『サウジアラビア―変わりゆく石油王国』保坂修司


4004309646 サウジアラビア―変わりゆく石油王国 岩波新書
保坂 修司
岩波書店 2005-08

 『乞食とイスラーム』『正体―オサマ・ビンラディンの半生と聖戦』に続き、保坂修司さんの著書。
 サウジアラビアという国の社会構造、その問題点と変化がわかりやすくまとめられています。
 サウジアラビアの成り立ち、ワッハーブ運動については以前ご紹介した『サウジアラビア現代史』もオススメですが、本書の主眼は通時的視点というより、共時的・構造的な分析。

分配国家(レンティア)としてのサウジアラビア
 税金ではなく石油収入が財政の大半を占め、その利益が国民に「分配」される。極度の石油依存。
 国家上層は、石油価格に振り回される一極依存の危険を認識しており、石油依存からの脱却を図ってはいるが、脱石油のために石油を使う、という撞着に陥っている。
 民営化も「総論賛成、各論反対」で進まない。

極端に高い人口増加率
 石油収入を食いつぶす危険。インフラ整備が追いつかない。異様に若年層に偏った人口構成。

GDP
 数字の上での一人あたりGDPは日本よりずっと低いが、一般サウジ人の暮らしぶりは大変優雅なのには、数字のトリックがある。
1:三人に一人が外国人なのに、その数を人口に織り込んでいる。結果として一人あたりGDPが低い
2:サウジ人の人口自体が異様な速度で上昇しているため、GDPがあがっても一人あたりの数字が低い

失業問題
 20-24歳では28%という失業率の一方、大量の外国人労働者を抱えている矛盾。
 サウジの「失業」は、仕事がないのではなく「しかるべきポスト」がないだけ。
 サウジ人と外国人は、ホワイトカラー/グレーカラー・ブルーカラーという完全な棲み分けができていて、国の「サウジ化」政策も空滑りしている。
 サウジ人自身にとっても、サウジ人は外国人より圧倒的に「使えない」存在で、企業が求めていない。
 部族社会のため、家族が仕事をしない若者のセイフティーネットになっている。
 しかしそれも諸刃の剣で、仕事のない若者が「ブルーカラーでもいいし、給料安くても一から頑張る」と意気込んでも、豊かな時代に育った親たちが面子を気にして就職させない。

教育問題
 失業問題の一因には、実用性をまったく無視した教育システムがある
 過激な宗教教育がカリキュラムで大きな位置を占めるが、これが定着したのは一九八〇年代で、最初から今のシステムだったわけではない。 つまり、イランのイスラーム革命、アフガニスタンへのソ連侵攻、国王廃位等を要求する武装グループによるマスジド・ハラーム(マッカの礼拝堂)占拠等の動乱が続いた後。
 マッカ占拠のジュヘイマーン・オヘイビーらは「ネオ・イフワーン」と呼ばれ、アブドゥルアジーズのイフワーン(遊牧民を組織した宗教的民兵、後に極端な宗教主義に走り弾圧される)の思想的後継と目された。つまり、体制転覆を目論む等、極端ではあるが、思想的には主流派とさして差がない。これを武力で鎮圧するために、政府は宗教界を味方につける必要があった。そこで武力制圧を容認させる代わりに、宗教教育の推進をカードとして使った。
(サウード家は必ずしも極端な宗教教育を歓迎していない、守旧派ウラマーとのパワーバランス・・)

一九八〇年代の「宗教化」
 ナセルとの対立から、祖国を追われたムスリム同胞団などのエジプトのイスラーム主義者を、サウジが受け入れた。
 アフガン戦争も、内部の不満分子のガス抜きとして利用された(不満分子を「義勇兵」として放出する)。
  →アラブ・アフガン、つまりアフガン帰還兵の問題に(「ガス」として抜かれたものの帰国が歓迎されるわけがない。大義の為に戦った若者が冷遇される矛盾)

湾岸以後
 湾岸戦争における米軍のサウジ駐留は大きな反発を招いた
 一九九〇年代の改革運動は、かつてのように体制転覆を狙うものより、体制内での改革を主張する洗練されるものが目立った
 はじめにリベラル派、続いてこれに対するウラマーら右派勢力の改革運動が続いた
 比較的穏健だった運動も最終的には弾圧され、再び過激なものが目立つようになる(運動の「地下活動化」)。以前より「反米」が中心に据えられる。

九・一一以後
 大きなインパクト、体制内部にも危機感、米国の圧力
 リベラルとウラマー双方から建白書の提出
 リベラル・ウラマー共闘もあるがやはりまとまらず
 女性建白書、シーア派建白書も
 地方評議会選挙(実権の乏しい議会だが、兎に角選挙が催される)
  →一般市民の無関心
  →イスラーム主義者は意外にも苦戦(リベラルでもイスラーム主義者でもない「地元の名士」が優勢)
 過激ウラマーの改悛
  カリスマ性のある過激なウラマーのテロを諌める発言が政府に利用される
   →一定の効果はあるが絶対ではない
   →そもそもテロ指導者の多くは正規の宗教教育を受けていない

 エピソードとして印象的だったものの一つが「女子高火災事件」。
 マッカの第三十一女子高等学校で発生した火災事件なのですが、避難しようとした女性がヒジャーブやアバー(顔を覆う布)を着けていないのを見つけた宗教警察が、アバーを取りに戻らせようと押し留め、結果として十五人の少女が亡くなり五十人以上が負傷した、というもの(女子高の中では女子生徒もアバーを着けていない)。
 サウジアラビアの宗教警察は、一部「ボランティア」により運営されているようで、例えばナチの秘密警察のような「洗練された」警察組織というより、単に宗教を盾に難癖つけていい気になっているオヤジが幅をきかせている様が想像できます。
 新聞各紙は一斉に宗教警察を批判しましたが、その後内相が宗教警察の関与を否定すると一気にトーンダウン。ただ、体制側としても宗教強硬派の暴走は望むものではなく、アブダッラー皇太子は過激主義を諌める発言を行っています。

 また、職のない若者本人が「選り好みしていられない」と覚悟を決めても、面子の問題からしかるべきポストを求めざるを得ない様子は、少し高学歴ニートの問題も彷彿させます(大いに状況が異なりますが)。家族という「セイフティーネット」が永遠に機能してくれるなら結構ですが、現実的に考えれば、結局「生きられる選択肢」の提供それ自体が、真綿で首を絞めるように生命力を奪っていくのです。

 かといって、欧米流の「民主主義」が根付けば、今よりマシな国になるのかと言えば、それも大いに疑問です。結局のところ、どのような政体になろうが、大衆は単に無関心なのです。
 一つ確かなのは、こうした体制の中でアパシーにも迎合にも陥らず外国人のような視点を同時に備えられる知識人に、より「自由」で「民主的」な社会で量産される「知識人」は、誰一人敵わないということです。そうした超人は本当に一握りもいないと思いますが、どの道大勢は盲目のままなのですから、政治制度など抑圧的な方がむしろ望ましい、と個人的には考えています。

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コメント

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