「繰り返しますが、変猫嫌悪そのものが重要なのではありません。わたしたち自身も、発作を抑制しようとしているのですから。重要なのは、通信の回復です」。
「通信の意味について、体験していない方にお伝えするのは難しいのですが、簡単に言うなら、『空間を埋める』ということです。変猫嫌悪は猫が空間を埋めることですが、これが発生するのは、逆に言えばそれまで空間が空いていたからです。動物はこの隙間がない。通信が隙間を埋めているのです。それが神の賛美ということです」。
「なぜ人間だけが、通信を生得的に持っていないのか、その理由はハッキリ申し上げられません。実は通信の傍受から、ある程度の推測は成り立っているのですが、断定できる水準には至っていません。一つ確かなのは、わたしたちが通信を持っておらず、尚且つ自らの努力次第で会得が可能である、という、この『可能性』自体が重要だ、ということです。これはあくまで可能性ですから、会得する人もしない人もいる。興味を持たない人もいる。そうした可能性の開き自体が、既にメッセージの一部なのです」。
「一つヒントを申し上げれば、ネットワーク上の動物自身は、神を賛美しているにも関わらず、それが神の賛美だということを自覚していません。皮肉なことに、賛美がデフォルトで実装されていない人間だけが、これを賛美と認識しているのです。人間と賛美は合わせて一つなのです。それができて初めて、動物と同じ水準にわたしたちは達するのです」。

 M氏の主張そのものというより、その賛同者の一部が変猫嫌悪当事者を増やそうとしていることについて、当局は神経を尖らせている。また、一部の変猫嫌悪当事者が、「通信の解析」に没頭する余り、社会性を失っている問題も取り上げられている。
 M氏は語る。
「当事者に向けて強く申し上げたいのは、通信の解析と再現はわたしたちの重要な任務ではありますが、社会生活を犠牲にして良いものではない、ということです。変猫嫌悪は、発作さえ克服すれば、通常の社会生活に何ら支障をきたすものではありません。普通に暮らすことを大切にしてください。発作をなんとか抑制できる程度の発音を習得したら、後は定期的にこれを繰り返すだけでも十分です。社会性を失ってはいけません」。
「一般人を無理に変猫嫌悪へと連れ込むこともよくありません。しかし、わたしたちには、変猫嫌悪を通じて得られたメッセージを伝える義務があります。その最小限の義務を果たす限りにおいて、わたしたちは抵抗します。ただし、それ以外について、徒に争うことがあってはいけません」。

追記:
 上記記述より二年あまりが経過したが、変猫嫌悪は収束を見せている。
 ここ四ヶ月、新たな変猫嫌悪体験者は報告されておらず、変猫嫌悪を誘発するとされた場所に立ち入っても、変猫嫌悪に陥ることがないようだ。また、元々変猫嫌悪を持っていた人々についても、発作が起きなくなっているという。
 その中にはM氏の教えに従い、賛美の通信を習得し発作を抑制した者もいるが、まったく無関係に発作が収まった者もいる。
 一方で、M氏の賛同者は数を増している。多くは変猫嫌悪の体験者だが、変猫嫌悪を一度も体験していないにも関わらず、教えに共感を示し、通信の発声法を練習している人が増えている。絶対数としては依然少数だが、発声の独特の美しさに惹かれた、というものが多い。
 変猫嫌悪発生箇所に一般人を連れ込む行為は抑制され、M氏の注意が行き届いたためか、誘発箇所を特別視する風潮はなくなったようだ。
 新たな変猫嫌悪体験者が現れない場合、彼らの言う「通信」を傍受できる人間はこれ以上増えないことになるが、賛同者たちは特に気にかけている様子はない。
 通信の発声は一日に数回、十五分程度行われるだけで、それ以外は変わった点はなく、賛同者たちの多くは通常の社会生活を営んでいる。通信の内容は、動物と同様に単純な賛美を繰り返すだけで、その他の要素は何もないという。一般人が通信を習得しても変猫嫌悪のような体験をすることはないし、特に何か効能があるわけでもない。
 医学的な研究は続行されているが、その後目立った成果はあげられていない。

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