『イスラーム主義とは何か』大塚和夫


『イスラーム主義とは何か (岩波新書 新赤版 (885))』 大塚和夫 『イスラーム主義とは何か』 大塚和夫

 すばらしい良書です。
 著者はまず、「イスラム原理主義」という用語が作動させているコノテーションを批判することから始めます。

「原理主義」という言葉は、多神教的な日本の宗教文化の肯定的評価を背景に、それと対立する否定的な意味合いをもった運動を指すものとして一般に流通しているのではないだろうか。つまり、寛容で神々の和を尊ぶ平和的な日本文化に対し、他者を承認しない偏狭で不寛容で戦闘的な一神教的「原理主義」、という対立を際立たせるという効果をともなっているのではないか。これは夜郎自大的な、自民族中心主義にも通じかねない発想である。

 その上で、「イスラーム主義」を以下のように定義します。

イスラーム主義者とは、早いところでは十九世紀公判から開始された西洋主導の「近代化」(多くの地域では「植民地化」という形をとった)の流れを十分に意識し、それからの影響を様々な形で被りながら、それでもあえてイスラームをみずからの「政治的」イデオロギーとして選択し、それに基づく改革運動を行おうとする人々をさす。

 つまり、イスラーム主義とは、近代世界システムとイスラームとの邂逅から生じたものであり、単に「イスラーム思想に基づく政治運動」という意味ではありません。そうした運動は、ほとんどイスラームの成立以降常に存在していました。本書が考察するのは、近代化および近代的思想のフレームを「知った」上で、なお選ばれる「イスラーム政治運動」の意味です。
 十八世紀のワッハーブ運動、十九世紀のマフディズム、そしてエジプトのムスリム同胞団、ジハード団の歴史が語られ、これらが「近代」との間にいかなる関係・距離を取ろうとしたのかが分析されます。フィールドワークから得られた具体的エピソードやイスラームの基礎解説も交えられ、大変読みやすくかつイメージの定着する見事な語りです。

 とりわけ印象的だった点を一つ挙げれば、二十世紀のイスラーム主義運動は、伝統的なイスラーム教育を受けたウラマーらによるものではなく、むしろ世俗的な高等教育を受け、「近代」の洗礼を受けた人々によって指導されていた、ということです。
 識字率が100%に近い国に住むわたしたちは、しばしば「読もうと思えば読める」ことの力を見落としがちですが、識字能力とこれに基づいて思考する力とは、いずれの文化でも何らかの思想的コンテキストと一体となって授けられるものです。日本で言えば「寺小屋」、イスラーム社会で言えばイスラーム法的教育です。しかし、イスラーム社会においては、近代化の波と共に、これらとは別のチャンネルで識字能力を獲得し、その上でイスラーム的テクスト群に向かうことができる人々が出現しました。つまり、「正統的」イスラーム教育を受けていないにも関わらず、自らクルアーンやハディースに当たり、解釈を導き出せる人たちです。
 当然、こうした「若者」たちは、伝統的ウラマーらの批判を買います。「イスラーム主義」は近代に対抗するものでありながら、その懐胎は近代それ自体によってもたらされたのであり、「伝統」がそのまま「アンチ近代」になっているわけではありません。
 イスラームは極めて聖俗一致的性質の強い思想ですが、西洋近代思想においては「政教分離」が謳われ、信仰は内面化・私生活化されます。そのような近代の申し子として生まれながら、聖俗一致的イスラームを敢えて選択する、という逆説がイスラーム主義にはあります。
 これを「文明の衝突」などというナイーヴな図式で切る愚には敢えて言及するまでもありませんが、だからといってイスラーム主義を「近代」の側に回収して考えることもできません。そしてイスラーム主義者における葛藤と屈折は、同じく「近代」を外圧として受け、その受容と反発、変形の中で育ってきた国のナショナル・アイデンティティを考える上でも、重要なヒントを与えてくれるのではないかと思います。

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