奥行きの不安


 奥行きが不安です。
 このことを思い出したのは、アラビア語の発音がキッカケです。アラビア語には喉や口蓋の奥を使う音が多く、似た音を弁別するのに、口の「前」と「後」というのを意識しないといけません。依然として(おそらく一生)キチンと発音できないので、気張っていると意識に合わせて顔が前後していたりします。まるで初めてテレビゲームをやった子供が、画面のキャラクターに合わせて身体を動かしてしまうようです1
 かつて離人症的症状がひどかった時、奥行きが気持ち悪くてたまらなくなりました。正確には、奥行きというのが「わからず」、にも関わらず奥行きの概念を備えている、という状態が叫びだしそうなほど怖かったです。
 この感覚を表現するのは難しいのですが、ものに実体感がなくなると、机は机で確かに見えているのに、何か全部が平べったいカキワリのように見えて、いちいち触って裏側がないか確かめたくなります。別段、視覚が変わるわけではないのです。「生気がなくなっている」とでも言えばよいのですが、何が足りないのだろう、と考えると、奥行きがないのです。
 立体視ができないわけではありません。「モノに奥行きがある」ということも理解しています。ですが、「別に奥行きがなくて立体っぽく描いてある絵でも一緒なんじゃないか」というか、奥行きの意味がわからなくなるのです。
 全然伝わっていないですね。すいません。
 「実体感」と概念として括り出してしまうと、抽象的すぎて違う気がしてきます。その欠落が実際に感じられるとき、「奥行き」なるものの形をとって表れる。明らかに物理的な意味での「奥行き」ではないのですが、なぜかそれが「奥行き」の身を借りてやってくる。

 わたしたちは、開かれた視界に世界が映り込んでいるモデルに非常に馴染んでいますが、そこに届いている情報に「奥行きそのもの」はありません。左右の視差や見えの大小とものの大きさについての知識を利用して算出しているだけです。正確には、三次元モデルのようにきっちりパースペクティヴを引いているわけではなく、「要りような奥行き」だけを大雑把に見積もっているはずです。
 仮に、三次元の物理的空間というものがあるとして、一点に視点を置き、上下左右を決めたら、「奥行きはこの軸方向」「視点からここまでは何メートル」と言うことはできます。この奥行きは、相対的ではありますが、客観的に実在する奥行きです。
 一方、視点が三次元そのものを認識できず、二次元の感覚与件のみを得るとすると、視点にとっての主観的奥行きとは、客観的奥行きを模したものに過ぎません。いかに精度を高めても、感じられている「奥行き感」そのものは、仮構的なものです2
 普通は、客観的な奥行きと主観的な奥行きを、意識して区別することはありません。というより、主観的な奥行きを客観的な奥行きと信じているからこそ、主観的奥行きは「奥行き」として感じられているのです。この区別を頭で理解したとしても、依然として主観的奥行きの権威は揺らぎません。
 「奥行きがなくなる」感というのは、主観的奥行きが存在したまま、その権威だけが失われた、というような状態です。感覚与件に変化はありません。見えも変わりません。しかし、その奥行きの向うに客観的奥行きが存在し、確かめようがないにしてもとにかく「向こう側」の奥行きを代理しているのだ、という基調低音的確信が失われてしまう、ということです。
 ですから、それは別段「奥行きの喪失」と呼ばれなければならないわけではないし、別の感じられ方をしてもよかったはずです。ただ、少なくともわたしには「奥行き」の問題として感じられ、かつ、それが「奥行き」と分かちがたくバインドされるのはわたしだけではないのではないか、と考えています。

 奥行きというのは、モノが統合された一つの物質であることを支えている感覚とも言えます。
 映像で「奥行き」を表現するには、カメラを動かすことですが、この時行われているのは「ちょっとズレてもまだ一緒のもの」という同定作業です。純粋な知覚としては縁もゆかりもないほどズレているはずなのに、「何か」が固定され、それを軸に「わたし」の方が回っている。だから、奥行きとか立体感というのは、世界に対する信頼があって初めて成り立つものです。離人症というのは、暗黙的な信頼が壊れてしまった時に起こる現象のように思います。
 主観的奥行きが「代理」しているのは、実は客観的奥行きではありません。「客観的奥行きを代理している」ものとして振舞うことにより、世界の統合を表象代理しているのです。手紙は宛先に届きます。誰の手紙がどこに届くかという以上に、郵便が機能していること、「郵便そのもの」という手紙がわたしの元に静かに返送されてくるのです。

