イラク、疑心暗鬼の罠


4004308712 イラク 戦争と占領 (岩波新書)
酒井 啓子
岩波書店 2004-01-22

 『イラクは食べる』をご紹介した酒井啓子さんの前著、『イラク 戦争と占領』です。時間を遡って敢えて手に取りました。
 2004年の著作で、テーマがテーマなだけにマーケットプレイスなどで買い叩かれていますが(笑)、時事的なテーマの本を少し時期を外れて読むと、思わぬ発見があって面白いものです。時事ものといっても、わずか四年前。時系列を追って再整理する上でも十分有用です。
 読み物としては、『イラクは食べる』より楽しめます。『イラクは食べる』が諸勢力の動静を追うことに終始してしまっているのに対し、『イラク 戦争と占領』の特に前半は、イラク戦争に向かっていかに事態が悲劇的に展開していったか、劇的かつコンパクトにまとめられていて、ノンストップで読み進められます。
 後半はやはり諸勢力の整理に割かれている傾向が強いのですが、それでも『イラクは食べる』より見通しが良いのは、イラク情勢がこの四年で更なる混沌へとはまり込んでしまった、ということなのでしょうか。
 『イラクは食べる』にも続く視点ですが、酒井氏が強調するのは「どっこい社会は生きていた」というポイントです。悪辣な独裁者を放逐すれば、社会に空洞が生じ、亡命イラク人を巧みに操ってアメリカ好みの世俗的「民主国家」を樹立できるだろう。そうした目論見は、「解放」後にあからさまになった社会的靭帯の強さ、壊滅的混沌を少しでも自らの手で収拾しようとするイラク人たちの(時に過剰なまでの)自主性によって、見事に打ち砕かれます。

 個人的にとても気になったのが、疑心暗鬼に囚われていく末端のアメリカ兵の姿です。

 前にも後ろにも進めなくなって、どうしていいのか途方に暮れている駐留米軍を見ていると、「解放」に来た彼らこそが、まさにフセイン政権の呪縛に取り込まれてしまっているかのようだ。フセイン政権下のイラクでは、国民のそれぞれがお互いに敵か味方かが不明な状態で、冷徹に「個化」された社会を生きていた。どこかに「内なる敵」が潜んでいるのではないか、と疑心暗鬼になりながら、平静な生活を装っている、というのが、イラク人の「日常」だった。その不条理な日常をこそ、米軍は「解放」しに来たはずなのに、逆にそれに呑み込まれようとしているのだ。

 この「誰が敵だかわからない」疑心暗鬼こそが、「自分以外はすべて敵」な分断を作り出す権力のトラップです。そこからの「解放」を謳ってやって来た米軍が、自らその疑心暗鬼につかまってしまう。「テロとの戦い」とは、イラク人たちが強いられてきたのと同種の不安に対する、ヒステリックな反応です。それがヒステリックであるのは、名指すことのできないものに名前をつけてみることで、幻想的な解決を図っているからです。そうした抵抗は、ますます不安の泥沼を招くでしょう。暗闇で銃を乱射しても、弾が切れたところで喉笛をかき切られるのがオチです。
 違いと言えば、イラク人たちはずっと「疑心暗鬼慣れ」していた、ということでしょう。独裁政権下に限らず、地縁・血縁や「世間」が何千年も堆積された社会というのは、常に「自分以外はみんな敵」な罠を内に備えています。それでも彼らがノイローゼ的な猜疑心の虜にならないのは、「疑心暗鬼慣れ」し、一定のところで仲裁を引く、諦めにも似た精神性を長い年月をかけて培ってきているからです。疑心暗鬼がベースにあるからこそ、ネットワークを重んじ(悪く言えばコネ社会)、それでもダメならもう諦める。そういう達観のようなしたたかさのようなものを、愛と血と呪いが積もった地に住む人々は、細胞の奥深く植え付けられているのではないでしょうか。
 そうは言っても、一度ハマってしまったファンタジーによる防衛から抜け出すのは、容易なことではありません。この深淵は、アメリカという国と同じくらい「若すぎるが、もう十分には若くない」すべての者の足元に開いた空隙でしょう。誤った一歩を踏み出しても、もう一歩踏み出すと勢いで抜け出せることがありますが、中途な強さと老獪さが、前へも後ろへも進めなくさせる。それが疑心暗鬼の罠です。
 何だか自分のことを書いている気がしてきました。このトラップを突破できるものがあるとすれば、とてつもない老獪さか、とてつもない若気の至りの、いずれかしかないのでしょうか。

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