サッカーを見るたび知らぬ間に神の名を叫ぶ


 カフェバグダッド「アラブの音を聴け」にお邪魔し、ミーハーにも師岡カリーマ・エルサムニー先生のサインを頂戴してきてしまいました。
師岡カリーマ・エルサムニー先生のサイン
 ウード奏者の常味裕司さんと、声楽を学ばれたカリーマ先生のトークセッション。
 初めて聞く「生ウード」も楽しみでしたが、正直、最大のお目当てはNHKラジオ・ジャパンのアラビア語アナウンサーでNHKテレビ「アラビア語会話」講師として知られるカリーマ先生。と書きつつ、何せ「アラビア語会話」は半年単位でリピートしまくっていますから、きっとご本人にとっては過去の話で、「アラビア語会話のカリーマさん」と紹介されるのにも飽き飽きしているのだろうなぁ、とちょっと胸が痛みます。
 アラビア語会話は全回チェックしているのですが、「動くカリーマ先生」を見るのは、今回の「生カリーマさん」が初めて。というのも、我が家には録画予約する機器が一つもなく、全部録音で音だけ聞いているからです。後半の「文化コーナー」ではめくるめく風景が紹介されているらしいのですが、一度も映像を見たことがありません(笑)。音を聞きながらググッって「鳩の塔ってこんな感じか!」と想像している、ハイテクなんだかローテクなんだかわからない楽しみ方をしています。
 「アラビア語会話」をご覧になった方は御存知でしょうが、カリーマ先生は取り澄ました知識人という方ではなく、紛れもなく「生まれながらのエンターテナー」アラブの血が踊っている「オモロイ」先生で、おまけに超美人。口八丁手八丁で浅く広い知識を合わせ一本にする技術ではそうそう人に負けない自信がありますが、カリーマ先生は「本物」ですから、ちゃんと深いです(笑)。
 今回のトークでも冴えまくっていたのですが、一番面白かったのが「サッカーを見るたび知らぬ間に神の名を叫ぶ」とでも呼びたい話題。
 歌舞伎でも屋号を叫ぶ習慣がありますが、アラブ音楽でも感極まった時には聴衆が「合いの手」を入れるそうです。そうした中、最も一般的なのが「アッラーフ」、つまり神の名である、とのこと。
 そしてかつてイスラーム支配下にあったイベリア半島で、この言葉がなまって定着したのが「オーレ!」の掛け声。つまり、サッカーの応援をされている方は、知らぬ間に神の名を叫んでいるわけです。
 このエピソードは、単なる居酒屋トークネタとしても面白いのですが、信仰と「問い」について考える契機にもなります。

 答えのないところに問いを立ててしまったのが神経症者であり、そして神経症者とはつまるところ「普通の人」のことだとすれば、「知らない」間に神の名を叫ぶことは、最も洗練された信仰者、つまり「カドの立たない神経症者」とも読めます。
 神を全体性、< 他者>と考えると、それは「わたしは知らないが、少なくとも一人誰か知っている者がいる」真理を最終的に保証する者です。この真理とはもちろん、斜線を引かれ自らの背中から切断されることにより産み落とされた< 主体>の意味、わたしの背中に書き込まれていたはずの「存在としての< わたし>」の名です。
 故にこそ、全体性は想定されないではいられず、神様には何としても頑張って頂かないと困るわけですが、逆説的にも「健全な」信仰とは、想定しても意味の固定点を期待せず、疑いという次元を常に許すものです。これは、信仰者が神を疑うことを許す、という意味ではなく、「疑い」という可能性がそこにあり得ることを思考できる、ということです。そうでなければ、神を冒涜されて怒る信仰者もいません。疑義の可能性自体が分節されていないなら、怒りという倫理的水準が導入される契機もないのですから。
 要するに神様とは、わたしの知らないことを「わたしの代わりに」知っていてくれる存在なわけですが1、その神の名を「それと知らずに」叫ぶとしたら、丁度背中と背中がくっついたように、< わたし>の出番なく話がまとまります。眠っている間に小人が宿題をやってくれるようです。
 完全な信仰とは、多分眠りのようなものです2。< わたし>の出る幕がないものです。
 それでは教義の「宗教」は「カドの立つ病」に過ぎないのかと言えば、そんなものは小賢しい中学生の言うことで、「カドが立つ」というなら、< わたし>がここへ来てしまった時点で致命的に「カド」は立ってしまっているのです。
 わたしは目覚めてしまいました。
 目覚めの一瞬前、この世界は想像的な漆喰で塗り固められ、さっきまで歯車まで剥き出しだったはずの真理は、真綿の向うに覆い隠されてしまいます。残った言葉は、鳥のさえずりのようなお喋りだけです。
 「礼拝は眠りに勝る」とアザーンが叫ばれるのは、既に立ってしまったカド、これを丸めない限り眠りには帰れないからです。このカド自体が、神様がわたしたちに出したナゾナゾであり、カドの全体が背中に書き込まれていたはずの< 意味>なのでしょう。

 思いつくままに書きなぐったので、恐ろしく妄想チックですが、このエントリはカリーマ先生のサインを自慢するのが主旨なので、例によって読み返しもせずポストしてしまいます。
 興味のある方は以下のエントリあたりを参照してやってください。

「「わかる」ことと作者の転生」
「神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない」
「あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス」
「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」
「『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆」

4560027722 恋するアラブ人
師岡 カリーマ・エルサムニー
白水社 2004-11
  1. この「代わりに」は、トイレに行きたい子供に「お姉さんが代わりに行ってきてあげるから!」と言うのに似ています。年少くらいだと、騙されて泣き止んだりします(笑) []
  2. ブルース・リーがあるインタビューで「神を信じるか」と問われ、「わたしの信じるのは、眠りだ」と答えています。「つまり貴方は、とても神様をお慕いしているのですね」と静かに微笑みたいです []

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