『イスラームの世界観』 「第三のアイデンティティ」の幻想と現実性


『イスラームの世界観』 イスラームの世界観―「移動文化」を考える (岩波現代文庫 社会 161)
片倉 もとこ
岩波書店 2008-02-15

 イスラームを、その始原における都市的・交易的性質から、「移動」という概念と結びつけて語る論は少なくありません。わたし自身ですら書いています。1
 ただ、自分で取り上げておいて何ですが、現代思想的な文脈での「移動」(微分・差延・・)語りにイージーにイスラームを引き合いに出す話には、いささか食傷しています。知れば知るほど「イスラーム的」なるものは模糊とし、わたしたちの馴染んだ意味での「思想」的文脈には安易に引き付けられない、と感じているからです。2
 本書を手に取ったのは、長年のフィールドワークから得られた具体的エピソードが中心に据えられ、「現代思想」的ではない匂いがしたからです。実際、片倉さんの語られる事例は表情に富み、読み物としてだけでも相当楽しめました。

 特に興味深かったのは、カナダ・バンクーバーに多く済むエジプト出身ムスリムたちにおける異文化対応と「トランスナショナリズム」。
 一口にカナダに移住したエジプト人と言っても、そのアイデンティティの形は様々です。筆者はこれらを、三つのタイプへと仮に分類します。①西洋・カナダ文化主義的「同化型」、②エジプト主義的「固有文化型」、そして③イスラーム普遍主義的な「トランスナショナル型」です。
 実はこの論がわたしを惹き付けたのは、ある別の問題系への連想が強く働いたから、というのが一つあるのですが、その問題についてはここで語るつもりはありません。多くの様々な問題系に応用のきくフレームですので、カナダのエジプト人に一例となって頂き、概説の後、わたしなりの展開を試みます。

 三つのグループの中で最も多いのが、「固有文化型」、つまりエジプトの固有文化を大切にし、可能であれば本国への帰国を望む人たちで、およそ45%を占めると言います。「エジプトに帰りたいくらいだからカナダ人とそりが合わないのではないか」というとそうではなく、違いを認めながら程よい距離で付き合っており、三つのグループの中でも最も生き生きとし、カナダ人との関係も開放的、とのことです。
 一方で、西洋文化への同化を希求する人々が約25%います。中には西洋風の名前に改名する者もいて、出身地を聞かれるのを嫌がる場合も多い一方、近づけば近づくほどカナダ人との違いを意識させられ、完全にはカナダ人になり切れません。また欧米系のカナダ人に差別されることもあり、アイデンティティ・クライシスに陥り、突然第三のタイプへと「転向」することも多いそうです。
 第三の「トランスナショナル型」とは、アラブやエジプトよりイスラームとしての普遍性を重視するタイプです。「同化型」同様、出身地を否定する一方、カナダ文化と一体化しようとするのでもなく、言わば「民族を越えた民族」としての共同体に帰属意識を持つ人々です。もちろん、イスラームはアラブ固有の文化と完全に切り離すことはできませんし、また生業を得ているカナダ社会と反目するものでもありません。ただ、そのいずれにもidentifyせず、地理的空間を越えた「ふるさと」に自らのルーツを見出そうとするのです。
 本書では、教育やアラビア語の問題、ハラール食や飲酒、ラマダーン、さらに葬儀や墓地といった具体的場面で、それぞれのグループがどのようにカナダ社会と折り合いを付けていっているのか、興味深い報告が語られています。三グループの中で最も「イスラーム的」なのは、勿論「トランスナショナル型」なわけですが、面白いのは、本国にいた時は飲酒をしていたけれど、むしろカナダにやって来てから厳密に戒律を守るようになった、というムスリムがいることです。「アラブ」から切断され、「カナダ人」にもなり切れず、結果として改めてイスラームが「発見」されたのでしょう。ちなみに、アラビア語というと単に「固有文化」のことだと思われるかもしれませんが、イスラームではクルアーンの翻訳も原則として禁じられるなど、アラビア語という言語自体が宗教文化的に特別な位置を占めています。

 こうして海の向こうの「移民」のお話として眺めていると、「当たり前じゃないか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。「アラブ人にもカナダ人にもなり切れない者が、第三のアイデンティティに落ち着くのは当然のことだ」と。
 しかし、まず一つ、三グループの中の最大多数は「固有文化」型で、しかも彼・彼女らが一番「カナダ人」とつつがなくやっている、ということがあります。
 そしてもう一つ、特別強調したいことがあります。「第三のアイデンティティ」とは、最初に掲げられるのではなく最後に発見される、しかも「一番最初にあったもの」として一番最後に発見される、ということです。

