外山恒一、選挙と虹彩、千年都知事

 このブログについてはほぼ更新停止していたわけですが、久しぶりに外山恒一さんとその界隈の方たちと楽しくお話させて頂く機会があり、ちょっと今思いついていることだけメモしておきます。

 選挙は虹彩に似ています。カメラの絞りです。
 ラカンがまなざしについて語っている文脈で、目は光を受けるが、その光をすべて受けてしまえば目が焼かれる、というような話をしています。つまり、目の機能とは光を受けることではあるのですが、一方でその光を制限することで初めて機能する、ということです。制限しているのが虹彩です。
 わたしたちは選挙こそが正しい政治参加の方法であり、一般市民にとってのほぼ唯一の方法だと思い込んでいます。そんな思い込みは人類の長い歴史の中でも、あるいは近現代史の中でも極めて特殊な状況にすぎないのですが、ともかく現代日本ではそうした通年が一般化しています。
 そして投票に行くことが「政治参加」として称揚され、(「年端もいかない者」を除く)すべての人の意見を聞きましたよ、という体で国家が運営されているわけです。
 「唯一の政治参加経路」として選挙が提供され、それをもって「あなたの意見はもう聞きましたよ、チャンスは与えましたから棄権するのも自己責任ね」で話を終わらされているのです。選挙がある以上、そこで訴えなかったり投票にいかないのは自ら政治参加を拒んでいるだけですよ、ということです。翻せば、選挙以外の政治参加の方法というのは厳しく制限されています。厳密にはゼロではありませんが、極めて多くの「政治参加」手段(例えば内戦とか!)が事実上非合法化されています。そして何が「正しい政治参加」で何が「間違った政治参加」なのか、その線引は別に選挙で決められたわけではありません。
 ここで言いたいのは、政治参加の手段自体を選挙で決めよ、「民主的手段」で決定せよ、とかいう話ではありません。そんなものは無限背進に陥るだけで、他者の他者がないように、選挙の選挙などというものはありません。
 外部は端的に外部であり、「ない」ものとして機能しています。「ない」ものがその内側へとエネルギーを備給しています。それは「内部」からは広義の暴力として見出される、制御しがたい不合理、予期しがたい無秩序な力動です。
 選挙が虹彩であるというのは、そうした余りある目を焼く太陽の如き力を制限しているからです。制限することによって、内部の政治は機能しています。選挙は「人々の声」を聞くのではなく「ちょっとしか聞かない」ための装置です。しかし一方、この外部の力動がなければ、そもそも目はものを映すことができません。「この」政治システムを作っている力自体は、システムの外部からやってきています。
 そうした虹彩の機能は別に選挙でなければ担えないものではなく、実際、人類の歴史のほとんどすべての時と場所において、選挙以外の方法によって光が絞られてきています。そして繰り返しますが、選挙というこの手段、この目眩ましが選ばれているのは、選挙によってではありません。光があるところに目ができたのです。もっと言えば、わたしたちは見る以前に見られています。そういう光点のようなもの、直視できないものを発見し、慌てて目を細めているのです。

 政治は、最初から最後まで少数の限られた人びとのものでしかありません。人類の歴史を通じてそうでしたし、今も変わりありません。
 ただ特殊近代的な世界において、選挙制度というものが、そうした暴力に対する目眩ましとなり、覆い隠しています。そして一層狡猾なことに、わたしたちの国は義務投票制ではありません。「君が選挙に行くか行かないかは君の自由だ、でも選挙に行くことは民主主義にとって大切なことだよ? 君たちが明日の日本を担っていくんだよ?」というポストモダンな支配によって、わたしたちには無言の責務が回付されています。本当のところ、少なからぬ人びとにはチャンスも能力も可能性も何もなく、従って責任などあるわけもないのですが、その分は既に源泉徴収されて済んだことにされてしまっています。
 だからといって、ナイーヴに「暴力革命によって現政権を転覆せよ」というのでもありません。正確に言えば、「暴力革命によって現政権を転覆せよ」と「言う」のは意味のあることです。そういう煽りで問題意識を選別し、「良い友だち」を作るきっかけにはなるからです。
 ただわたし個人としては(そして少なからぬ人びとにとっても実質上)、別段政権をとっているのが「今のあの人」であろうが「他のあの人」であろうがどうでもいいことです。現状が維持されようが、ささやかな改革が実行されようが、革命軍が奪取しようが、変わらず限られた者が限られた政治をするだけで、世の中は良くもならないし、見渡すかぎりクソクソクソでしょう。
 余談ですが、「良い世の中」がどこにあるのか、というのにはいくらかヴァリアントがあります。「昔は良かった、今はダメだ」というのもあれば「昔はひどかった、世の中だんだん進歩している」というのもあります。歴史的に眺めれば、おそらく前者が圧倒的に支配的で、神代の理想郷とか正統カリフ時代とかいった物語があり、近代に入り後者のタイプ、進歩史観的なものが広まり、ここしばらくのトレンドで前者がまた盛り返している、といった流れでしょう。実際上は、今も昔も未来も見渡す限りクソです。ただそう言っては何の希望もないので、時空間上のどこかに少しはマシな世界を想定するのです。
 ですから実は、クソのまま何も変わらない選挙という方法を取るのは、なだめすかしの一手段としてそれほど悪くはありません。現代日本に限って言えば、そこそこ人民を騙せていて、最悪よりは少しマシな夢を見させることに成功しています。ただ、それがなだめすかしに過ぎないことが不可視化されている世界を、つまらないと思うだけです。
 いっそこれが貴族制、王政であれば、そうしたメカニズムはあからさまになります。正確に言えば、あからさまとは言っても、それなりには夢を見させ、嘘を信じさせるだけの力はあります。選挙よりもむしろ強力なファンタジーがあったかもしれません。というのも、民主制に比べれば王族支配のような世界は歴史的に圧倒的に長く見られるもので、低コスト(低暴力)で夢を見させる力がなければ、そんな体制を維持することは不可能だからです。ただそれは識字率が極めて低く、情報の見通しの非常に悪い世界でのお話ですから、現代において同じことが成り立つわけではありません。逆説的に、現代の貴族制であれば、この欺瞞を白日のもとに晒し、楽しく戯画化する機能を果たせるでしょうが。
 ついでにもう一つ余談を挟めば、この「情報の見通し」というのも、現代における強大な目眩ましです。メディアの発達やインターネットの普及により、わたしたちは「見通しの良い世界」に暮らすようになったと思いがちですし、実際、フラットになった側面も多々あるでしょう。しかしそれは翻せば、そのフラットな土俵に乗っていないものはないものと見なされる、ということです。グーグルの検索結果の表示されないものは存在しないものとなる世界です。世界の非常に多くのものは、メディアにもネットにも見つけられないのです。そういうものは変わらず見えないままなのですが、「情報の見通し」というファンタジーによって、見えないということが見えなくなっています。

