他人の記憶を思い出すこと、「覚え書き」を覚えていたのは誰なのか


 先日お邪魔した「アラブの音を聴け」での師岡カリーマ・エルサムニーさんと常味裕司さんのトークの中で、ウードの譜面が話題になりました。
 常味さんは基本的に西洋式の譜面を利用されているようですが、ウード独特の伝統的な記法もあるようです。そしてこの記法に触れた時、常味さんが「でもこれは覚え書きのようなもので」と仰ったのに、ハッとさせられました。
 「覚え書き」というのは、楽譜に音楽の構成要素が還元されておらず、楽譜だけでは楽曲を再現できない、ということです。
 似たことを、アラビア語についても感じることがあります1。アラビア語には原則的に母音そのものの表記がなく、文脈等から文章構造を認識し、最終的な発音につなげる他にありません2。そうしたところも、アラビア語が「音楽的」と評されたり、詠唱が重視される一因になっているのでしょう。ただ、アラビア語が多少極端だとしても、統語構造の認識抜きに完全な発音が決定できない、というのは、どんな書き言葉にも言えることです。
 要するに「覚え書き」とは、「それ自体で情報媒体として完結しておらず想起という契機を要するもの」です。そして書き言葉とは、厳密には洗練された「覚え書き」に過ぎません。
 しかしここで言いたいのは、「言葉はまず耳から!」というナイーヴな語学講師的「パロール至上主義」でも3、逆に「原的パロールなど存在しない」といった安っぽい90年代大学生的ポストモダニズムでもありません。

 「覚え書き」(広義のエクリチュール)は、誰かが何かを思い出すためのものです。
 ですから、「覚え書き」の最終的な意味内容は、「誰か」が握っていることになります。

覚え書き -> 誰か -> 意味

 素朴に考えると、覚え書きは「誰か」の記憶に対するトリガに過ぎません。通常使う、狭い意味での「覚え書き」であれば、普通は書いた本人が「誰か」になります。
 しかし、「覚え書き」をエクリチュールの本性を表したものとするなら、「誰か」は自分自身とは限りません。わたしたちは、他人の書いた文章を普通に読むことができます。言わば「他人の記憶を思い出す」営みを、日常的に行っているわけです。
 ここから振り返れば、実は狭義の「覚え書き」であっても、覚え書きを読む人と書く人は「別人」であることがわかります。自分のメモを見返すにしても、「書いたわたし」は既に過ぎ去り、現在する「読むわたし」ではありません。「書いたわたし」と「読むわたし」の間には、常に論理的な時間差があります。実際、自分のメモが読めなくなる、というのはよくあることです。
 ですから、「原的パロールは存在しない」というポストモダンの受け売りも、一面では妥当です。言うまでもなく、発生論的にはパロール(話し言葉)がエクリチュール(書き言葉)に先行します。そして、いかなる「覚え書き」も「誰か」が書いたものであり、「書いたわたし」は存在したはずでしょう。しかしエクリチュールが「書かれたもの」としてわたしたちの前に現前する時には、常に既に「書いた誰か」は過ぎ去っています。「作者」は常に死者であり、「真の意味」は必ず失われています 。

 翻せば、それが絶対に手の届かないものであるにも関わらず、「作者」は想定されるのです。「意味」を認識するとき、わたしたちは常に「死せる作者」を暗黙のうちに想定しています4
 真の意味が必ず失われているというのは、不安なことです。実際、テクストは常に誤読されます。しかし、いくら不安がっても時は流れ、「書いたわたし」は過ぎ去ってしまいます。
 この不安を鎮める作用を果たしているのが、< 他者>です5
 < 他者>とは< 全体性>であり、「みんな」という集合自体を指すものです。他者について思考する時、単なる他人ではなく「応答せざるもの」、例えば死者を考えるべきであるのは、このためです6。< 他者>とは亡霊たちです。
 < 他者>は、言わばわたしたちの「代わりに」意味を覚えていてくれます。「書いた本人」が書いた瞬間に意味を識っていた、ということです。
 その人はもう過ぎ去ってしまい、いないのですが、その想定がなければ、「意味」を期待することもできない。だから< 他者>は常に想定されます。その究極の形が神であり、神とは「すべてを予め覚えている者」(出来事の起こる以前から、それらが完了したものとして「記憶」している者)のことです。
 「信仰には疑いという次元が可能性として含まれなければならない」という逆説は、この< 他者>の系譜から理解できます。< 他者>は存在しないからこそ、呼び出されたのです。
 「実はもうみんな死んでしまったのではないのか」という不安、疑い、これが「みんな」を通じた意味の認識を支えています。信仰と信仰への疑惑は、合わせて一つです。実はみんなもう死んでしまっているから、生きているという前提で生きるのです
 死んでしまった「みんな」、そこにはもちろん、「書いたわたし」も含まれています。わたしは一人の死者です。「読むわたし」が「書いたわたし」の残したものを信じ、わたしたちが「他人の記憶を思い出す」ことができる(と暗黙的に信じ生きる)のは、わたし自身が「棺桶に片足を突っ込んで」いるからです。

 ところで、わたしたちは普通、書かれたものをここで言う「覚え書き」的には捉えていません。
 高度に洗練された書き言葉が識字率100%に近い世界で使われる時、使用者個々人の意識の中にあるのは、次のような図式でしょう。

