『書物の運命』、駱駝と針の眼


書物の運命 書物の運命
池内 恵文藝春秋 2006-04
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 書評を中心とした池内恵氏の短文集。やや古びてしまった時事的テクストもあり、イラク戦争についての楽観的な見通しが残念ながら大外れになってしまったのですが、アラブ・イスラーム関係に興味のある人間にとっては、純粋なブックガイドとしてだけでもかなり使えます。既に読んだ本についての、池内氏のコメント(大抵辛口)が拝めるのもポイント。
 取り上げられている書籍はアラブ関係が多いですが、半分以上は直接関係のないもの。橋本治『上司は思いつきでものを言う』村上龍の『半島を出よ』なども登場します。
 ここでメモしておきたいのは、書評ではない『アムル将軍と「針の目」の文献学』というテクストについてです。ロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏』のある一場面を巡る文献学的な「探検」で、何かと皮肉っぽい池内氏の純粋にブックフェチな面がうっかり垣間見られ、微笑ましいです。
 ですが、個人的に大きく頷いてしまったのは、その文献学的な主題ですらなく、「針の眼」を巡るキリスト教文化圏とイスラームの相違、そしてイスラームの「身も蓋もなさ」です。

 氏は、ここで主題になっているアムル将軍と針の眼のエピソードに、「何か引っ掛かりを感じる」と言います。「面白すぎる」と言うのです。

そもそも、イスラーム史について、あるいはイスラーム教思想についてでもいいが、欧米の読者に「イスラーム文明の深さ」「偉大さ」「ありがたさ」を感じさせてくれる印象的なエピソードほど、もともとの文脈ではあまり重要ではないことが多い。重要でないどころか、そもそも出典が存在しないか、かなり瑣末な断片を、原意や文脈を捻じ曲げて無理矢理に西洋的な観点で通用するように解釈して引用してきていることさえある。ましてや、日本人にも共感できるような話が出てくる場合は、眉唾なことが多い。逆に、イスラーム教徒の大多数が心の底から「ありがたい」と感じて語り伝えている説話は、異教徒にとってはどうにも感情移入しにくいものであったりする。

 わたしのイスラームについての教養は依然お話にならないくらい乏しいものですが、その経験の中でも、この「身も蓋もなさ」をしばしば感じています。逆に身も蓋もなさすぎて、いかようにも都合よく解釈されているきらいすらあります。イグアナをペットで飼っていると、表情がないので都合よく解釈できてイイ、という話を聞いたことがありますが、そんな感じです。

 「針の眼と駱駝」と言えば、大抵の人が「富んでいる者が神の国に入るよりも、駱駝が針の眼を通るほうがずっとたやすい」という福音書のフレーズを連想すると思いますが、クルアーンにも「針の眼」は登場します。

おい、よく聞け。我らの神兆を嘘よばわりして、傲慢な態度をとった人々、そのような者どもには天の扉は絶対に開かれぬ、天国には絶対入ることはできぬ。駱駝が針の眼を通らぬかぎりはな。(7 40)

 「針の眼」の譬えが一般的なものであったのか、クルアーンに新約聖書の影響があるのか、その辺りのことは脇に避けておきます。
 面白いのは、キリスト教とイスラームでまるで逆のお話になっていることです。逆というより、イスラームには捻れや「深い」ヒネリが全然ないのです。

 キリスト教の文脈では、「いかに天国に入ることが難しいか」をイエスに付き添ってくる信者に説いているのである。イエスに帰依しているにもかかわらず、なおかつ無理難題を言われ、そう簡単には天国に入れないと突き放される。弟子たちが驚いて「それでは、いったい誰が救われるのですか」(『マルコ福音書』一〇・二六)と叫んでしまうのも無理はない。
 ところが、イスラーム教では同じ譬えが転倒して用いられる。「我らの神兆」すなわち『コーラン』を拒絶しイスラーム教徒に歯向かう異教徒は天国に行けない。そのことは駱駝が針の眼を通れないのと同じくらい当然だ、という。それに対してイスラーム教徒は確実に天国にいける、と保証するのである。(・・・)論理的にはこちらの方が「すっきりしている」。キリスト教の論理に慣れている人には「すっきりし過ぎている」と感じられるかもしれない。キリスト教徒が頭を悩ませ議論を戦わせてきたのは一体なんだったのか、という気にもなる。異教徒にとって「とりつく島もない」と思わせるぐらい信者にとって理にかなっているのがイスラーム教である。

 そう、この「とりつく島もなさ」です。
 もうとっくに結論は出ているのだから、議論することはなにもない。信じ、戒律に従い正しく生きなさい。以上。
 この身も蓋もなさに、イスラームの周りを歩いていると、本当にしばしば出会います。イスラームを「第三局」的に持ち上げたり、日本的宗教観と強引に接続しようとしているテクストもありますが、それらが場合により180度逆の方向を向いていることからもわかる通り、ほとんどの主張には大した根拠もなく、イグアナが笑ったとか泣いたとか勝手に言っているだけに思えます。
 そういう意味で、イスラームは清く正しく「宗教」なのです。ムスリムが「完全な宗教」と言うのにも、ある意味頷けます。「修行するぞー修行するぞー」の尊師のテープと同じくらい、絶壁に宗教なのです。
 キリスト教的な宙吊り感というのは、文脈によっては日本人にも馴染み易いものです。断じる部分もありながら、どこか決定不可能な部分が残る。それが「深遠さ」につながる。そうした精神性は、多くの日本人にとってよく「わかる」ものでしょうし、わたしにとってもそうです。
 それが、イスラームではびっくりするくらい決定されてしまっている。一周回って、そこが個人的には最も魅力的なところです。
 こんなに断言しているものを、どうしてそこまで愛せるのか。断言しているようだけれど、本当は何か宙吊りなんじゃないか。まだわたしには見えていないだけじゃないのか。
 そんな憶測も多分買い被りで、少なくともわたしたちが期待するような「決定不可能性」は、本当にないのです。
 実を言えば、イスラームに限らず、世界にはそんな「深遠さ」はどこにもありません。ないのですが、ないものをないと言ってしまうと悲しくって生きるのが辛すぎるので、何かまだあるんじゃないか、ここにはないけれど、どこかにはあるんじゃないか、そういう気持ちでいたいのです。
 ですから、それを「ない」と切ってしまう、議論を打ち切ってただ言葉なき実践と生活の方に行ってしまう、そこに動物的な強さがあり、哲学に回収されない「宗教」があります。

 そういう「宗教」性に惹かれ、少しでも思考を停止しただ実践しようとするのは、わたしこそ人一倍「哲学」寄りで、メタ的に物事を斜から眺める育ち方をしてしまったヒトだからでしょう。そういう自分がつくづく下らないと思いますし、ものごと深く考えることほど、人生を無駄に使うものはありません。そういうものが何か特別な意味を持つかのように喧伝されているのは、教育産業や思想産業の人たちにも生活があるからです。

 イグアナはイグアナです。泣きも笑いもしません。
 では、イグアナとは何なのか。そう問いたくなるのをグッとこらえて、生き、祈ります。必要なのは、何事もなさず静かに死を待つ方法です。
 イグアナだって、多分ただ祈っているだけです。

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