秋葉原、トヨタ、引き返し不能地点からさらに進むこと


 秋葉原の件について、個人的に思うことは何もないし、特に興味もありません。悪いですが「犠牲者の方に哀悼の意を捧げ」もしません。1
 それでも、webを眺めているとイヤでも関連記事が視界に入ってきます。そうした中で興味を惹かれたのが臨床してて思うこと(精神科):秋葉原の事件について2というエントリ。

今回の事件で、勝ち組・負け組の話の流れで、派遣(トヨタ)で働いていたことが話題になっているけれども、
たぶんそれは、犯行に踏み切る最後の一歩の問題。ジャンプに踏み切る位置の問題。むしろ問題は、ド田舎の秀才が進学校で落ちこぼれたとき、そのプライドを抱えたまま、下請工場で働くことがどれだけ大変かということにあると思う。


 ある種の文脈では、既に何度となく示された視点かもしれません。単に個人的に共感できる部分があるので、目についたのでしょう。
 わたしには、同じ大学(某京都大学)を卒業し、その後訳あって職を失い、長い無職生活の後、正にそのトヨタで期間工として働いた友人がいます。性格的には臆病すぎるくらいの彼ですが、その内に秘めた勇気は、真に尊敬に値すると思っています。そこで「トヨタ」に飛んでしまう回路、そうせざるを得ない心的構造にも、とても共感します。
 「一流」と呼ばれる教育を受け、なおかつグダグダやっている人自体は、別段珍しいものでもありません。修士・博士まで進んで仕事なし、という状況はそれはそれで社会的問題を孕んでいますが、反アカデミズムのワタクシにとっては単なる侮蔑の対象にすぎません。
 芝居や音楽をやって身を持ち崩してしまう人も大勢いますし、彼らについては別に悪くは思いませんが、特別の敬意を抱く、ということもありません。知り合いに京大の医学部を卒業して豆腐屋で働きながら写真を撮っている人がいますが、これくらいになるとちょっとリスペクトします。ちなみに、この人物には「写真なんて、デートの口実だ」という名言があります。「写真こそわが人生」みたいに熱くないところがカッコイイです(わたしと同じくらいすぐ人を殴りそうな方だったので、ちょっと怖かったです)。

 話がズレましたが、別段「アーティスト」でも何でもなく、つまり逃げ込むさきの防衛的「アイデンティティ」を何ら備えず、なおかつ「一工員」として黙々と車を作る、というのは、大変ハードで、勇気の要ることです。
 本当のことを言えば、どっちにしても「何もない」のです。アーティストだろうが京大卒だろうが、生まれてきたことに意味なんてありません。ただ、文字通りに持たざる者として育った人は、「何もなさ」を物質や教育の不足といった実際的事象にバインドする機会を得て、かつそれに「慣れて」います。一方、世間的な安いプライドを手にしてしまった者も、大抵は同じように物質的事象に「何か」をバインドして、それを支えにして生きています。
 限られた人だけが、このバインドが嘘っぱちであること、肩書きも学歴も芸術性も何の役にも立たないこと、それに気付いてしまいます。知的に認識する、あるいは配偶者の死などの危機において致命的に気付きを得る、ということは珍しくありません。しかし、ベースとしての社会的ポジションとして、逃れようもなく直面させられてしまうのは、(幸いなことに)かなり数少ない人だけです。

 大昔に大学に入った時、「東大や京大に入って唯一良いことは、それが何でもなく、中の人も至って普通、というかバカばっかり、ということがわかる、ということだ」ということを言われました。全くその通りです。
 外にいれば、中に「特別」を投影できます。わたしたちは常に、外に「特別」を預けています。隣の芝生はいつも青いです。翻せば、青い芝生を夢見たり妬んだりすることで、安定した防壁を築くことができます。
 中に入ってしまうと、この防壁は無効になります。中には何もないからです。それならそれでまた青い鳥を探せば良いのですが、ある種の「中」を選んだ場合、別の道ができます。
 ある種の「中」とは、集団的・社会的に共有された「特別」のことです。つまり、東大とか王族とかGoogleの社員とか、そういう類です。そういう場所では、「中」にキチンと絶望できずに、あたかも「外」が「中」に抱く幻影をそのまま背負いこんだかのように、プライドとして内面化してしまうことができます。
 このプライドを支えにして、更なる青い鳥を探せばそれはそれで結構なのですが、旅をやめて倒錯的なプライドに閉じこもってしまう人も少なくありません。
 多くの場合、ここで内面化された幻影とは、劣等感の裏返しです。「中」に入るまで、自分は飛びぬけた存在だった。ところが、「中」では至って普通、それどころかオチコボレかもしれない。そこで「普通」を受け入れ、もう一踏ん張りすれば良いのですが、皆が皆そうした強靭な精神を備えているわけではありません。「もういいよ」とスネてしまって、「外」の幻影をそのまま「アイデンティティ」にして、閉じこもってしまう場合もあります。
 そこで得た虚勢は、多少なりとも世間を納得させるかもしれませんが、本人の心を満たすことは決してありません。なぜなら、彼または彼女は、その「特別」がちっとも特別ではなく、カラッポであることを知っているからです。カラッポを振りかざして生きるしか道がない。しかしカラッポより先、おそらくはそこもまたカラッポにすぎない隣の芝生に向けて旅をするだけのパワーは、もう持ち合わせていない。こういう時、見た目の威勢のよさとは裏腹に、人はとてもとても自信を失っていきます。