 この嘘が終わっても、また次の嘘が来るだけです。嘘の向こうに真実があるわけでもありません。見渡す限りクソクソクソです。
 正確には、見渡す前の一瞬、頭が働く一歩手前、物事に名前をつけてしまう以前の論理的時間にだけ、尊いものは何かあります。それはある種の失敗です。世代間格差から老人を憎む人が、倒れたお年寄りをとっさに支えてしまう、そうした一瞬です。その瞬間はすぐに失われます。わたしたちがやり損じた時、この世で唯一価値のある何かが微かに指先をかすめます。
 ですからわたしは、世の中変えようとか言い出すつもりはありません。むしろ小池百合子が永世都知事にでもなって、サイボーグ化して千年支配でもすれば、おもしろいと思っています。
 単に、多くの人びとがこんなつまらない物語で踊っているのがおもしろくないだけです。わたしはもっとおもしろい話がしたいし、世の中そのものがおもしろくならない以上、おもしろい人と友達になりたいということです。
 そういう意味で、「政治信条より友達を大事にする」というファシスト外山は正しいし、多数派を変える気などさらさらなく、かつ「多数派に訴えよう」という若い時期をもおそらく経験し、余りある酸いも甘いも味わいつくしてなお(臆面もなく!)ニコニコしているこの男には、よくわけのわからない魅力があるのです。
 わたし個人としては、外山氏の主張の一から十まで肯定しているわけではありません。半分くらいは否定的かもしれません。そもそもそんなに知りません。なんだったら、一から十まで間違っていても構いません。何からなにまで間違っているけれど、致命的に正しいものというのが、時々あります。そういうものは、近づくとなくなってしまったりするもので、特にわたしのような業の深い小賢しい人間は、そばに寄った花を(わたしにとって)すべて枯らす呪いを受けています。ですから、ほどほどの距離から眺めています。
 次の都知事選がいつになるのかわかりませんが、その折には再度選挙棄権を訴え、できればついでに小池百合子千年都知事を推して頂きたいです。外山氏の気が向かないなら、個人的に千年都知事を推すかもしれません。
 もう選挙は沢山だ、百合子に千年やって欲しい!
 奇しくもサヨクに厚化粧とか揶揄されていましたし、一メートルくらいの装甲をまとって十世紀帝都に君臨してもらったらいいじゃないですか。
 わたしは西新宿で行き倒れます。

