ムーサとアル・ハディル


 クルアーンと並んでイスラームにおいて重要なテクストに、ハディースがあります。ハディースは言わば「ムハンマド言行録」で、預言者の身近にいた人々の証言を様々な伝承で伝えるものです。ハディースについても、気に入ったところはクルアーン筆写にポストしようかと思っていたのですが、余りにも魅力的な一節があったため、ここに引用しておきます。なお、文中「ムーサ」とは、ヘブライ語聖書のモーセのことです。

 ウバッイ・ブン・カァブによると、預言者ムハンマドは次のように語った。預言者ムーサがイスラーイールの民に語りかけていると、ある人が、誰が最も知識が多いか、と尋ねたので、それは自分だと彼は答えた。彼が知識を神に帰さなかったためアッラーは彼を責め、「二つの海の出会うところにいる私の僕は汝より知識が多い」と彼に啓示した。そこでムーサが「主よ、どのようにしてわたしはその人と会うことができるでしょうか」と尋ねると、アッラーは「籠に一匹の魚を入れて持ち歩け。そしてその魚を失ったときは、そこがかの私の僕のいる所だ」と答えた。
 ムーサとその小姓ユーシャウ・ブン・ヌーンは籠に入れた魚を持って出発し、或る岩のところにきたとき、そこに横になって眠ったが、その隙に魚は籠から抜け出てさっと海へ戻ってしまった。このことにムーサとその小姓は驚いた。二人は夜を日についで歩き続け、先に神が示した場所を過ぎるまではまったく疲れを感じなかったが、朝になった時ムーサは小姓に「朝餉を持っておいで。この長旅ですっかり疲れ果てた」と言った。すると小姓は「実は、私たち岩のところで休みましたが、あの時すっかり魚のことを忘れました」と応えた。これを聞いたムーサは「それこそ我らが求めていたこと」と言って、もと来た道を戻って行き、例の岩のところまで来ると、マントを着た一人の男が立っていた。ムーサが挨拶すると、その男アル・ハルディは「あなたの国ではどのように挨拶をしますか」と尋ね、「わたしはムーサです」と言うと、「イスラーイールの民のムーサですか」と尋ね、ムーサは然りと答え、「あなたが授かっておられる正しい知識を私にも与えて下さるなら、お供しましょう」と言うと、アル・ハディルは「いや、あなたはわたしと一緒には我慢できないでしょう。ムーサよ、わたしはアッラーに教えられてあなたが知らないことを知っており、またあなたもアッラーに教えられて私が知らないことを知っている」と応えた。これに対してムーサは「いや、いや、必ず我慢してみせましょう。アッラーの御心ならば。そしてあなたの言いつけには決して背きません」と言った。
 そこで二人は出発し、海岸を歩いていると、一艘の舟が通りかかった。彼らが乗せてくれるように頼むと水夫達はアル・ハディルを知っていたので二人をただで乗せた。すると一羽のスズメが飛んできて舟の舳先に止まり、くちばしで水の中を一度二度つついた。これを見てアル・ハディルは「わたしの知識もあなたの知識もアッラーの知識に比べれば、この雀が海からくちばしで掬う水ほどに過ぎない」と言った。それから彼は舟底に下りて行き、板をはがし始めたのでムーサは「皆が我々をただで乗せてくれておるのに、あなたは舟に穴を開けて人々を溺れさせようとなさるのか」と言うと、アル・ハディルは「だから言わぬことではない。あなたには我慢できない」と応えた。そこでムーサは「つい忘れてしまいました。どうか悪く思わないで下さい」とあやまった。これはムーサが我慢すると約束したことを忘れた最初である。
 さらに二人が歩いていくと、仲間と遊んでいる少年に出会った。アル・ハディルはいきなりその子の頭をつかんだかと思うと、もぎ取ってしまった。ムーサが「何の罪もない者を殺されたな。彼が人を殺したわけでもないのに」と言うと、「だから、言わぬことではない。あなたはとても我慢しきれるものではない」とアル・ハディルは応えた。
 なおも二人は旅を続け、或る町に着き、そこの人々に食べ物を求めたが、彼らは拒んだ。ところで、そこに崩れ落ちそうな塀があるのを見つけ、アル・ハディルはそれを直してやった。そこでムーサが「その気になりさえしたら、いくらでも、それで報酬がもらえるのに」と言うと、アル・ハディルは「これでわたしとあなたはお別れだ」と応えた、と。
 預言者はさらに付け加えて「アッラーがムーサに恵みを与え給うように。もしムーサがもっと辛抱強かったならば、彼ら二人の話をさらに聞くことができたであろうに」と言った。

 ハディースには、同じエピソードが微妙に形を変えて、伝承経路ごとに何度も何度も登場します。このムーサとアル・ハディルの下りも複数回見られますが、上記箇所が一番詳しく、かつ美しいです。
 アル・ハディル、あなたは・・・。

『ハディース〈1〉イスラーム伝承集成 (中公文庫)』 牧野信也 『ハディース〈1〉』 牧野信也

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