伊勢崎賢治『武装解除』、和解という暴力


『武装解除  -紛争屋が見た世界』 伊勢崎賢治『武装解除 -紛争屋が見た世界』 伊勢崎賢治

主婦「テロ世界戦を終結するために決定的な方法をミスター・ブッシュに提案したいと思います」
キャスター男「ほう。その方法とは?」
主婦「それは、オサマ・ビン・ラディン氏をアメリカ合衆国の副大統領に任命することです」
キャスター男「・・・」
キャスター女「(あわてて切り出す)どうしてその方法が良いと思うのですか?」
主婦「なぜなら、この方法は内戦を止めるためにシエラレオネで実施されたことで、大虐殺の首謀者で、何千人もの私たちの子供の手足を切った反政府ゲリラのボス、フォディ・サンコゥを副大統領に祭り上げたのは他でもないアメリカなのです。そのお陰で私の国では今、武装解除が始まろうとしているのです」
キャスター男「・・・あっありがとうございました。次のかたに行きましょう・・・」

 9・11を国連シエラレオネ派遣団の一員として迎えた著者が、BBCで聞いたというリスナー参加コーナーの一場面です。
 『ブラッド・ダイヤモンド』のお陰でいくらか有名になりましたが、シエラレオネ内戦で行われた非道は言語を絶します。経緯についてはWikipedia:シエラレオネ内戦等を参照して頂きたいですが、例えばこの動画。


 五万とも五十万とも言われる人々の手足を切り落としたサンコゥに対し、米国主導で行われた「和解」が示したのは、無罪放免と副大統領への就任、「ブラッド・ダイヤモンド」の公式支配という厚遇でした。上の引用は、これに対する一シエラレオネ市民の精一杯の皮肉です。

 著者はまた、「妹の手足を切断された高校教師である自分の元に、その犯人である少年兵が生徒としてやってきた。あなたならどうするか」という問いを、学生に投げた時のことを語っています。

「復讐する」という答えはまず返ってこない。(・・・)「暴力では何も解決できない」とか、「復讐の連鎖になるから」とか、まず「許す」方向で考える。

 「自分なら絶対許せない」と前置きしてみても、学生たちは大変「平和的」のようです。
 上の思考実験的状況はシエラレオネの日常としてあり、確かにそこで人々は「和解」しています。

 生き残った人々は、和解に人間的な価値を見出して、和解するのではない。和解を善行として、和解を受け入れるのではない。「復讐の連鎖」を心配するのでもなく、”絶望”から和解するのだ。

 復讐しても捕まるのは自分であり、捕まえる警察は相変わらず腐敗していて、国が貧困から抜け出せる希望もない。その絶望が、加害者たちとの「共存」を余儀なくさせているのです。

 それでも、せめて首謀者だけは裁いて欲しい、というのが、絶望の中にあっても日常生活を生きる、民衆の唯一の願いだろう。(・・・)
 国連がシエラレオネ政府と開設した戦争犯罪を扱う唯一のシステムである特別法廷のキャパは、これが長期間開廷されたとしても、裁けるのは十人以下という見通しがあった。それだけ、戦争犯罪を裁くのは時間と労力がかかるのだ。しかし、僕たちが首謀者(・・・)たちを調査したところ、RUFだけでも四百人以上の名前が挙がった。つまり現状のシステムでは、大部分のコマンダーが許される、いや、こちらに裁くキャパがないので許さざるを得ないのだ。(・・・)
 そこで「和解」の大合唱となる。「和解」には、寛容というフレーバーがいつも漂っているので、それ自体が崇高な道徳的価値にまで昇華しブームになる。それに輪をかけているのが国際援助で、「和解」という看板を立てれば、それが道徳的価値を背負っているお陰で、人道的な一つの援助事業として金を集めやすくなる。そして、NGOでも手軽にできそうなことであるから、そういった資金はNGO業界にも流れ、援助事業として一分野が出来上がる。

 そしてこれからも、「和解」は安い「解決策」であり続けるでしょう。
 シエラレオネの現実がいかに悲惨であったとしても、わたしたちにとっては所詮「他人事」です。他人事であれば、つつがなく「和解」してくれるのが一番安心です。
 太平洋の「対岸」の他人様にも、是非適当なところで「和解」して頂きたいものです。

 この本を読んだのは実は一年以上前なのですが、何気なく目にしたヒストリー・チャンネルの『ブラッド・ダイアモンドの真実』というドキュメンタリで思い出し、エントリを立てました。このドキュメンタリを見るのも二回目なのですが、できれば多くの人に知って頂きたい作品です。








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