韓国映画を見に行くと、わたしは牛乳だった

 S子と電話した。
 S子はある右翼活動家の秘書のようなことをやっている女だ。秘書というか、シンパの活動家の一人ということだが、実際上は一緒に暮らして時々街宣車に乗っているくらいのものだろう。良くは知らない。
 わたしはこの右翼活動家の思想を面白いと思い、大分以前に何度かお会いしたことがある。あり得たかもしれないもう一人の自分のような、危うさと切なさ、鋭さを兼ね備えた人物だった。
 S子とは彼を通じて知り合ったのだけれど、彼女は彼女で一目で「普通じゃない」感じがした。もう三十も過ぎようとしている筈だけれど、小柄で細身で、少女がそのまま大人になったようだが、ゴシック趣味の少女の持つような危うい匂いがあり、しかしサブカルのような弱々しさは感じない。自分の中のグロテスクな欲動と、地に足のついた生活感を同居させていて、これも件の活動家の影響のなせるわざだったのかもしれない。
 彼らは九州に住んでいるので、頻繁に顔をあわせる機会はなく、時折ネットごしに近況を伺い知る程度だ。
 そのS子と久しぶりに電話をして、ベッドの上でごろごろ身を揺すりながら、他愛もない会話を楽しんだ。
 彼女とはまったく音楽の趣味が合わない。彼女ばかりではなく、わたしが気になる人とは大体音楽の趣味が合わない。音楽の趣味と人間の相性とか好みというのは別物ということだろうか。あるいは単に、わたしはそこまで音楽にこだわりがないので、あまりマニアックな音楽になると理解できない、というだけかもしれない。
 この時S子が話したバンドも、まるで好みではなかったのだけれど、電話しながらインターネットで探した動画を見ると、確かに他のロックバンドとは違う印象は受けた。四人バンドが演奏する白黒のプロモーションビデオだったが、ギターの旋律が細くレーザーのようで、精密に作られた機械のようだった。ただ、わたし自身はそもそもロックが好きではないし、ギターソロがあるような音楽もほとんど聞かない。

 この電話でS子に勧められたからだったと思うのだけれど、それから数日してある映画を見に行った。
 マイナーな韓国映画で、上映しているのもアート系の作品をかけている小さな映画館で、それも映画祭的なイベントで多くの作品をかけている、その中の一本だった。
 この映画館を経営しているのは、元々は隣にある喫茶店のマスターで、映画好きがこうじて潰れかけた映画館を買い取り、シネフィルたちのために採算度外視で上映活動をしているのだ。採算も何も、映画館の電気代すら捻出できているのか怪しい。実際、この韓国映画を見に来ているのは、わたしを入れて数人程度しかいなかった。
 映画の中で、主人公が駅の巨大な地下街のようなところを歩いている。東京駅のような感じで、どこまでも広い地下通路が続いていて、通路沿いに綺麗な店舗が立ち並んでいる。
 通路には時々トイレもあるのだけれど、そのうちの一つに入ると、きらびやかな通路とは対照的に、どの便器も詰まって茶色い水をためていて、まるっきり打ち捨てられた廃墟のようになっている。使えるトイレは別にあって、使えないトイレは取り壊す前にそのまま放置されているらしい。
 こんなトイレでは使えない、と今来た扉を開けると、驚いたことに古い木造校舎のようなところに出てしまう。近代的な駅の地下通路からトイレに入って、同じドアから外に出たのに、そこは崩れかけた木造校舎なのだ。
 この校舎は建物の作りが複雑で、中二階のような不自然なところに部屋があったり、突然の行き止まりがあったり、忍者屋敷のような作りになっている。校舎のあちこちに無闇に巨大で複雑なトイレがある。
 この迷路のような建物、複雑なトイレというのは、わたしがよく夢に見る風景で、S子も同じらしい。それで彼女はわたしにこの映画を勧めたのだろう。
 後でWikipediaで調べたところでは、この映画の特徴は劇中劇にある。
 映画の中にもう一本映画作品が入っていて、それはギャング映画のような作りになっている。
 マフィアのような男たちが何人もくつろいでいる暖炉のある部屋があり、そこに主人公の男が入ってくる。部屋にいる男たちは、実は主人公を殺そうとしているのだけれど、そんな様子は見せずに葉巻をくわえながらにこやかにウィスキーを勧めてくる。
 しかし実は主人公は時間を何度もループしている人間で、彼らが自分を殺そうとしている、ということを知っている。
 そこで殺される前に拳銃を抜いて、次々とマフィアたちを撃ち殺していく。
 マフィアも五六人はいるので、いくら事前に知っているからといって、一瞬で全員を殺すのは難しい。そのせいで、ループは一回で終わらず、もう何度も何度も繰り返しているのだ。
 ループから抜けられないのは、ただ彼らを全員確実に殺すのが難しい、というだけでなく、殺すこと自体はできるのだけれど、何かその前に一つ、ループを抜ける条件があるらしい。それはマフィアたちからある秘密を聞き出すことらしいのだけれど、秘密を聞き出してなおかつ殺される前に全員を殺す、というのは、いかに事前に状況を知っていたからといって、簡単にできることではない。
 何度目かのループで、主人公は余裕をもってほとんどの男たちを射殺するのだけれど、撃たれた男の一人がカセットコンロのボンベを持っている。このボンベに跳弾が当たったのか、殺すまでは簡単にできる筈だったのに、突然に部屋は爆発して、結局主人公も死んでしまう。

