『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆


『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)』 加藤隆 『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆

 「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」でもちらっと書いたのですが、神様というのは「お願いごと」をするものではありません。ところが日本では、肯定するにせよ否定するにせよ、こうした「効能を持つ神(機能によって選ばれる神)」のイメージが強く、いつも神様の話をするのに骨を折ります。
 この『一神教の誕生』は、「願いごとをするものではない神」について、非常に平易に書いてくれています。細かいところでは問題もあると思うのですが、信仰を持たない身近な人に是非読んでもらいたい一冊です。

 非常に乱暴に模式化してしまえば、素朴な宗教とは「御利益宗教」、つまり神と人が「信仰」と「御利益」をギブ&テイクしている状態です。この場合、選ぶのは人の方で、神様がいくら「わたしのことだけ信じなさい」と言っても、役に立たなければ浮気されてしまいます。
 ところで、古代イスラエルにおいて、北王国がアッシリアに滅ぼされ、南王国だけがかろうじて生き延びる、という事態が発生しました。つまり、神様は助けてくれなかったわけです。この時、ユダヤの民は「ヤーヴェは役に立たない」と捨ててしまうこともできたでしょう。しかし、彼らはそれをしませんでした。代わりに導入されたのが、契約と罪という概念です。
 契約ですから、人が約束を守れば神も助けてくれます。今回、神様は助けてくれませんでした。この時ばかりでなく、神様というのはかなり助けてくれません。それは神様が約束を破った、ということでしょうか。もう一つ見方があります。わたしたちの側が約束を守っていなかった、という解釈です。
 人間が十分に「正しく」なかったのであれば、神様が助けてくれないのも当然です。義は神にあり、人は罪の状態にあることになります。ここで御利益宗教的な立場が逆転します。「助けてくれないなら浮気しちゃう」ではなく「浮気してたから助けてくれなかったんだ」となり、人の側に選ぶ権利はなくなります。
 すると「どうすれば正しくできるのか」に人々の関心は移るわけですが、ここに大問題があります。「どうすれば正しくできるのか」を人が決めるとしたら、それは自己正当化であり、神を拒絶することです。「正しくなりたい」といっても「わたしはこれこれをキチンとやりました、だから正しいです」と主張しては、「お前何様やねん」になってしまうのです。
 だからといって、「正しくなる」営みを投げ出してしまうことはできません。この「自己正当化を避けつつ正しい状態を目指す」ディレンマを仲裁するために、大きな役割を果たしたのが儀式と律法です。
 儀式を行うのは正しいことです。ですが、普通儀式というのは、一回やって終わりではありません。犠牲の羊は、毎年捧げなければなりません。つまり、儀式は正しいからやらないわけにはいかないのですが、やったからといって「完全な正しさ」には到達できない。こうして「正しいが、まだ十分には正しくない」という宙吊り状態が出来上がります。
 また律法には、「どうすれば正しくなれるか」が書いてあります。ですから、それを実行すれば「正しくなれる」のは間違いありません。律法の部分部分には具体的な内容もあり、それを実行することは難しくありません。
 ところが律法というのは大変巨大なもので、中には明らかに矛盾するような箇所や、わかったようなわからないような内容もあります。そうすると、部分については「正しく」できても、全体として「完全に正しく」生きることは非常に難しくなります。これまた、宙吊り状態が作り出されるわけです。
 これで自己正当化は避けられるのですが、いつまで経っても義の状態になれないので、大変辛いです。律法を部分的に解釈して「自分は正しい」とするような原理主義的態度も現れるわけですが、それこそ典型的な自己正当化です。
 これを乗り越えるべく出現したのが、黙示思想です。
 ものすごい大雑把に言ってしまうなら、黙示思想とは「罪が義になるのは全然無理」と言ってしまうことです。罪が義になろうとすること自体、人間の勝手な言い分です。もう、罪なのですから、理屈から言えば滅ぼされて当然なわけです。この世界を選び創造したのも、滅ぼすのも、神の自由です。圧倒的に神様の勝ちです。
 黙示思想が革新的なのは、「神様が何もしてくれない」から「正しくなる」ことを模索していた律法や儀式に対し、「神が何かするとしたら、既に罪の人間たちを滅ぼすしかない」と見切ってしまったところです。今までは「何かしてよ、神様」と言っていたのが、「よく考えたら何かするとしたら滅ぼすしかないやん」と言ってしまったのです。むしろ今まで「何もしない」でいてくれた方がラッキーだったのです。
 ただし、実際には黙示思想にも問題はあります。一つには、いつまで経っても世界が滅ばないことです。「滅ぼされて当然」というのは手の施しようがなくてある意味安心なのですが、そういう割には世界は滅びません。もう一つは、神が圧倒的に自由なのだとしたら、罪を滅ぼす代わりに何かもっと別の方法で罪を消してしまう、という可能性もあることです。
 最後の可能性は大変重要です。「罪を義にする」姿勢はどうあがいても自己正当化の危険があり、「人が変わることで神を変える」御利益宗教に堕してしまう恐れがあります。黙示思想ではこの可能性が断たれるわけですが、同時に逆方向の可能性のヒントが与えられます。それは、人の側からは何もできないけれど、神様が突然「もう、義だから! 赦されてるから!」と罪を帳消しにしてしまうことです。
 イエスという人の本当に言いたかったのは、最後の「もう大丈夫だから!」ということなのではないでしょうか。本書では「神の支配の告知役としてのイエス」という言い方をしています。ただ、「神の支配が来ましたよ」と言っても、それを信用するかどうかは別問題です。この問題について、加藤氏があげられているたとえ話が大変絶妙です。

