『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖


『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖 『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖

 地域住民の力でスラムからの再生を遂げたボストンのダドリー・ストリート、中世の要塞のようなゲーテッド・コミュニティから、「アメリカ国民だが市民ではない」米領東サモアまで、アメリカの様々な「コミュニティ」を巡るフィールドワーク報告。アカデミックな深みにはやや欠けるのですが、ジャーナリスティックで躍動感溢れる文体に惹き込まれ、一気に読破してしまいました。
 どの章も大変面白いのですが、個人的に最も興味を惹かれたのが、「しなやかな原理主義」的宗教コミュニティ・ブルダホフ1と、アリゾナ州サプライズの宗教右派の牙城メガチャーチ・ラディアント教会。

 ブルダホフは、既存教会を離れ原始キリスト教的共同生活を営むフッター派の流れを組むコミュニティです。アーミッシュを彷彿させますが、アーミッシュが徹底した反近代を貫き観光収入への依存度が大きいのに対し、ブルダホフはテクノロジやポップ・カルチャーを批判しながらも、木製玩具や介護用品の工場から現金収入を得ているとのこと。財産の共有を原則とする辺りはむしろイスラエルのキブツに近く、実際交流もあるそうです。カトリック教会・ユダヤ教会とも親交があり、「しなやかな原理主義」とは言い得て妙です。
 一方、ラディアント教会が位置するサプライズはフェニックスのエクサーブ(郊外のそのまた郊外)。ブッシュの支持母体となった宗教右派の典型で、聖書を字義通りに受け止める一方、教会はショッピングセンターのようで、礼拝堂は巨大スクリーンを備え、教会音楽はロック。率いるマクファーランド牧師は元マイクロソフトのエンジニアです。
 同じ「極端に宗教な人たち」で、進化論や妊娠中絶の否定など共通点もあるものの、両者の風景はまるで異なります。ブルダホフの人々は宗教右派にも批判的で、

「彼らはキリスト教のレトリックこそ使うが、まるで実践していない。『汝の敵を愛せよ』が聖書の教えです。イラクへの攻撃を支持するなどあり得ないはずです」

と辛辣です。民主党も問題があるが(中絶・同性婚等は当然容認できない)、共和党よりはマシ、という方が多いとのこと。

 ブルダホフが農業・牧畜を主とする農村の風景であるのに対し、サプライズは「片田舎」とはいえ大都市の郊外。日本で言えば、同じ「田舎」でも、里山を擁した田園と、地方都市のそのまた「ニュータウン」のような違いがあります。
 そもそも、ブルダホフとラディアント教会では、「コミュニティ」の意味が異なります。ブルダホフが文字通りの共同生活を営んでいるのに対し、サプライズは街そのものが「教会」なわけではありませんし、あくまで都市最周縁部に住む人々の宗教的な「連帯」です。一読すると、ブルダホフが極端ながらも主義を貫く「良き閉鎖社会」なのに対し、ラディアント教会はいかにも都市病理の最果てのような印象を受けます2
 もちろん、実像はそんなに単純なものではないでしょう。アーミッシュ内部に外からは見えないドス黒い部分があるように、ブルダホフにはブルダホフの矛盾や腐敗があるはずです。
 一方、ラディアント教会に集う人々も、決して単に「頭のおかしい人たち」なわけがありません。狭義のコミュニティすら築けなかった人々、都市により分断され尽くし、ファンダメンタリズム以外に拠り所を見出せない様子には、「故郷なき」ファシズム3や現代日本若年層における右派思想を彷彿させるところがあります。

