神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない


 「バカわかる転移&愛 まとめ」1で「頭のいい人は、難しいことも簡単に書けるはず」問題から「わかる/わからない」へと流れていったエントリ群を列挙してみましたが、特に後半に挙げたいくつかのエントリが面白いのは、「説明対象」と「説明方法(説明自体)」に対し、第三項の果たす役割が意識されているからです。
 「説明対象」と「説明方法(説明自体)」の二者のみの語らいでも、純粋な自然科学的アプローチ、あるいは社会の約束事のような水準での議論なら十分有効でしょうが、この二項のみを独立したものとして最初に立ててしまうと、その時点で箱庭を設定してしまうことになります(逆に自然科学的思考では箱庭の設定が必要になる)。


 説明対象と説明方法の独立性という見方には、representation(表象・代理)と同様の伝統的な矛盾があります。
 例えば、わたしたちは対象そのものを認識するのではなく、対象の表象を得るとします。表象は対象の「写し」なわけですが、対象が直接認識できないなら、そもそも表象がいかなる形で対象を代理しているのか示すことはできません。認識できないものと認識できるものの関係は、語ることができないからです。
 しかし実際には、わたしたちは対象を完全に正確に把握していなくても、表象を通じてコミュニケーションを取ることができます。アングロ・サクソン系の哲学者は「一定の範囲のズレであれば通約可能で・・」などといった定量的議論を始めるのですが、著しくことの本質を捉え損ねています(純粋に知覚のレベルを自然科学的に議論するなら、定量的視点はもちろん有効)。
 逆に開き直って(?)「表象しかないのだ!」系のポストモダンくさい方向に走ってしまう答えもありますが、認識できないものなら、「ない」こと証明できません。
 要するに「あるかないか」ではないのです。多分ないのではないかとは思うのですが、認識できない以上「ない」ことも証明できない。そして重要なことに、「ある」という前提でしか話をできない。「ないだろうなぁ」と思いつつ、その「無さ」について思考できる限りにおいて(「無い」がある)しか、横にいる人たちと通じ合うことができない。つまり、フィクショナルな次元が現実の必須の構成要素となっている、ということがポイントなわけです。
 ただし、「フィクションと現実は合わせて一つ」というだけでは片手落ちです(そうした言い方をわたしもしばしばしていますが)。両者は、staticな共時的構造の中で相補関係にあるわけではないからです。
 もう一つ留保しておけば、「『ある』という前提でしか話をできない」とは、「ある」ことを皆が確信している、という意味ではありません。むしろ、確信などしてしまっていてはマズイのです。突き詰めたら多分ないんじゃないか、と疑いを差し挟みつつ、「ある」という前提を保つ、「ある」ことを前提とした振る舞いを十分に習得している、それが普通の人間です。
 信仰者と狂信者、あるいは神経症者と精神病者の関係だと思えばわかりやすいはずです。市井の善男善女、世俗的で十分に信心深くはない信仰者、つまり「普通の人」の姿勢です。

 説明対象と説明方法の場合、対象が「認識」できるか否かは説明者によって異なることが明白なので、表象問題とイコールではありません。しかし、この点によって、むしろ伝統的な問題の立て方より、表象問題的矛盾のカラクリが見え易くなっています。
 説明問題、「わかる/わからない」問題が入り口として使い易いのは、「説明対象は、説明者によって見えたり見えなかったりする」ことが明白だからです。< わたし>と対象の他に、「わたしにはわからないことがわかる人」という第三項があります。
 説明対象は、「もの自体」のように< わたし>からは見えません。ですから、説明者が本当に「知って」いるのかどうかは< わたし>には確かめようがありません。重要なのは、「知っていると想定される」ということです。つまり転移です。

 転移については草さんのエントリ「『わかる』ことと作者の転生」を参照して頂きたいですが、「対象・説明者・わたし」の三組みから逆に表象問題の方を振り返ると、面白いことがわかります。
 一見、対象と表象の絶対矛盾から逃れられないように見える表象問題ですが、実は対象(もの自体・・・)が見える人が一人だけいます。神様です。表象問題は、世界そのものの認識を巡る壮大な「転移」ストーリーだと考えると、ぐっと身近に思えてきます。神様に恋していなくては、テーブルの上のコーヒーカップにだって自信が持てないのです。
 こう考えると、16-18世紀の哲学者たちが神の存在証明などにやっきになっていたことが理解しやすいのではないでしょうか。少なくともわたしは、最初に西洋哲学に触れた頃、どうして哲学者たちが神に一所懸命になるのか、よくわかりませんでした。精神分析的な見方を手にした時、初めて彼らの愛が身近に感じられました。

 神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらないのです。
 これはあくまで恋ですから、どこか「所詮色恋沙汰」という割り切りも頭にはあります。割り切りながら、ちゃんと巻き込まれている。それが普通の「信仰者」の態度ですし、何も信じていないつもりの人こそ、通奏低音のように神様に恋しているのです。

 目覚めても、まだ隣に貴方がいますように。わたしの欠片が、わたしであるために。

  1. このエントリの口調が非常に乱暴で、紹介させていただいたブログ運営者の方には失礼なことをしてしまいました。言い訳ですが、寝ないと凶暴さんがインフレしていきます。 []

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. Ohno blog より:

    分裂病というメタファー…

    一連の「わかる/わからない」議論に関してのishさんのエントリ「神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない」の最後は、こう締めくくられている。
    ~~~~~~~ (more…)