 (・・・)人間の間のごく人間的な愛の関係について考えてみていただきたい。
 相手は自分を「愛している」と言う。これは愛の現実についての情報である。自分は相手に愛されたいと願っているので、愛が確実に存在しない状況よりも、愛についての情報がある方がよい。
 そこで「愛している」という相手の言葉に信頼を置こうとする。これまでの説明での言い回しを援用するなら、これは「愛の支配についての情報が作り出す現実」が出現したことだと言えるだろう。しかし自分は、その愛の「証拠」が欲しい。さまざまな愛の行為と思われる姿を相手は見せるかもしれない。あるいは愛のあり方についての理解を少しでも自分の方でも深めようとする。それで自分は、相手の愛について完璧な確信が得られるであろうか。愛の証拠はどんなに山積みされても、いつまでたっても不十分である。相手を疑おうとすれば、いくらでも相手を疑うことができる。相手を信頼することもできるが、それは愛の証拠が確実であるからではない。(・・・)
 愛の証拠は「確証する」(assurer)ということはないが、「安心させてくれる」(rassurer)のである。

 このassurerとrassurerの間にある距離、永遠に埋めることができないのに埋めようとせずにはいられない距離、ここが神と愛の核心であり、ラカンに馴染んだ方なら色々なことを考えさせられる空間です。
 考えてみてください。
 「人の側からは何もできないけれど、帳消しはアリかもしれない」のだとしたら、よく考えてみればもう何をしてもムダであって、後は神様を待つだけになります。するとそれは、もはや宗教ではない、つまり、圧倒的に神を信じると「宗教的」なことは何もできなくなる、する必要がなくなるのではないか、と思いませんか。
 その通りです
 宗教というのは(そして愛というものは)、いつもこの「何をしてもムダ」の安心と不安の間で揺れ動いてきました。なす術もない、というのはある意味開きなおれて楽なのですが、一方で猛烈に不安になることがあります。羊なんて屠ってもどうしようもない、とわかっていても、犠牲を捧げないではいられないことがあります。
 神や愛について真面目に考えたことのある人なら、必ず一度はこの「めちゃくちゃ信じたら、もう宗教は要らない」を思考したことがあるはずです。そして青年であれば「いわゆる宗教など、宗教的権威のためのシステムであって、真の信仰ではない」と考えたこともあるでしょう。 しかし、儀式や律法は、ただ悪どい「宗教家」が搾取のための作り出したものではありません。イエスの奇跡と一緒で、「確証」はしてくれなくても「安心」させてくれるものが、人は欲しいのです。安心をバカにしてはいけません。安心は安全ではないし、赦しの保証でもありませんが、そういうイメージに人は頼って生きているのです。いっそ安心させあれば、安全なんてなくてもいいくらいです。
 だから「愛している」と何度でも言って欲しい。何度言われても愛が完全に確証されることはないのですし、本当に強い愛には誕生日プレゼントも愛の囁きも要らないのかもしれませんが、わたしたちは大抵そんなにタフではないし、タフでないから愛が欲しいのです。
 もちろん、高価なプレゼントなど、愛そのものの前では無に等しい、ということもわかってはいます。こうして、愛も信仰も永遠に決着がつかないわけです。

 本エントリは『一神教の誕生』の主に前半部を強引にパラフレイズしたもので、多分にバイアスもかかっていると思います。また、加藤氏の論に全面的にouiと言うものでもありません(日本語表現には多いに疑問)。残りは実際にあたってみて判断して下さい。

 わたしは現在、いかなる宗教団体にも所属していません。本当は諦めて普通に「宗教的」になってみたいのですが、小賢しく考えてしまうわたしこそ、ある意味「宗教アレルギー」なのかもしれません。
 でも、脳みその半分くらいは、ずっとずっと神様のことを考えています。

 なお、同じ加藤隆氏による『『新約聖書』の「たとえ」を解く』について、「聖書、たとえ話、パラボレー」というエントリを以前立てています。

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