 ブルダホフの風景は牧歌的で、素朴に心惹かれるものを感じますが、こうした選択肢というのは、実はかなり「恵まれた」人々にしか許されていないのではないでしょうか。今日、東京の最底辺でサバイバルする若者が、ラディアント教会のような組織にささやかな救いを見出し、再び辛い日常に帰っていったとしても、わたしには批判する言葉はありません。こうした人々を「宗教の人だから」などと距離をおいて冷笑的に見るリベラルの方が、余程看過できません。
 もちろん、彼らの思想に共感することもできないのですが、もしもプロテスタント宗教右派と対決するなら、同時にリベラルも敵に回して、当然のように一番先に撃たれなければ侠気に悖ると言わざるを得ません。「わたしこそ真の原理主義者だ」くらいの暴論を振るわなければなりません。
 満州戦争が勃発した時、ジャーナリズムは1931年をもじって「いくさのはじめ」などとし、好戦気分を煽りました。大本教の出口王仁三郎は「なぜ日本人が西暦などで語呂合わせをするのか、皇紀2591年、すなわち『じごくのはじめ』である」とこれを皮肉りました。では出口は満州国を否定したのかというと、むしろここで精力的な布教を開始したのです。
 満州国は軍事的に捏造された幻想国家であり、そこに希望はない。しかしただ糊口をしのぐべくそこに「移住」したのは、最初から希望のなかった貧農たちでした。出口は「地獄のはじめ」であるからこそ、その地獄の人々を救うべく、立ち上がったのです4
 ラディアント教会、あるいは日本にも数多い「カルト」を批判することは容易いです。そして「カルト」を作り出している社会の構造的病理を指摘することも、リベラル知識人の得意とするところです。しかし、そうすることで彼らは「カルト」以上に彼・彼女らを救っているのでしょうか。この難行を達している人も中にはいらっしゃると思いますが、前も地獄、後ろも地獄なら、「カルト」以上の「カルト」をもって前門に立ちふさがらなければならないのではないか、そうした衝迫を強く感じています。

 宗教系とは別にもう一つ印象的だった「コミュニティ」が、同じく右派地盤ではあるものの、こちらは「伝統的」な共和党ワールド、モンタナ州ビッグ・ティンバー。アメリカでも最も人口密度の低い地域の一つで、地平線の向うまで「ウチの敷地」な農業・牧畜コミュニティです。アメリカの農牧業というと、グローバリゼーションの尖兵のような印象がありますが、実際に末端で働く人々の暮らしは、経済的に「とても子供に継がせられない」もののようです。
 それでも傍目には快適そうな暮らしを営む牧場主と筆者が、以下のようなやり取りをかわします。

「お父さんやおじいさんの時代と比べると、牧場で生計を立てるのは遥かに難しくなったけど、暮らし向きそのものは快適になったということですか?」と尋ねると、リックさんは大笑いし、「そう言われてみるとそうだ。言い得て妙だよ」とうなずき、言葉を続けた。
「技術的には比較にならないほど楽になって、物質的にも恵まれているけれど、農牧業を取り巻く環境が、五十年代あたりから激変したね。今では、生産物が製品になる、つまり牛がステーキになるまでに、巨大企業が三つも中間に入っていて、私たちの取り分がどんどん削り取られてしまうのさ。(・・・)」

 このリックさんが、牧場を継ぎたがっている九歳の孫のことを語りながら、涙声でこぼした次の台詞が、とても心に残りました。

「孫たちのためにも、こうしたライフスタイルや価値観を守り続けていかないとね。土地は先祖から受け継いだものじゃないよ。子供たちから借りているものなのさ」

 「生きるということは、謂れなき負債を背負うこと」という視点について、「追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本」「子供解放」などで触れてきましたが、それが文字通りの意味で、小賢しい含意もなく市井の人の口から語られると、ずっと胸に響くものに聞こえます。

関連記事:
「『アメリカの原理主義』河野博子」
「『アメリカの論理』 吉崎達彦」
「『アメリカよ、美しく年をとれ』 猿谷要」
「『アメリカの中のイスラーム』 大類久恵」
「米大統領候補マイク・グラベルさんがオトコマエすぎる」

  1. 本書購入のきっかけは、arkanalさんの記事で紹介されていた目次で、この「しなやかな原理主義」というステキすぎるフレーズを目にしたことでした。arkanalさん、ありがとうございます。 []
  2. 都市の宗教というと、極私的にはついイスラームを連想してしまいます。イスラームも、元々は都市において既成宗教システムから取りこぼされてしまった人々を支持母体として成長しました。厳しい戒律の印象ばかりが先行していますが、基本的には極めて個人主義的な宗教で、プロテスタント親和的です。ただ、これを補完するシステムとして、ウンマ(イスラーム共同体)やシャリーア(イスラーム法)があるわけで、今日の「最後の救いの場」としての宗教右派と共通する一面も見られる気がします(ムスリムからも宗教右派からも怒られそうです。ごめんなさい)。 []
  3. わたしのファシズムについては「サイボーグ・ファシズム」のほか、旧ishファシズム関連記事をご参照下さい。 []
  4. 出口王仁三郎のこのエピソードについては、松本健一さんの『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』に拠ります。『日本の失敗』については以前にエントリを立てています []

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