 結構スリリングな映画で、しかも最後には綺麗に伏線が回収されて、わたしとしては十分に楽しめた。
 しかし映画が終わって明かりがともると、やはり映画館にはほとんど人がいない。人気のない映画なのだ。
 丁度そばに、映画館で受付をやっている、マスターの秘書にあたるような女性がいたので、「面白い映画なのに」と声をかけると、彼女は無感情に「そうですか」と応える。
 ピンヒールにタイトな膝上丈のスカート、細いメガネ、と、いかにもオフィスのできる秘書、という感じの出で立ちで、なぜ映画館で働いているのかわからない。
 ふと見ると、座席の一つに映画館のマスターが座っている。背は低いけれどずんぐりとした恰幅のいい体躯の持ち主で、始終タバコをふかしている。
 マスターの評価は辛口で、「だめだよ、最後うまくいっちゃ」と手厳しい。そう言われてみれば、劇中劇の部分ばかり、印象が強かったように思う。
 次の映画が始まるようで、前の映画とは対照的に、大勢の若い観客たちが入場してくる。やはりこの韓国映画は面白くないのだろうか。わたしには結構楽しめる作品だったのだけれど。
 数少ない前の観客たちやマスターらと共に劇場を出ると、マスターがまた話しかけてくる。「S子に言われて来たんだろう?」。
 マスターはS子を知っているのか。確かにわたしがこの映画を見に来たのは、S子に勧められたからだったけれど、その映画館のマスターがS子のことまでわかっているとは、どういうことだろう。
 「アンタとS子なら、どっちもこの映画を気に入るのはわかってるんだ。どっちも人間じゃないからな」
 そうか、とわたしは気付いた。これはこれで、また別の映画の一部で、今、設定が説明されているところなのではないか。
 「人間のように見えるけれど、宇宙人が作った間に合わせなんだ。だから同じ夢を見る」
 なるほど、そういうことならS子とわたしが同じ夢を見て、その夢のような風景の出てくる韓国映画を気に入るのもわかる。
 「それだけじゃない、アンタたちは女に見えるけれど、S子の中身はオッサンだ」
 マスターは衝撃的な事実を告げた。しかしそう言われてみれば、それはそれで合点がいく。S子にはどこか蠱惑的な魅力があり、わたしはなんとなく彼女に性的に惹かれるような淡い感情があったのだけれど、彼女の中身が「オッサン」なら、それも説明がつく気がしないでもない。
 「それから、アンタは牛乳だ。アンタの中身は牛乳で、宇宙人が作っただけだ」
 S子はオッサンで、わたしは牛乳。二人とも見せかけだけの存在だった。
 しかし、わたしが実は牛乳だというのも、言われてみればなんとなく納得いくところがある。わたしは一見、信念や思想の強い人間に見えるが、実のところ芯になるような中身は何もない。何かのコピーのようなものの寄せ集めでできている。どこかで聞いた台詞、どこかで聞いたロジック、どこかで聞いた思想、どこかで聞いた人格。そういったものを集めて、でっちあげているのが、わたしという人間なのだ。
 しかしわたしがそもそも牛乳で、見せかけだけ宇宙人が作ったのだとしたら、中身に一本通るものがないのも当たり前だ。牛乳で液体なのだから、土台となるべき人格なんて、あるはずがない。
 そしてあの忍者屋敷のような木造校舎や、無闇に複雑で機能していない多すぎるトイレは、わたしの身体なのだ。それは見せかけだけのものかもしれないけれど、宇宙人が作ったものなので、複雑すぎてわたしには理解できない。理解できないものがわたしの身体で、わたし自身は牛乳なのだ。
 何かこれは、あの韓国映画のように納得のいく、良いエンディングのように思われた。
 しかしマスターはこれにも辛口なのだろうし、わたしにとってはまとまりの良い話でも、観客など入るわけがないのだ。

20-16

 埋没林は、かつての森林が土砂に埋まったまま海底に沈み、そのままの形で残されているものだ。その埋没林が保存されている博物館のそばの、無闇にきれいに整備されて幅ばかり広い国道を、男は妻と一緒に歩いていた。日が高く、人気はまるでない。
 突然に、妻がめまいをおこしたかのように倒れた。倒れるというより、しゃがみこんでコロンと道に横たわってしまった。
 苦しそうな様子はなく、ただ唐突に気を失って横になってしまった様子だ。
 男は慌てて、妻を抱きあげて、とにかく病院に連れて行かねば、と思った。
 幸いタクシーが通りがかったので、呼び止める。元は漁師だったかのような色黒で小柄な初老の男が運転手だった。
 「病院に行きたい」と告げると、運転手は少し先にある老人ホームのような建物を顎で示し、「あそこに行けば医者がいる筈だ」と言う。国道沿いに建つ平屋建ての施設で、すぐ目と鼻の先だ。
 妻を抱きかかえたまま施設の門をくぐると、老人ホームのようだが、老人の姿は見えず、そればかりかまるで人気がなかった。
 中には確かに診察室があり、初老の医師が白衣で待っていた。
 ただその診察室は戦後まもなくからずっとそのままのように薄暗く、リノリウムの床には血が飛び散っていて、冷たいステンレスの医療機器がぼうっと青い蛍光灯の中で光っている。おどろおどろしく、不気味な部屋だ。こんな診察室で大丈夫だろうか、と男は不安になった。
 しかし医者は「大丈夫」と言う。
 妻は結局入院することになり、男は妻を置いて診察室を去った。

