行きと帰りで違う道を通ること、奴隷とゆとりファシズム


4004301548 イスラームの日常世界 (岩波新書)
片倉 もとこ
岩波書店 1991-01

 「『イスラームの世界観』 「第三のアイデンティティ」の幻想と現実性」で触れた片倉もとこさんによる『イスラームの日常世界』。
 おそらくは、「第三極」的幻想をイスラームに仮託し、「寛大」やら「多様性」を無闇に称揚するリベラルたちに人気のあった論調で、つまり個人的には気に食わないわけですが(笑)、「思想」としてはともかく、地に足がついたエピソードは純粋に読み物として楽しいので、気軽に寝転がって読むことができます。
 ちょっと気になるのは、「行きと帰りで違う道を通ること」。

 かれらがしばしば引き合いに出すハディースに、「一ヵ所、じっとしていてはいけない。なるべくさまざまなことをした方がよい」というものがある。一人の男がムハンマドのところへやってきて、「わたくしは、よきムスリムでありたいと、日夜、礼拝にあけくれています」と言った。するとムハンマドは、わたしは「礼拝もするし、断食もするけれど、家族と団らんのときをもち、友人を訪ねてあるくこともする。人生はいろいろなことをするのがよいのです」と言ったという。
 ムスリムの義務の一つである礼拝についても、「礼拝には、できるだけいろいろなモスクへ行きたまえ。いつも同じ人たちとではなく、ちがった人たちといっしょに神の前にひざまずくがよい」とある。
 「モスクに行った帰り道は、行きに通った道ではない道を通って帰ってくるのがよい」ともいう。同じ道を行ったり来たりするというような行動を、よしとしないのである。

 「行きと帰りで違う道を通る」。
 そんな余裕ないよ!という方が大勢でしょうし、わたしも大抵は同じ道で帰るのですが、同じ道を行ったり来たりしていると、段々と生活の全体が鬱屈とし、「やらされている」感が積もっていきます。自分自身がそういう暗黒な思考にハマりやすい性なので、余計に「同じ道を通る」危険を感じます。
 わたしたちは、結構色々なことができます。
 何でもできるわけではありませんが、無理だと思っていることも、やってみると意外とアッサリできてしまうことがあります。
 できたから何だというものでもなく、やりたくなければやらないでも構わないのですが、そういう「やってみれば意外と簡単」を経験することの効能は、「いつもの道」に戻ってきたとき、「やらされている」感が減って気が楽になることにあります。
 自身のかなり無茶苦茶な人生を振り返っても、人間、やろうと思えば何でもできてしまうものだと思いますし、そう簡単には死なないものです。それでも、職場と往復するだけの生活が続くと、不幸感ばかり増してきて、出口のないすり鉢の底にいるような気持ちになってきます。
 そういう時に、ただ「行きと帰りで違う道を通る」という簡単なことを実践してみると、少しだけ目が覚めた気持ちになります。
 ここで重要なのは、ハッとすることで「自由」な感じを得たとしても、実際にやっていることは一つしかない、ということです。

 わたしたちは、結構色々なことができます。
 でも、結局やっているのは一つのことです。
 パラレルワールドが沢山あっても、実際に歩む道は一つだけです。1
 では残りの可能世界、嘘の物語、フィクショナルなものが全部要らないかというと、可能性と結果、併せて一つなのです。
 「一つしか選ばないのだから、一つだけあればいい」は合理的なのですが、本当に一つだけ残して、延々とそれを繰り返していると、その一つのものの価値がどんどん目減りしていきます。不思議なことですが、同じ一つでも、色々あるものの中の一つと一つしかないうちの一つでは、そのものに見出す意味が変わってくるのです。
 我が家にうず高く積もった全然着ていない服も無駄ではないのです(笑)。

 一つのことを繰り返すというのは、基本的に奴隷のやることです。労働は奴隷のものです。2
 普通に働いていれば、仕事というものに一定の価値を見出さないと、しんどくてやっていられません。「奴隷のやること」だと思ったらやり切れないです。
 そういうわけで、「仕事を効率化するtips」やら「デキる人の習慣」的記事が人気なのでしょうが、奴隷の僻み根性のようでいかにも貧相です。だからといって、奴隷的労働をやめてしまうわけにもいきません。メタンハイドレートでも出てこない限り、この国は奴隷の国なわけですから。