 エジプト人たちがカナダにやって来た理由も、人それぞれでしょう。望んで移住した人に限っても、純粋に経済的な動機の場合もあれば、アングロ・サクソン文化への憧憬を抱く人たちもいたはずです。前者であればエジプトに、後者であればカナダにidentifyするのは自然なことです。ですが、「第三のアイデンティティ」としてのトランスナショナリズムを最初から胸に抱き移住した人などは、一人もいないはずです。「第三のアイデンティティ」は結果的な現象としてのみ存在します
 正確には、「イスラーム普遍主義」的思想の持ち主が中に混ざっていたこともあるでしょう。しかし、トランスナショナルな動機がカナダ移住のきっかけになったとは考えにくいです。カナダに行くにはやはり何らかの事情でカナダを求めていたからであり、最初から「第三極」など想定していたら、国を離れずに政治的宗教活動にでも没入していることでしょう。
 この場合で言えば、「トランスナショナル型」として最終的に落ち着くことになった人々の主流は、単に「普通のカナダ人」になりたくてカナダにやって来たのです。移動性の高いアラブ人とはいえ、故国を離れて海の向こうに移り住んだのは、相応の覚悟と確信があったからでしょう。
 しかし、実際のカナダは思っていた場所ではなかった。少なくとも、カナダ人は自分たちを十分にカナダ人として認めてはくれなかった。
 海を越えた「同化型」エジプト人は、もしかするとカナダ人以上にカナダを愛し、カナダ人以上にカナダ人だったかもしれません。しかしだからこそ、普通のカナダ人にはなりきれなかったのです。後述するように、むしろ普通のカナダ人とはカナダ人であることにアイデンティティなど抱いていないのです。
 こうした曲折を経た結果として、最後に発見されたのが「トランスナショナルなもの」です。

 「第三のアイデンティティ」の類は、思想として語るのは容易いです。しかし、それが単に言葉で語られているうちはただの青臭いお題目であって、学生の叫ぶ「労働者団結」と同じくらい空々しいです。「第三のアイデンティティ」は結果であって、始まりではないからです。最初に「第三」を立てる思想は、文字通りただ思っているだけのもので、行動に移るとあっけないほど脆く崩れ去るものです。
 さらに言ってしまえば、「第三のアイデンティティ」に至る前に「第一」「第二」のアイデンティティがあったのかというと、大変怪しいです。この場合で言えば、カナダへの同化を強く望んでいた人々については、多少なりとも「アイデンティティ」はあったかもしれません。ですが、「固有文化型」が「アラブ民族にアイデンティティを抱いている」と言ってしまうと、少し嘘になるはずです。カナダに移住してから「やっぱり俺はアラブ人なんだ」と感じることは多くなったかもしれませんが、普通のアラブ人は自分の「アラブ人性」をそこまでリアルに感じていないはずです。彼らは、端的にアラブ人だったのであり、別段「アラブ性を自らのアイデンティティとし」ていたわけではありません。
 普通の人には、アイデンティティなどないのです
 人間には常に一人一個のアイデンティティがあり、場合によってそれが変化する、というのではありません。
 変化する時だけ、変化せざるを得ない「アイデンティティ・クライシス」に直面した時に初めて発見されるのが「アイデンティティ」なのです。
 何の問題もなくつつがなく前へ進めている時、人は自らの根拠など問いません。何かうまくいかない時、漠然と胸に抱いていたことが現実的壁にぶつかってしまった時、人間は後ろを振り向きます。「どうしてこんなことになってしまったのか」。
 ただ、そこで振り向いたまま止まってしまっては、いつまで経っても先へは進めません。もう一度前を向くために、過去の中から発見されるもの、常に既に再-発見されるもの、その時初めて創造されたのだとしても「発見」という形で遡及的に見出されなければならないもの、それが「ルーツ」であり、「アイデンティティ」です。その「作られた過去」をバネにして、人間はもう一度前を向いて進みだすのです。

 「第三のアイデンティティ」が先頭に掲げられるのは、学生のママゴト遊びにすぎません。
 限界の危機の中でやむなく見出されるもの、しかしやはりそれなしではいられないもの、それが「第三のアイデンティティ」です。
 そして「発見」されてしまった時には、もう疑いようもなく彼・彼女らは「イスラーム人」です。アラブを捨て、カナダを愛し、しかしカナダ人でもなかった、それがトランスナショナルなものです。
 カナダ人以上にカナダ人であったが故に、カナダ人から「お前はアラブ人だ」と言われてしまった者、アラブを捨てるあまり、図らずもアラブ人以上にアラブ人であったもの、それがトランス的なるものです。

 再び跨ぐことのできない国境を越えるとは、そういうことです。
 そこから先は、真の越境者にしか見出し得ないものであり、知る必要もないことです。

  1.  以下参照。
    「都市生活者は唯一神と移動する」
    「イスラーム」は砂の思想なのか」
    「webは「砂の文明」である」 []
  2.  以下参照。
    「『書物の運命』、駱駝と針の眼」 []

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