 テンプル・グランディンが、自閉症の方が初めての道で目印を探す時の振る舞いについて、面白いことを書いています。
 例えば、変わった形の電柱があったら、普通は単に「帰りにあれが見えたら右に曲がる」等と記憶するだけです。
 しかし、自閉症・アスペルガー症候群の方は、しばしばその目印を通り過ぎた後、一度振り返って確かめる、というのです。なぜなら、帰りに見る電柱の視覚印象は、行きに見る電柱のそれとは異なるからです。帰りに見るであろうはずの電柱の姿を確認し、それでようやく安心して前に進める、というわけです。
 普通の人にとっても、前から見るのと後ろから見るので、風景は異なります。時には、想像もしなかった見え方をすることもあるでしょう。
 しかし、余程特別な形の「目印」でもない限り、わたしたちは「見え」の違いを念頭に「二つの違う風景」を一つのものとしてわざわざ確認したりはしません。しないでも、勝手に統合されているのです。
 自閉症の方が時に天才的な記憶能力を示すことがありますが、あれは個物がバラバラに見えているからでしょう。抽象・象徴化の働きが十分でないため、一つ一つが「見えすぎ」てしまっているのです。
 普通の方が床に散らばったカードを一瞬で覚えたりできないのは、バラバラになったカードの風景を全体として「圧縮」して取り込んでいるからです。つまり抽象化です3

 奥行きの気持ち悪さは、この「バラバラ」と似ているところがあります。
 風景なんて本当はバラバラで、何のまとまりもない。奥行きもフィクションにすぎない。ただ、一つ一つの色や形の認識だけがグロテスクにはっきりと見える。見えるけれど、生気がない。つまり、失われたのは統合そのものです。

 前後に動いたりカメラを動かして「立体感」を得る、というのは、「世界への信頼」ということと併せると、示唆的なところがあります。
 旅をすると、一番びっくりするのは、どんなに動いても「わたし」が相変わらず付いてくることです。素早く動いたら違う人になりそうなのに、どうも一緒のようです。
 そして旅から戻ってみると、風景すら元のままです。わたしが見張っていなかったのに、留守中もしっかりやっていたようです。
 これはとても不思議なことです。
 多くの方がここに不思議を感じないのはよく知っていますし、幸いにしてわたしも日常的にはこれくらいのことでびっくりしないようになりましたが、本当はものすごい不思議なことです。
 たまに、この奥行きが本当に無気味だった頃を思い出すと、それを忘れられている幸せを噛み締めます。
 世界が留守番してくれていることは、本当に有り難いことです。

関連記事:
「『火星の人類学者』 オリヴァー・サックス」
「『我、自閉症に生まれて』 テンプル・グランディン」
「『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン」
「『神々の沈黙』1 意識、声」
「『天才と分裂病の進化論』 脂肪酸と統合失調症」
「自閉症、統合失調症、「人間のフリをする」」

  1. 今の子供はそんなことないですか? わたしは動きました。 []
  2. 当然、「直接知覚できないはずの客観的奥行きと主観的奥行きの間の類似性について、なぜ言及できるのか」という、伝統的なrepresentation問題的切り方は可能ですが、ここでは保留します []
  3. 「自閉」という語の響きは必ずしも彼らの振る舞いを適切に表現していませんが、通念的「恥じらい」の無さや内と外の区別が曖昧な感じは、「自開」とも読めるし、逆に真の「外」を認識していない「自閉」とも言えます。おそらく後者の印象からこの呼称が生まれたのでしょうが、象徴化し同定された第三極的「外」を持たない、という点では確かに「自閉」です。ただ、それを「自閉」と呼ぶのは、逆にわたしたちの側が余りに「外」に自信を持ちすぎている、つまり「わたしたちこそ客観的外部を共有しているのだ」という傲慢に見えて、あまり気持ちよくありません。加えて、彼・彼女らと接すると、むしろわたしたちが知らずに信じている「外」が実にアテにならないもので、ある意味彼らこそ「真の外」と一体になっているような印象を受けます。象徴化された「外」は安心と合理的交通を与えてくれるバリアです。バリアは守ってもくれますが、その向うを見えなくもさせます。バリアに慣れていると、バリアがなくなったらすべて崩壊な気がしますし、ここで話題にした離人的な感覚というのは正に「崩壊」的な体験なのですが、一方でバリアのなさに十分馴染んでいれば、そこはそこで世界が続いているのす。動物の世界というのは、「自閉=自開」に近いもののように思います。 []

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コメント

  1. もう読めない…

    これ以上読んだら好きになってしまいそう。昔っから頭のいい人が大好きなんだよね〜。京大卒なんてサイコーじゃんね。でも、ピンヒールで蹴られちゃいそうだから誰にも言わないん (more…)