『恋するサウジ』、人情の辛さ、処刑されるための旅


4046210915 恋するサウジ―アラビア最近生活事情
郡司 みさお
角川学芸出版 2006-11

 サウジアラビアの歴史や思想、社会構造についての本はいくらか読んでいたのですが、この郡司みさおさんの『恋するサウジ』は、サウジアラビアに赴任したご主人と共に渡航した「赴任妻」の視点から描かれた、極めてカジュアルな「今時のサウジ」本です。サウジの見所や注意点などもかなりぶっちゃけに書いてあるので、旅行者にもかなり便利だと思います。
 普通だったらあまりわたしの手に取るタイプの本ではないのですが(逆に言えば、普通の旅行好きお姉さんにはウケるはずw)、購入したキッカケは、最近サウジの女の子と「文通」しているからです。
 それまでのわたしのサウジイメージは「二大聖都を抱え、厳格なワッハーブ主義を掲げる宗教国家」「でも世界最大の産油国、大金持ちのレンティア国家」「親米路線と伝統派への懐柔などの矛盾が、一部で過激な『原理主義者』を生み出す温床を作ってしまった」「出稼ぎ労働者に依存する歪んだ構造、貧しい他のアラブ諸国から来た労働者に評判が悪い」等々、いずれをとってもちょっと眉間に皺が寄りがちな小難しい「外側からの」ものでした。
 ところが、彼女は至って普通の18歳の女の子で、ワッハーブがどうたらイスラエルがどうたらといった話題はまったく出ません。宗教の話も政治の話も一度もしたことがありません。「この映画面白かったよ!」とか、アラブの詩や日本の歴史について、他愛もないお喋りをしているだけです。彼女は日本にとても興味を持っていて、「日本の歴史の本を読んだけれど、とってもエキサイティング! 豊臣秀吉かっこいい!」というメールも頂戴しました(やり取りはほぼ英語、一部片言の日本語と片言以下のアラビア語)。サウジアラビアの女の子から豊臣秀吉の名前を聞くとは、想像もしたことがありませんでした。
 というわけで、小難しい話はちょっと脇によけて、もうちょっと「フツーのサウジアラビア」を知りたいな、と思って読んでみたのが、『恋するサウジ』でした。

 その期待に答えてくれる本で、最初に書いたように旅行者にとってもこれからサウジに赴任される方にとっても有り難い情報が満載なのですが、個人的にはちょっと鬱になりました。
 アラブ人がとても人懐こく、日本人以上に挨拶やらシキタリやら家族の絆やらもてなしの心やらを大切にする、ということはわかってはいたのですが、こうしてアリアリとした生活感をもって描かれていると、「こんな人情たっぷりの世界ではとてもやっていけない」と思い知らされます。
 お断りしておきますが、郡司さんはこうした「人情」的なサウジアラビアを肯定的に示しているのであって、実際、面倒な面はあっても、「住めば都」なのではないかと思います。
 ただ、わたしはとてつもなく人付き合いをしないヒトで、東京について日々悪態をつきながらも、おそらくはこの匿名的な都会のお陰でかろうじて生命を維持しているような疎外されきった生き物です。仕事以外で人間と接触することすら、ほとんどありません。
 大体、こういう人情に疎い人に限って、人情話を好むものです。人情と人情話は全然違います。人情臭いオハナシは大好きですが、下町的なリアル人情は死ぬほど苦手です。天真爛漫な人も嫌いです。
 何が困るかというと、彼らはとてもイイ人なのです。イイ人だけれど、その素朴さゆえに、時々とてつもないことをストレートに言い放ってしまう。他人の世界にもノコノコ入ってくる。そこに一ミリの悪意もないが故に、怒るに怒れない。むしろ認めて受け入れたい。でも、そうすると自分がすごくしんどいので、結局距離を置くしかなくなってしまう。イイ人はとても厳しいです。
 おまけに「赴任妻」などという社会的ポジションは、もうわたしの想像を越える世界です。「専業主婦」すら、薄毛で悩んでいるイヌイットのオジサンと同じくらい遠い世界です。

 このキツい「人情」を感じることで、一つ恐ろしいことを思い出しました。
 極私的事情から、サウジアラビアのような厳格なイスラーム国家を旅行した場合、下手をすると生きて帰ってこられない可能性があります。現実的には、自ら墓穴を掘らなければまず問題ないかと思うのですが1、アメリカですら似たような人が何人も殺されていますから、殺されないまでもとてつもなく酷い目に遭う可能性は決して低くないでしょう。
 なんだか矛盾しているようですが、よく思い出してみると、そもそもの始まりはむしろ殺して欲しい、どうせ殺されるなら独善的な正義の名の元に、その場に居合わせた誰もが納得する形で処刑して欲しい、と考えていた気がします。どのみち助からないなら、変に後ろ暗さを持たないで欲しい、晴れ晴れと処刑して欲しい。そういうファンタジーがあった、というか今もあるように思うのです。
 カフカの『判決』で、「お前は、溺死刑だ!」と言い渡された男は、きっと享楽の果てで川に飛び込んだことでしょう。それまでぼんやりして形もハッキリしなかったお父さんが、素晴らしい威厳に満ちて見え、すべてが明瞭に了解されます。
 もちろん、溺死刑をキチンと受けるのは、大変難しいことです。悲しいことに、溺死刑を言い渡してくる人はそうそういませんし、言い渡されても多分とてもしんどくて、到底納得できるものではないでしょう。だから、溺死刑のためには、判決者の圧倒的な確信と、有無を言わせない不条理のラッシュが必要です。
 真面目なムスリムやイスラーム研究者の方には大変失礼なのですが、最初の最初には「イスラームならわたしを溺死刑にできるのではないか」という無知故の幻想があった気がします2
 流石に今ではそこまで不躾なことを考えているわけではないのですが、本当にその気になれば「酷い目に遭う」ことは難しくありません(それを言ったら、誰だってその気になれば酷い目にくらい遭えますが)。もちろん、「その気」ではダメです。意志を越えどうにも抗いがたい「失敗」が必要ですから、失敗するギリギリまで、こちらは抵抗します。そうした抵抗は日々行っていて、お陰で「失敗」することはほとんどないですし、「失敗」しても日本ではまず殺されないのですが、かの地であれば、単なるリンチではなく、公明正大に裁いてくれる可能性が残されているようにも思います。
 多分、わたしたちの誰もが、「存在するだけで罪」なのですが、もう色々面倒くさくて、それならそれで堂々と裁いて欲しいというか、幸か不幸かわたしには因縁を付けられるわかりやすい要素があるので、つけるならさっさとつけて処分してくれ、と考えていた気がします。いや、基調低音的には今でもずっと考えています。
 これも遡及的に捏造した記憶かもしれませんが、自分の記憶のどこからどこまでが「捏造」なのかもよくわからなくなっていますし、もう考える気もありません。
 つくづく失敬な妄想で申し訳ないのですが、処刑されるまで頑張って旅し続けるのも良いかなぁ、と思っています。来年くらいには行きたいです。

  1. でもわたしは墓穴を掘る天才(笑)。 []
  2. 殺してもらうだけなら選択肢は色々あるが、アメリカのファンダメンタリストになんかに断罪されるのはまっぴらだ。 []

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