差別、仲良し、喧嘩上等


 arkanalの日記:懸念すべき心性について、一般論で異論を呈しておきます

「自分と違う人達」に対して、何となく身構えてしまうのは、人間の本性であり、もっと言えば動物の本能のようなものだと思います。「自分と違う」→「今までの経験則が通じない」→「何をするのか予測できない」→「不安・警戒心」ということで、「情報が足りないもの」については、油断ないように身構えるのはある種自然な行動だと言えます。
(・・・)
同じ人間をして、「こっち」と「あっち」に分けてしまうことは、後々大きな悲劇を生みます。(・・・)人々の間にポンと一本線をひくだけで、独特の「場」が生まれます。
(・・・)
で、どうなるかというと、差別が始まってしまう。また、差別される側も、何か気に食わないことをされると「これってもしかして差別?」と疑心暗鬼にもなります

 このエントリの主旨について議論したいわけではなく、かつ、この文章にarkanalさんが意図されているであろう働きをしてもらうためには、こうした平易な語り口の方が効果的だとは思うのですが、「自分と違う」「自集団と違う」から「線が引かれる」というのは、端的に順序が違います1
 最初に、一本の線が引かれます。< わたし>が世界を識る、ということは、わたしと世界の間に線を引く、ということです。
 正確に言えば、線を引いたのは< わたし>ではありません2。わたしたちが「気が付いたら」この世に生まれていたように、むしろ線が< わたし>を焙り出すのです。< わたし>が線を引いて「ここから先は他所だ」というのではなく、寝ているところを担ぎ上げられて、いきなり柵の外に放り出されたのが< わたし>です。
 ですから、正確にはこの線は単なる「わたしと他人の間の線」ではないのですが、ここでは敢えて不正確に素朴に考えておきます。
 さて、夜も開けやらぬうちに柵の外に掘り出された< わたし>にとって、周囲は未知と危険で満たされています。とりあえず丸くなって夜明けを待ちますが、物音一つでも不安です。とても太い「線」が引かれています。
 「こっち」と違うから「差別する」のではありません。むしろ、arkanalさんが指摘されている「不安」が最初にあるのです。
 ですから、「差別しない」という考え方より、まず線が至るところにあるのだけれど、この線とどう付き合っていくか、とアプローチしなければなりません。
 こんなことは自明事で、arkanalさんも、

クッキリと「線」があるように見えていても、「線がある」とは口が裂けても言ってはいけない。そんなものないように振る舞うこと。

 と仰っているのですが、こういう理性的なアプローチというのは、はっきり言って大抵うまくいきません。

 こういう時、わたしが常に参照するのが『星の王子さま』です。
 王子さまは、砂漠で出会ったキツネと友だちになろうとするのですが、簡単にいきません。どうすれば仲良くできるのでしょうか。
 キツネが教えてくれます。
 四時なら四時と、決まった時間に毎日来ること。昨日は四時で今日は二時、などというのはダメです。びっくりしてしまいますから。
 はじめは距離をおいて座って、横目でチラチラ見るくらいにすること。急に近づいたりジロジロ見てはいけません。
 そうやって毎日遊びに来るうちに、キツネは三時くらいになると、もう王子さまが来るんじゃないかと、ドキドキして楽しみにするようになります。こうして、段々仲良しになるのです。
 線はあります。消えません。線があることが、< わたし>なのです。
 でも線のことばかり考えていると、心がギスギスしてとても辛いです。他人も傷つけ、自分も傷つきます。
 だから、線に慣れるしかありません。キツネと仲良しになるように、急に近づいたりせず、毎日同じ時間にやって来て、関係ないことを一緒の場所でやってみたりするのです。友だちはコンビニで売っていません。
 「線があるのに線がないかのように振舞う」のではなく、単に線のことをうっかり忘れるのです。
 「ないかのように振舞う」態度は、一見立派に見えますが、見ようによっては何とも高飛車で不愉快です。少なくとも、わたしが似たようなことを「された」時には、実に鬱陶しかったです。もちろん、喧嘩を売るつもりで「ないかのように振舞う」のなら上等ですし、結論から先に言えば喧嘩売る以外の何もできないのだから売ったらよいのですが、少なからぬ人々にとって意図した「善意」と異なる結果がもたらされるのは悲しいことでしょう。