 世の中には、うまいこと人を転がして奴隷にしてしまおう、という邪悪な思念が渦巻いています。
 一つの場所に留まりだしたら、奴隷の始まりだと警戒した方が吉です。一旦ハマッてしまうと、自分が奴隷であることにも気付かなくなり、悪想念に心を奪われていきます。もうとっくに奴隷なのに、「デキる奴隷」になれば解放されるかのような妄言に踊らされ、「ダメ奴隷」の烙印に戦々恐々とします。不安と恐怖が、攻撃性へと転化していきます。
 少し前にreponさんの「敗残兵から一言」が話題になっていましたが、この悪意に囚われていく感じは非常に非常にわかります。わたしも日々悪想念で一杯です。
 わたしはreponさんと違い脊髄反射で文句を口に出す性格で、「帰りたいから帰ります」と言って帰ってしまうキチガイ勇者なのであまり「ババを引く」こともないのですが、そんな横暴をきかせていながら、なおかつ悪想念だらけです。王家の生まれなのに電車に乗らされていること自体不服です。
 そういう時、一番良いのは寝ることです。
 次に良いのが、何でもいいから無理をして違うことをする、無駄なことをすることです。「別の物語」を感じることです。

 多分reponさんも指摘していて、そしてジジェクが言っているように、わたしたちは「自由」などではないし、ダンコガイさんの「自由」は絵に描いて額に入れたような「自由の強制」です3。「個性の表現」の一つとして「ヴェール装着の自由」を与えられたムスリマは、別の決定的な何かを簒奪されているのです。

選択とは常に、メタ選択であるということ、つまり選択そのものの形式を選んでいるにすぎない

西洋の< 寛容な>多文化主義における< 自由に選択する主体>は、固有の生活世界から引き裂かれ、ルーツから切り離されるという、非常に暴力的なプロセスの結果としてのみ、出現することになる。(『人権と国家』スラヴォイ・ジジェク)

 だから「reponさんにも色々選ぶ『自由』があったじゃない(その中で君が選んだんでしょ?)」というわけにはいかないのですが、では彼が清く正しい犠牲者であったかというと、それもまた違います。彼が何か失敗したとすれば、それは自由を受け取ってしまったことです。
 自由は拒絶しなければなりません。拒絶し、それから強奪するのです。
 「自由か、死か」と問われ、死を選ぶ時にだけ、人は唯一自由なのです。
 選択肢が沢山ある時、わたしたちは一番警戒しなければなりません。メニューを差し出す簒奪者たちは、そこから「一番良いもの」が選ばれるのを待っているからです。
 ですから、そういう時は全部取らないとダメです。
 全部でないなら、マズそうな料理を無理して食べなければいけません。マズくても食べるのです。遠回りして帰るのです。時間を無駄に使うのです。「効率的に仕事を管理する7つのtips」にウンコして逃げるのです。
 悪想念に囚われてしまったなら、いっそ自ら進んで悪を手にしなさい。その時唯一、貴方を奪った悪は、貴方自身の悪になるのです。

 例によってものすごい話がズレました。
 片倉もとこさんの論調は、いかにもジジェクが足をひっかけそうなダメダメさに満ちているのですが、一周回ってそういう「うんこリベラル」を敢えてふりかざすのが、今のわたしには最大の攻撃のように感じだしています。
 レッツ「ゆとろぎファシスト」! ゆとり持たないヤツは石鹸だ!

 ・・・いや、本はちゃんと面白いですよ。お祈り図解もあるし。

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「現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質」
「欺きと信じること」
「ムッソリーニ、人種、自由」
「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」
「待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「寛容さと共存の何が問題なのか」

  1.  ユートピアは、常に世界の一部として「存在」する。石油文明の一部としての「原子力文明」。 []
  2.  「ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由」で、ヨーロッパ人が一つの仕事を続ける傾向が強いことが指摘されていますが、その背景には労働を奴隷のものとして捉える認識があるように思います。会社組織の「家族性」が日本のそれよりずっと低い環境では、仕事=労働そのものがより純粋に抽象されます。取り出された労働は奴隷のものであり、奴隷にやらせるなら一つのことを延々と繰り返させてスキルを最適化するのが合理的です。
     現代のヨーロッパでは高貴な白人も奴隷労働に従事せざるを得ないわけで、そのバランサーとしてバカンスがあり、労働そのものに対する「共有された蔑視」があるのでしょう。 []
  3.  ダンコガイさん自身についてはむしろ好きなくらいですが、ある種の鈍さに守られてきた方なのだろうな、と思います。所詮世界はそういう少年たちのものなので、不服なら正面から行かずに少年の母とか女から殺すのが得策です。女に許可されたことしかできない者を滅ぼすなら、女を滅ぼさなければなりません。 []

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