覚え書き -> 意味

 「誰か」という契機が省略されています。
 つまり、誰も覚えていなくても、「情報」は自動的に意味をポイントできる、ということです。
 もちろん、そんな「自動化」は幻想に過ぎません。「誰か」が限りなくゼロに近づいても、必ずこの契機はあります。
 「誰か」が極限に薄くなるということは、実は「誰か」が圧倒的に信頼されている、ということです。意味は必ず失われているにも関わらず、確実に保証されているかのように感じられるのは、「誰か」の鎮静作用が極めて強力に働いているからです。
 疑いの可能性が失われたとしたら、それは「信仰」ではなく「狂信」です。幸い、この可能性について、わたしたちは思考することができ、かつ思考しています。「誤読」や「解釈」を巡る語らいの存在しているのが、その証左です。

 「覚え書き」が直接ポイントしているのが「誰か」であって「意味」ではないことは、非常に重要です。
 「無人島の砂浜に足跡があればそれはシーニュだが、足跡を消した跡があるとすればシニフィアンだ」とラカンがどこかで言っていた、でもどこだか思い出せない、という話を三回くらい書いた気がしますが(笑)7、わたしたちが「覚え書き」に発見するものは、消した跡のある足跡です。つまり、「書いたわたし」は「読むわたし」のことを(未だ)知らないにも関わらず、誰かに読まれるべくそれを書いたのです。
 「覚え書き」は「死せる作者」の手紙です。< 他者>とは、交通不能なものですが、その手の届かない場所にいる「誰か」は、向こうからも手の届かない「未だ生まれてもいない者」に向けて、メッセージを残しています。
 メッセージが伝えるのは意味でしょうか。違います。
 「消した跡のある足跡」が示すのは、「わたしはお前を見ている」、つまり「読むわたし」の存在です。
 解読できない古代の象形文字だとしても、最も重要なメッセージだけは受け取ることができます。一つは、それを書き、消失した主体の存在(足跡が示すもの)。もう一つは、それが書かれた時には未だ存在しなかった「今読んでいるわたし」の存在です。
 解読できない古代文字こそ、「書かれたもの」の本質を浮き彫りにしてくれます。なぜなら、文字は常に「読めない」ものだからです。「覚え書き」の意味を識っていた者は常に過ぎ去っている以上、残されているのはいつも「みみずの這った跡のような象形文字」なのです。
 読めない文字は、それが読めたはずの「誰か=死者」をポイントすることにより、「わたしはお前を見ている」という死者の声を届けます。死者たちの示す「お前」は、死者の世界における「わたし」、つまり一人の死者としての「わたし」です。
 メッセージは、「お前はこれだ」と一つの死体=物質を掲げています。その文字が本当に読めてしまった時、つまりわたしたちの背中に書かれた「本当の名前」が遂に解読できてしまった時が、ホメオスタシスが破れ、永久の平安が訪れる時です8

 フォスハーと呼ばれる正則アラビア語が確立されたのは、イスラーム成立直前のおよそ千五百年前。アラブ世界の各地域ではアーンミーヤと呼ばれる方言が口語として使われていますが、書き言葉やテレビ等のアラビア語は、現代でも原則としてこの「フォスハー」です9
 このことを受けた、師岡カリーマ・エルサムニーさんの『恋するアラブ人』の一節を、最後に引用させて頂きます。

それにしても、構造や文法が変わっていないということは、つまり古典の詩や散文が現代人にも読めるということだ。私はこのことを思うたびに、心臓がどきどきするほどの興奮を覚える。千五百年前に、「まるで岩山に縛り付けられたように不動の星たち」を見上げて砂漠の夜明けを待ちわびた男たちの苦悩が、現代語訳者という仲介を経ることなく、直接私たちの心に触れるとき、私たちは気の遠くなるようなときを超えて、「君は一人じゃない」とすぐ耳元で囁きかける声を、確かに、聞くのである。

  1.  アラビア語については、依然わたしは初心者であって、本当はこんな偉そうなことを語る資格はありません。スイマセン。 []
  2.  クルアーンや学習書、子供向けの本には母音記号が付いている []
  3.  この認識には厳密には賛成しかねますが、実際的な語学学習の要諦としては十分妥当だと思いますし、わたし自身の学習でもそういう傾向が強いです。ダムの設計をするのに量子力学を持ち出す人はいないでしょう。 []
  4.  以下ほか参照。
    「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」
    「「わかる」ことと作者の転生」 []
  5.  分かり易くするために、不安を鎮める機能として< 他者>が求められるような書き方をしてしまいましたが、この不安、つまり「覚え書き」的不安と< 他者>の成立は同時的です。狭義の「書き言葉」ということなら、発生論的にはむしろ< 他者>の機能よりずっと後です。ここから考えると、「覚え書き」的不安とは、「書き言葉」に限らず、「情報を伝えるものとしての言葉」の成立と同時に発生していることがわかります。言葉が何かを伝えている、言葉に意味がある、ということ自体が不安なのです。 []
  6.  以下参照。
    「身になることのできない相手との対話」
    「音読と黙読、「内面」と読誦」
    「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」 []
  7.  「欺きと信じること」 []
  8.  「奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ」 []
  9.  正確には古典正則アラビア語と現代のフォスハーは異なるようですが、少なくとも日本語の「古文」ほど現代文と異なることはない []

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