 数日後、妻を見舞いに出かけると、そこはガラス張りの近代的な高層ビルになっていた。しかし相変わらず人気はない。
 中に入ると、広いエレベーターホールの前で、スーツに身を固めたキャリアウーマン風の四十歳ほどの女性が待っていた。
 妻のことを尋ねると、「二十年経っています」と言う。
 不審に思い、今日の日付を尋ねると、9月3日だと言う。それは確かに今日の日付だ。そこで何年か尋ねると、2016年だと言われた。
 確か2015年だった筈で、それからだと一年しか経っていない筈だが、二十年経っていると言う。
 そこで自分の左手をかざしてみると、見る見る間に腕が皺だらけになり、自分が老人になっていることに気付いた。恐怖のあまり、叫びだしそうになった。
 2016年といえば、四年ごとのオリンピックの年で、四年後は2020年だ。16に4を足しても20になる。そういえば、9も3の3倍だ。
 ふと見ると、ガラスの向こうの部屋から赤や黄色、緑の光が漏れている。まるでクラブか何かのようで、中からは狂ったかのような叫び声が聞こえ、暴れている様子だ。しかしそれは、何か狂気じみた享楽を楽しんでいる風景に思えた。人であって人でない、獣じみた享楽だ。
 窓の向こうにいるのは妻なのだろう、と思った。
 何もしない間に年老いてしまい、その恐怖に身を裂かれそうになっているが、妻は男の知らない何かを楽しんでいる。しかしその世界に足を踏み入れないでいることが、ここで生きるということで、生きていれば年をとるのだ。

『帰ってきたゴルバチョフ機関』をKDPで発売

 『帰ってきたゴルバチョフ機関』という電子書籍をKDP(Kindle Direct Publishing)で発売しました。

帰ってきたゴルバチョフ機関 帰ってきたゴルバチョフ機関
石倉由子

2015-05-23

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 内容は『帰ってきたゴルバチョフ機関』『ニーチェの作り方』『福武さん』の三編の小説。
 『帰ってきたゴルバチョフ機関』は大分以前に出した『ゴルバチョフ機関』を丸々リライトしたもので、長さも倍くらいになって全然違うお話になりました。
 『ニーチェの作り方』は、これも大分以前に「文藝」に掲載されたとても短いお話。一度ネットにも出しましたが、今は消してあります。
 『福武さん』も一時ネットにあげていましたが、今は消しているもの。多少書き直しました。

 特に『帰ってきたゴルバチョフ機関』はメチャクチャというか、書きながら「これはひどい!」と変な笑いが出てきたクルクルパーなものです。
 よろしくお願いいたします。

ネイキッド・スナイパー

 その家では女性数人が共同生活を営んでいて、シェアハウスのような形になっている。住人の一人であるMさんは、フェミニズムの活動家でもあるけれど、別段思想的な理由で集まっている訳ではない。単に家賃を安く浮かせるために、一緒に住んでいるのだ。
 家の一室、三畳ほどのとても狭い部屋が、狙撃用に使われている。薄暗いなにもない部屋の壁に、横に細長く切り込みが入れられていて、そこからライフルの銃身を覗かせる。スナイパーたちが三四人ほど、腹ばいに寝そべって並んでいて、ライフルを構えて一様に細い銃眼の向こうを見つめている。
 普通のマンションの一室だけ、暗がりの中でプロジェクターで映画を上映しているかのようだ。銃眼の向こうがどの戦場なのかは、よく分からない。
 交代の時間になり、別のスナイパーに代わってわたしが床に腹ばいになる。長いスナイパーライフルを構えて、遥か遠くの風景に狙いを定める。
 とはいえ、本当のところ狙いが何なのかはよく分かっていない。まだ新入りのスナイパーなのだ。質問が許される空気でもなく、今はただ黙々と銃を構えて、そのうち狙いが分かってくるのではないか、と思っている。
 銃眼の向こうは薄暗がりの世界だけれど、夜なのかというと、真っ暗闇でもない。映画の中の夜のように、薄暗いながらもある程度の見通しがきく。ずっとぬばたまの薄闇が続いているような戦場だ。
 そこで蠢くものに目を凝らしながら、じっとライフルを構える。
 遠くに戦車の陰があり、わたしはその砲身を狙って引き金を引いた。戦車の砲身をライフルで撃ったところで何にもならないだろうけれど、狙いも分からないので、とりあえず撃ってみたのだ。
 しかし弾丸は砲身に当たることなく、少し下の地面に着弾した。照準がずれている。
 照準器を確かめると、極小のドライバーがないと調整できないことが分かった。しかし、狙ったよりは下に着弾した時、照準器を上に動かすべきなのか、下に動かすべきなのか。それがよく分からない。いずれにせよ、極小ドライバーが必要だ。
 極小ドライバーなら実家にあった筈だ。
 クッキーの空き缶のような箱の中に、色々な工具が雑多に放り込んであった。
 あの中に必要な極小ドライバーがあったに違いない。