 サン=テグジュペリは、この「仲良くなる」を表すのにapprivoiserという言葉を使っています。apprivoiserは「(動物等を)飼い慣らす」という意味で、普通人間同士には使いません。この場合はキツネだから確かに動物なのですが、『星の王子さま』のキツネは言葉も喋る大変賢いキツネですから、apprivoiserはちょっと不自然です。
 それでもapprivoiserを選んだのには、「線」に対処するには、理性をアテにせず、時間を惜しまず、動物を飼い慣らすように馴染むしかない、というサン=テグジュペリの直観が表れているように思います。
 わたしは自分に理性というものが微塵もないせいか、他人の理性というものもまったく信頼していません。常に獣と獣のお付き合いだと思っています。
 はじめイケ好かないと思ったヤツが毎日一緒に働いているうちに「意外とイイヤツ」と思えてきたり、ブサイクだけれど何だかいい匂いがするから仲良くなてしまったり、最初イヤな匂いだと思ったものが一緒に暮らしているうちに段々好きになって離れられなくなったり、そんなものではないでしょうか。
 理屈を言っている人に「要するに君は理屈が捏ねたいのね」と言ったら必ず怒られますし、実際彼は3「捏ねたい」と意識しているわけではありません。多分、彼が捏ねたいのではなく、神様が彼に捏ねさせたいのでしょう。彼は神の計らいとも知らず、せっせと捏ねたり揉んだりしているのです。兎が草を食むように、言語ウィルスに踊らされているのです。でも、そういう「毛モノ」なんだから仕方ないです。毛があってフカフカだから、時間をかければやがて懐いてくるでしょう。
 そういう目で人間たちを眺めないと、「線」問題はどうにもなりません。

 話がズレますが、そもそも、「差別」という言葉が実に醜い。差別することが醜いのではなく、「差別はよくない」「差別するな」でも、耳にするだけで虫唾が走ります。というか、「差別」という言葉が登場するのは、普通は「差別はダメよ」という文脈であって、「レッツ差別」ではありません。ですから、鬱陶しい場合の「差別」は、ほぼ「差別するな」という場面で出会った「差別」ということです。
 もしも「差別」というなら、それは「する」しかないし、もうしてしまっているし、そっちの道は一方通行で、どんどん前へ進むしかないのです。それを「差別するな」などと甘言を抜かすのは、要するに自分が「される」状況を想定しないで安全圏からものを言っているだけの話で、自らの理性と良識を愛でて、大声で自慰行為をしているようにしか見えません。
 そういうヤカマシイ音が鳴らしながらやってくるチンドン屋のようなヤツと、わたしなら絶対に仲良しになんてなれません。この辺りは、「寛容と理解を踏みにじれ」「寛容さと共存の何が問題なのか」などでも散々罵倒したので、もうやめておきましょう。

 実は、「線」には大変効率的な面もあります。
 物陰で何かが動いて、敵か味方か野良猫か判断してから撃つのだとしたら、どうしてもタイムラグが生じます。
 一方、判断しないで引き金を引くなら、一瞬です。もし敵だとしたら、その一瞬が命を救うかもしれません。つまり、十把一絡げに「黒人、悪いヤツ」「女、バカ」としておけば、迷わずに一網打尽にできます。「動いたら、とにかく撃て」です。
 もちろん、仲良しを撃ってしまったらションボリするでしょうが、命のやり取りなら仕方ないかもしれません。また、一瞬で撃っても尚向こうが速いかもしれません。ただ、この場合はどのみち撃たれてしまうのだから、やっぱり躊躇無く引き金を引く方が強いです。
 そして、これが重要なことですが、幸いにも撃ったのが敵で、見事窮地を切り抜けたとしても、大局的にはかえって「命取り」になるかもしれません。銃声を聞きつけて敵の大軍がやってきて、木っ端微塵にされてしまうかもしれません。普通の人間社会では、この最後の問題こそが核心です。長い目で見れば、例え敵だったとしても、撃たない方が賢い場合が沢山あるのです。
 ただし、「長い目で見る」のにも判断が必要ですから、ここでもう一度フリダシに戻ってしまいます。「長い目で見」ているうちに、弾が飛んできてやられてしまったらそれで終わりです。
 要するに、喧嘩で勝つだけなら「短い目で見る」ことです。「線」で十把一絡げにしてしまうことです。
 一方で、引き金を引かせない何かがあるとしたら、「長い目で見る」ことですが、「長い目で見」ていられないような状況だからこそ引き金を引きたいわけであって、言うほど簡単なことではありません。不安な状況が少しも改善しないまま「安心しろ」「大丈夫」と言うようなものです。
 「大丈夫」というのは嘘です。ですから、理性では引き金は止められません。引いた方が得です。
 でも時々、ちっとも大丈夫ではないのに「大丈夫」な気持ちになって、うっかり「長い目で見」てしまうことがあります。長い目で見ているうちに、本当にうまくいったりします。嘘から出た誠です。
 この時、人を「大丈夫」な気持ちにさせるたのは、一体何だったのでしょうか。

