欺きと信じること


 一応、転移ネタ最終回です。


 草さんのエントリ後半では、ジジェクによる探偵の譬えが引かれています。

たしかに「客観的な」科学者もまた「偽りの外見を通り抜けて、隠された現実へと到る」が、科学者の扱うこの偽りの外見には欺瞞という次元が欠けている。人を騙す邪悪な神という仮説を受け入れないかぎり、科学者が自分の対象から「騙された」とか、科学者が直面している偽りの外見は「その存在理由を隠蔽するためだけに存在している」などという言い方は絶対にできない。しかし「客観的な」科学者とは反対に、探偵はたんに偽りの外見を消すだけで真理に到達するのではない。彼はその偽りの外見を考慮に入れる。(・・・)真理は欺瞞の領域の「向こう側」にあるのではなく、「意図」の中に、つまり欺瞞そのものの間主観的機能の中にあるのだ。(『斜めから見る』 スラヴォイジジェク)

 邪悪な神、欺く神の想定とは、世界に「意図」を読み込むことです。つまり、主体の想定です。
 無人島に足跡があれば、それは(人がそこにいることを示す)記号ですが、もし足跡に消した跡があるとすれば、それはシニフィアンです。シニフィアンとは、消え去った主体を代理するものです。欺く神を想定することは、世界が何らかの主体が存在し、そしてその主体が「こちら」を「知っている」と想定することです。
 草さんはこの引用に以下のように続けています。

分析家もまた、探偵のごとく意外な真実を言い当ててみせます。すなわち彼は患者の症状の真の原因を、たんに科学的な手続きによるのではなく、かといって勘に頼るのでもなく、誰にも思いつかないような「推論」によって明かします。この推論が科学と異なるのは、どのような点においてでしょうか。「騙し」を考慮に入れることにおいて、です。

 補足させて頂くなら、「騙し」にはもう一つの局面があります。
 「知っていると想定される主体」は、それほどナイーヴに信を寄せられるものではありません。
 analysant(分析主体、患者)が恐れているのは、分析家が自分に騙されてしまうのではないか、ということです。ワトソンは、ホームズがうっかり自分に騙されてしまわないか、本当はホームズが何も知らないのを知っていることをホームズに気づかれてしまうのではないか、それを恐れているのです。
 しかしもちろん、ホームズは、ワトソンが「ホームズが何も知らないのを知っていることを恐れている」ことを知っています。彼が知らないのは、「本当のこと」です。分析家は、ヒステリー者と同様に何も知りはしません。そして、知らないということをヒステリー者も「知っている」。ただ彼または彼女にとって、分析家が何も知らないということ、つまりそんなことは誰も知らないということは、「まぶしすぎる」のです。直視できない輝きが、熱愛を生みます。

 では、分析の出口において、ヒステリー者は「誰も知らない」というニヒルズムを受容し、「自分で決めるしかない」とアメリカ映画のような一歩を踏み出すのでしょうか。分析家は騙されてしまうのだ、と諦念するのでしょうか。ウディ・アレンを長椅子に寝かせる自我心理学者であれば、そう言うかもしれません。
 しかしまず第一に、「知っているはず」という希望が絶望に代わるのであれば、それはただの陰性転移であって、転移の解消ではありません。
 では希望でも絶望でもなく、「愛」が「無関心」になれば転移が解消しめでたく分析も終結するのかというと、これも妥当ではないでしょう。

 私見ですが、分析の終結とは、「信」という次元の獲得にあるのではないでしょうか。「信」の次元の獲得とは、「信じることにする」という意味ではなく、「もう信じてしまっている自分に馴染む」「信じるくらいしかできないことを赦す」ということです。
 analysantは分析家を信じています。騙されるかもしれないものとは、信じるしかないもののことです。
 翻せば、それは単に「信じている」ということです。信じていたからといって、本当に「知っている」かどうかは別問題です。これは恐ろしいことなので、彼・彼女たちは、「わたしは信じている」とは受け止めません1
 ヒステリー者やその他の「こじれてしまった人」の多くが、「信」という次元とうまく向き合えていません。彼・彼女らは、往々にして「本当のところどうなのか」といった事実関係をベースに思考しています。「本当」を語る、という意味ではなく、「本当」がないにせよ「ウソだ!」と言うにせよ、「事実がどうなのか」を中心に語らいを紡いでいる、ということです。
 しかし、わたしたちの生は「事実」だけで動いているのではありません。「事実」のこともありますが、「事実だと信じる」ことがとても大きな力を持っています。
 デリダではありませんが、わたしたちは何かを語る時、常に「わたしを信じて下さい」と言っています。たとえ嘘を言う時にでも、騙そうとするのではなく嘘を嘘とわかるように喋る時ですら、「信じて下さい」と訴えています。何かが信じられていなければ、嘘も冗談もありえません2。語られた言葉がただのシーニュではなく、シニフィアンである、つまり背後に消失する主体がある、ということです。
 「信」は単に信じることですから、寄る辺ないものです。信じていても、裏切られることはあります。机の上にコップがあると思っても、錯覚かもしれません。全部夢かもしれません。つまり、「欺く神」の可能性が常にあります。
 「欺く神」がいても「事実」を獲得できるなら、騙されることはなくなります。しかし「事実」そのものは原理上アクセス不可能です。神様を通じてかろうじて知るしかありませんが、その神様に対しては「信じる」しかありません。
 これはとても不安なことなので、できたら「信」ではなく「事実」でいきたいです。「わたしは単に信じているのだ」というのは、大変勇気の要ることです。
 勇気が足りず、「信」から逃げすぎてしまった時に、もう一度「信」を取り戻す、それが分析の営みであり、惹いては愛というものなのではないでしょうか。
 自称「無宗教」な日本の方々は、信仰というと激烈なものを想起されることが多いですが、信仰とは要するに信じているだけです。信仰を信仰と知り信仰するということは、暗黙的に「本当は違うかも」を織り込んでいるのです。これは信仰を相対化している、という意味ではありません。相対化してしまったら、信じているとは言えません。そうではなく、信仰とは「信じています」と証言することなのです。信仰者は、自分が信じているということを信じるのです。
 信じたからといって、神様や恋人が何かを保証してくれるわけではありません。「保証します」と聖典には書いてありますが、それを信じているのも一人の信仰者にすぎません。でも、それで十分なのです。十分というより、信じる以上のことなど人間には不可能です。だから、とにかく信じて前に進むしかないのです。

 分析の終結とは、要求に応答のない点があること、つまり大文字の他者における欠如を発見することだ、と言われます。
 しかしそれは、要求を停止する、ということではありません。求めても求めてもかえってこない点がある、だからこそ余白に向かって欲望が投げられるのです。応答はない、しかしだからこそ信じ、欲望せよ。これがわたしたちに与えられた倫理的命令です。
 それは燃えるような熱愛ではありませんが、静かな、眠りのような愛です。こうした愛を、愛と呼ばない人々もいるかもしれませんが、少なくともわたしは、それこそが愛だと「信じて」います。

 草さん、こんなので返答にさせて頂けませんか? すいません。

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  1. もちろん、神経症者とは「普通の人」のことであり、わたしたちは皆、信じていることの多くを「信じている」とは口にできません []
  2. 事実がフィクションに先立つ、という意味ではなく、「信」という次元、「仮に事実としてみる」「信じてみる」という契機が、フィクションと事実を一つの家族として成立させている。 []

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