 実家で数日を過ごしたその最後の日、「ちょっとそこまで」なので、母の運転する車に裸で乗り込んだ。
 しかし逗子から梶原まで、歩いて行かなければならなくなる。これは任務であり、仕事なのだ。極小ドライバーを届けなければいけない。そして母は車で家に帰らなければいけないのだ。
 逗子には父方の祖母とその親戚一同が集まっていて、わたしは母の車から出ないまま、皆に別れを告げる。温泉好きの祖母が、毎年のように親戚一同を引き連れて旅行に出ているのだ。従兄弟たちや父の姿もある。彼らはこの曲がりくねった複雑な温泉街で、少し先にある甘味屋に行き、あんみつを食べるのだ。
 わたしはしばらくのところまで母に車で送ってもらい、そこからは一人、徒歩で山道を行くことになった。
 山道と言っても、最初は住宅街の中だ。斜面に作られた古い集落の中には、縦横に細い路地が入り組んでいる。その中を抜けて、人家の途絶えるところまで進む。そこから先は本当の山道で、うまく山越えできれば梶原まで一番短い道のりで行ける。
 やはり服を買おう、と思ったけれど、考えてみれば、裸では服を買いに店に入ることもできない。お金も持っていない。
 裸の状態から服を手に入れるには、一足とびに総てを取り揃えるのではなく、少しずつ簡単なところから手に入れて、買いに入れる場所を段々と上げていかなければいけないのだ。
 徒歩で抜けれなければいけない山道は薄暗く、遠回りになっても電車で行くべきだったのでは、と考える。しかし後戻りすることはできない。裸で来てしまった以上、もうこの道を抜けていくしかないのだ。母の車ももう行ってしまった。
 狙いより弾丸が下に着弾する場合、照準器を上に動かすのか下に動かすのかもまだ分からないが、それは実際に動かして撃ってみれば分かることだろう。実際にやってみれば、考えるより簡単なことも多いのだ。
 大体、祖母はとうの昔に他界していて、父も鬼籍に入ったところではないか。
 もうわたしは、この暗い山道を抜け、裸で戦場に帰るしかないのだ。
 でも極小ドライバーは手に入れたのだから、きっとすべては上手くいく。

山梨県に引越し、プールの水の中に和服を着たカップルたちが整列する

 山梨県に引っ越した。
 一緒に暮らしていた彼が東中野に引っ越すことになり、その家が手狭な木造アパートだったことから、引っ越すことになった。
 山梨駅の何駅か手前、東京よりの駅で、綺麗な部屋だ。前の家ほど広くはないけれど、一人で暮らすのだから十分だ。家賃も安い。
 しかし、引っ越して周りを歩いてみると、駅の裏側に一軒スーパーがあるだけで、他に買い物できる場所もない。新興住宅地として整備されていて、新しいマンションがいくつも建っているのだけれど、赤羽のような賑やかさには程遠い。
 そう思って部屋に帰ると、小奇麗なマンションも何とも息苦しい。
 一人分の荷物だけを持ってきたのに、まだ片付いていないせいか、嫌に薄暗くごちゃごちゃして感じる。
 なぜ山梨県に引っ越してしまったのだろう。それも一人で。東京はとても遠い。
 一人で新しい部屋を手に入れれば、自由になって、しかも家が二軒になるような気がしていたのだ。
 実際はそんなことはない。住める家は一つだけだ。二軒の家に同時に住める訳ではない。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
 それに、彼に対する背信を考えていたような気がして、寒くなった。
 恐ろしくなって駅へ駆け出し、慌ててホームへの階段を登ると、電車の扉が閉まる直前だ。
 走りこんで目の前でドアがしまったけれど、その1センチほどの隙間にグニュニュと身体をねじ込んだ。
 身体がゴムのように薄くなり、なんとか中に入ろうとする。でもどうしても入れない。
 すると駅員さんがドアを開けてくれた。開けてはくれたものの、とても迷惑そうな顔でこちらを睨んでいる。

 電車で数駅行くと、遊園地かテーマパークのような場所があった。
 地方の遊園地らしく、閑散としていて遊具も錆び付いている。
 そこのプールに、二十歳そこそこのカップルが何組も、和服を着て浸かっていた。
 皆、土木作業員とギャルの夫婦のような雰囲気で、既に子供がいるような風もある。プールはお腹くらいまで水が張ってあるのけれど、成人式か何かのような格好で、カップルたちが整然と並んでいる。皆、二人一組で、カップル同士くっついていて、カップルとカップルの間は等間隔に離れているので、ちょうど方眼紙の升目のような感じに、和服のヤンキーカップルが並んでいる。
 しかし季節は冬だ。木枯らしが吹きすさむ中、冷たいプールに浸かっているのは苦行に等しい。
 何かのテレビの撮影のようだったが、とうとう男たちの何人かが怒り出し、プール際のスタッフらしき人たちに罵声を浴びせるようになった。
「いつまでかかってんだコノヤロウ!」
「ふざけんな!」
 しかしスタッフたちは意に介する様子もなく、ただせわしなくプールサイドを駆け回っている。
 プール監視員の椅子に監督のような男が座っており、飛び込み台の上やプールサイドにあるカメラに指示を出している。