 一つ寄り道をします。
 わたしは局所的な喧嘩で勝つことに特別な重きを置いていて、家族も友達もいませんし、作るつもりもありません。それでも、長いこと一緒にくっついていたりすると、ついapprivoiserしたりされたりして、ホンワカした気分になってしまいます。獣ですから。
 でもそのままホンワカしていては、弱い獣です。喧嘩に勝てません。
 ですから、勝つために、意識して「線」を太くしていることが沢山あります。デブだからバカ。フェミニスト殺せ。大変速いです。
 「線があるのに線がないかのように振舞う」のと違い、考えずにパンチを出す習性は、練習すれば誰でもそれなりに身に付いていきます。元々ある線に対して、即座に反応する訓練なので、頭を使わないのです。「いかに頭を使わないか」の練習といってもよいでしょう。多分、アメリカの軍隊などには、こうやって調教された人間が沢山いるのではないかと思います。
 ゆっくり近づけば、きっと仲良くなれます。でも、訓練で作った狂った獣は、多分近づくこともできません。近づく前に噛まれて死ぬでしょう。
 ですから、「差別はよくない」派の人たちは、まず救いようのない狂った獣を殺して、それから残った人間たちでゆっくり仲良くなったらよろしいかと思います。そうすると、「救いよう」があるかないかまず「線」を引かなければならず、心苦しいこともあるかと思いますが。

 もう少しだけ続きがあります。うっかり「大丈夫」と間違えてしまう、という可能性です。
 「長い目で見る」というのは、世界への信を置く、ということです。何の保証もないのに、世界を信じてみる、ということです。
 目を閉じ、もう一度開いても、まだ世界がある。わたしがいる。「長い目で見る」の根底には、そういう基調低音のような信頼があるはずです。
 狂った獣としては大変残念なことですが、確かにうっかり安心してしまう、ということが獣にはあります。
 人間たちは、「うっかり」を介入させる安心装置として、共同体や規範的なものを想定することがしばしばです。実際、彼・彼女たちは、そういうものを信じて安心するのかもしれませんし、安心するために「中間者」に出資し強化しているのかもしれません。それはそれで良いでしょう。
 しかし、「中間的なもの」を信じない獣もいます4。人間のフリをして善良ぶっている人たちの中にも、こっそり紛れ込んでいることがあります。そんな獣でも、やはりうっかりすることはある。
 瞬きしても世界が終わらないのは、神様がわたしの代わりに見ていて下さるからです。このことに根拠はありません。人間たちが「大丈夫」と言っても絶対油断してはいけませんが、人間がすべて滅んでも、神様が世界を見ていて下さることにだけは、確信が持てます。
 世俗社会の人間たちの多くがそういう考え方をしないのはよく知っていますし、尚のこと滅ぼさなければならないと感じますが、わたしが「うっかり」引き金を引きそびれたり、「うかつにも」匂いに馴染んでしまったりしたら、それはすべて神の計らいです。「撃たない方が得かもしれない」などという、理性的な損得勘定は一切ありません。撃たない方が得でも、わたしは必ず引き金を引きます。考えるのはその後です。

 以前、ある人にこう尋ねられました。
「神を信じているんですか?」
 わたしの答えはこうです。
「神様以外、何も信じていません」。

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「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」
「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」

  1.  例によって他人の文章の些事をネタに自分の言いたいことだけを言っています。わたしは説得や啓蒙にはまったく興味がないし、百害あって一理なしだと考えているので、テクストは常に限られた人々のみが理解すべき、あるいは誰にも(本人にも)理解されるべきではない、と考えています。何でも能力の限界で作り上げたようなものは、一晩経つと解読不可能になっていたりするものです。それでも、その瞬間だけは地平を見渡すような知がありましたし、神様だけはずっと読んでくれていますから、覚えておくべきことは神様にお任せしています。プログラムでこれをやる人とは、極力一緒に仕事したくないですが(笑)。 []
  2.  ですから、実はそもそもの始まりから、ことは「わたし」と他人の問題ではないのです。「自集団」というものがあったとしても、それが「自」であるかどうかを決めたのは「わたし」ではありません。誰かが線を引き、わたしは目覚め、少しずつ世界に馴染みます。 []
  3.  そう、大抵そういうのは「彼」だ! []
  4.  サイボーグ・ファシストとは、「頭のおかしい動物」のことです。 []

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