 駅に戻ってみると、そこは新幹線の通っている駅のようだった。
 新幹線に乗れば、東京にもすぐ行けるかもしれない。
 見ると、新幹線のホームで、正月のかくし芸のような珍妙な衣装を身につけた男が立っている。
 向かいのホームにはカメラがあり、これも撮影のようだ。
 新幹線が通過するタイミングに合わせて、男はジャンプしながら素晴らしい美声で一定の音程の声を出す。
 このように撮影したカットをつなぎあわせて、長大なオペラを構成するらしい。男のそばには、コンパニオンのような格好をした若い女が三人おり、彼女たちもコーラスのように一音ずつ歌うようだ。
 オペラが完成するには何ヶ月もかけて新幹線の通過ごとに撮影を繰り返さなければならない。
 新幹線の通過と一音だけの歌声という組み合わせが大切なのだろうが、よく考えてみると、向かいのホームからでは新幹線の陰に隠れてうまく撮影できない気もする。カメラが高い位置にあるのだろうか。
 そうやって何ヶ月もかけても、新幹線は通過していくばかりで、永遠に東京にはたどり着けないのだ。
 たとえ手狭な東中野の木造アパートでも、彼と一緒に一つの家に住んでいた方が正しかったのだ。

右腕を手首から、左腕を二の腕から切断する

 わたしが右目の下あたりの頬から入れた注射のせいで、彼は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならなくなった。
 しかし彼は、穏やかな笑みを浮かべて、恐れているようにも怒っているようにも見えない。
 だがわたしの頬に打った注射のせいで、なぜ彼が手首を切断しなければならないのだろう。丁度頬から下あたりで、わたしは彼とつながっているようにも思う。
 ふと病室を見ると、一人の女がベッドに縛り付けられて喚いている。そう、あの女が右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならないのだ。女は全く納得できず、髪を振り乱して抵抗している。医師らは女をベッドに固定し、無理やり麻酔の点滴を施している。それで眠ってしまったら、目覚めた時には右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されているのだ。女は眠るまいと、より一層激しく暴れる。
 すると彼は切断されなくてよいのだろうか。
 それとも、彼とあの女は一つで、彼は落ち着いているけれど女は喚き立てているということなのだろうか。
 しかし、彼と一つにつながっていて、注射で入れた弱い毒が回ってしまうのは、わたしではなかったのか。

 わたしの結婚が決まった。
 相手は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男だ。
 男は元々足も不自由で、他にも色々と障害があったのだが、わたしは気にしていなかった。彼は穏やかで聡明なのだ。
 しかし正直に言うと、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてからは、少し結婚に後ろ向きになっていた。
 いくら何でも、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていては、不自由が過ぎるのではないかと思ったのだ。
 だが、周囲はもう結婚が決まったつもりでいる。
 向こうの薄暗い部屋にいる彼の影が、僅かに壁に映っている。人々はこちらの明るい部屋で結婚を前に騒ぎ立てている。わたしは暗い部屋の彼が気になっている。

 壁は真っ白で何の装飾もなく、ただ滑らかな窪みがある。真っ白く輝いているのに、光がどこから来ているのか分からない。その部屋の中央には、滑らかな曲線で構成されたテーブルがあり、その周りにこれも滑らかな形の椅子がある。正面にはホワイトボードのようなものがある。
 そこに監督が怒り狂って入ってきた。
 中にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男と小野寺くんは、驚いた様子だった。
 二人は、今の今まで行楽の相談をしていてたのだが、本当は映画の撮影予定が詰まっているのだ。二人が出演を了解しながら、ちっともスケジュールを調整せず、その前に遊びに行く相談などをしていることに、監督は怒り心頭だったのだ。
 小野寺くんは元々ルーズな男だ。きちんと約束の時間を守った試しがない。それで何度も注意されているのに、悪びれた風もなく、へらへら笑って誤魔化すだけだ。それなのに綺麗なマッキントッシュを持っている。
 ふと思いだしたが、なぜ彼がマッキントッシュを持っているのだろう。彼は以前、ウィンドウズは優秀な女性秘書のようで、マッキントッシュはやたらと人懐こい男友達のようだ、と、ウィンドウズ派を語っていたのに。
 しかし監督は、マッキントッシュのことなど目もくれず、烈火の如く二人に怒鳴りつけた。小野寺くんはいつものようにヘラヘラと笑って誤魔化している。
 ホワイトボードの前にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男には、白くまばゆい部屋に似つかわしくない影があった。白く書き込みの少ないマンガのコマの中で、彼だけが劇画調で描かれているようだ。その沈んだ様子で、小野寺くんが監督に怒鳴られているのを眺めている。
 小野寺くんは小太りでヘラヘラしていて、衣装もペラペラで真っ白い部屋と調子が合っている。合っていないのは男の方だ。
 だがよく見ると、怒っている当の監督も、男ほどではないにせよ、どこか劇画調だ。古い8ミリカメラを手に持って、服装も薄汚れている。小柄な身体で、自分より二回りも大きい小野寺くんに怒鳴り続けている。
 その時分かったが、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男は、エジプトのニュースキャスターであるアフマド・ムスリマーニーにそっくりだ。

 少し落ち着きを取り戻したらしい監督が、狭い別の部屋にやって来た。
 白い部屋とは打って変わって、未来風でも何でもない、普通の部屋だ。わたしが子供の頃に使っていた部屋に似ている。壁中が本で囲まれている。
 その部屋に杉浦くんがいた。
 監督は言い過ぎたと思ったようで、杉浦くんに謝っていた。
 「医者のシーンだけだったら、一日で撮影も終わる。何なら、スタッフの方が皆んなで仙台まで行って撮影したっていいんだ。ロケ場所があるようだったら」。
 本当は監督の方も、ロケ場所の目処が立っていないのだ。役者たちの予定が立っても、ロケ場所が決まっていない。だから監督は、うまいこと言って、スケジュールの方を融通する代わりに、ロケ場所を杉浦くんに見つけて貰おうとしているらしい。
 しかし、なぜ監督が杉浦くんに謝るのか。
 よく見ると、確かに杉浦くんはアフマド・ムスリマーニーに似ている。落ち着いていて聡明だ。
 しかし彼は、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてはいないのではないか。
 結婚して二人の子供までいるのだ。
 あるいは、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていても、結婚して二人の子供を作れる、ということなのだろうか。

アヒルの首を捻って殺す

 証すために、殺さなければならなかった。
 彼と二人で暮らす部屋は、どんよりと薄暗く狭苦しい。その狭い部屋に、わたしたちの他に動物たちがいる。敷きっぱなしの布団の向こうに、動物たちが暮らしている。
 その動物の一匹を、殺さなければならなかった。
 羊は大きすぎるし、わたしには殺せるか分からない。そこでアヒルを呼んでみた。
 アヒルも怒ると手の付けられない生き物なので、少し不安だったが、いつになく大人しくわたしのそばまで来てくれた。悟られないように優しく首に手をかける。彼はとなりの布団の上に座り、あまり関心なさそうに見ている。
 細い首にかけた手に、少し力を入れる。アヒルは大人しくわたしに寄り添ったままだ。これ以上力を入れたら暴れられて、クチバシで突かれるだろう。そこでもう片方の手も添えて、一気に捻った。
 雑巾を絞るように両手でアヒルの首を捻った。一瞬でも力を抜いたら、断末魔の苦しみの中でわたしも傷つけられ、凄惨な場面になると思った。捻った形で腕が固まるほど、全身の力を込めて首を捻った。
 アヒルは首が不自然な角度で曲がったまま、絶命した。最後まで一度も鳴かなかった。予想と違い、あっけないほど大人しく死んだ。
 恐怖でうちふるえていたのはわたしだった。
 可愛らしかった白いアヒルを、首を捻って殺してしまったのだ。
 アヒルが息絶えると、彼はまた無関心そうに布団の上で向こうを向いた。性行為の後に背を向けて煙草を吹かすようだった。

 証すために、殺さなければならなかった。
 しかし何を証すために。
 彼のためだろうか。あるいは、わたしが女であるために。
 だが、わたしの強さを証すためだったかもしれない。それができる、ということを示すためだけだったのかもしれない。

火口付近の二匹のてんじくねずみと一匹のウサギ

 余震の発生の仕方が奇妙だ。正確に同じ時間ごとに発生し、しかもその前後に、動物たちが仮死状態に陥る、という現象が見られる。地震の発生する一定時間前から仮死状態に陥り、丁度同じ時間だけ経過してから、何事もなかったように目覚める。
 この仮死状態には「向こう側」に抜ける秘密が隠されているようで、多くの科学者たちの興味を惹いている。
 そんな中、「火口付近」というタイトルで、TweetPicに一枚の画像が投稿された。そこには、二匹のてんじくねずみと一匹のウサギが「山」という字のように寄り添って眠っている姿が映っていた。
 「火口付近」という言葉は富士山爆発を連想させ、実際に火山活動が活発化する中、「不謹慎」であるとして、ネット上では大いに批判された。
 しかし「火口付近」の真意は、そんなところにあるのだろうか。
 これもまた、仮死状態の秘密に迫る一つのヒントなのだ。
 仮死状態は冷たく停止しているようで、実は噴火のように「向こう側」に抜けることと同義だ。なぜなら、二匹のてんじくねずみと一匹のウサギは、「山」の形に寄り添って眠っているからだ。
 しかしながら、いかに欲求不満が高まっても、目覚めてみればてんじくねずみが二匹とウサギが一匹。所詮は種が異なるということだ。

出世アザラシ

 ゴマちゃんは、まだ魚だった頃は川に住むメダカで、滝を登ったり降りたりしていた。
 なぜかというと、登って登ってどんどん登ると、これ以上先がなくなるからで、だから登ったら降りて登ったら降りていたのだけれど、うっかり流されすぎて海に出て、それからイナダになった。
 なぜイナダなのかというと、サンマほど細くないし、イワシみたいに腹がザラザラじゃないからで、黒潮に乗って北の海で暮らしていたのだけれど、タツノオトシゴと決闘するために南に下っていった。
 まだその時は魚のようなアザラシのような微妙な感じだったのだけれど、タツノオトシゴと一しきり戦って友情が芽生えた頃には、結構アザラシっぽくなっていた。
 出世してブリじゃなくてアザラシになった。
 それから地上に上がるのだけれど、それもムツゴロウみたいなビチビチした感じじゃなくて、結構華麗に地上に登ってきた。シュッとしてヒュッみたいな感じだった。
 そんなわけで、ゴマちゃんは今うちの部屋で暮らすようになった、という話を、昨日教えて貰った。
 お前も色々あるんだね。あと出世したね。