 全部カラッポです。隣の芝生もただの芝生です。
 でも行くのです。
 だから、移動と旅だけがリアルです。
 この旅が、世の中的に「特別」とされている地を目指すものであれば、労苦は当然伴うでしょうが、慰撫的な面も大いにあります。多くの人がその労苦をわかってくれますし、たどり着いた場所が「カラッポ」であったとしても、外にいる人たちには褒めて貰えるからです。
 ですが、まるで「特別」が共有されていない場所への旅は、孤独です。まして「特別」から「さらなる特別」ではなく、トヨタへ旅する孤独とは、言語を絶するものでしょう。
 でも行くのです。

 自分自身を振り返っても、ただ移動のためだけに、何もない場所に旅をする苦行を自らに課してきました。
 しかし、いつの頃からか力なく、旅の孤独を嘆き、憎悪ばかりをつのらせるようになっていたように思います。
 孤独であるからこそその旅には価値があったはずなのに、孤独を嘆くとは筋違いな話です。
 そういう旅人は、強く強く神様を信じなければなりません。砂漠を旅する者が、遠く瞬く星だけを頼りにするように。
 そうした星もまた「遠くにあり特別なもの」の一つに過ぎないのかもしれませんが、幸いなことにわたしたちは星に届くことがありませんし、ただ強く念じ、一歩でも遠く重い足を引きずり進み、そして旅の果てに死ねば良いのです。
 重要なのは、死ぬまで歩いていた、ということです。

 最初に書いたように、わたしは秋葉原の事件に興味がありませんし、犯人がどういう人なのかも知りません。
 ですから、まったくの見当違いかもしれませんが、こうした事件が起こると、すぐ連想するのが町田康の『告白』です。2

考えてみれば俺はこれまでの人生のいろんな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていた。ところがそんなことは全然なく、今から考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということが今俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらの地点が本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。当然ことはこんなことをしないで済んだと言うことで、俺は今正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない。

 この主人公の言葉がグサグサと「わかって」しまうわたしは、ある種の「犯人」になる可能性がいつでもあるのでしょう。
 そう、本当に残酷なのは、「引き返すことができない」ということではなく、「実は余裕で引き返せてしまう」ということです。
 どこまで行っても「特別な場所」には到達できず、遠慮なく踏ん反り返ることも、思い残すことなくヤケッパチになることも許されないのです。
 だから、「もうここが特別なんだ!」と叫んで小さなプライドに閉じこもるのは、「引き返し不能地点」のために銃を乱れ撃つのと同じことです。

 別段、「引き返し不能地点」のために殺し死ぬことを、卑小とも悪いとも思いません。それは真の勇気ではありませんが、大抵の人は真の勇気など持っていませんし、手を汚さずに知らない間に大虐殺を行っているのです。それに比べれば、まだ潔いようにすら感じます。「哀悼の意」など捧げてシラーとしている連中よりは、いくらかシンパシーを抱きます。3
 しかし、道のすべてではありません。
 引き返すことは、余裕でできる。でも引き返さない。むしろ進む。
 その先には、全然ステキなものなんてないし、他人も褒めてはくれません。むしろ誹りを受け、ますます孤独になるでしょう。
 もちろん、引き返すことだってできます。しかし、それは「元に戻る」ことではありません。引き返した先、それは思い出の中の暖かい故郷ではありません。「大口叩いて出て行って、この有様か」と貴方を見下す「異界」です。
 だから、引き返そうが前に進もうが、もうロクでもない場所にしか出ないのです。時は一方向にだけ進みます。あるのは、静止の幻想の元にその地に留まるか、時と共に旅し続けるか、その選択肢だけです。

 風と雨がわたしの足跡を明日にも洗い流したとしても、主よ、あなたの帳簿にだけは染みを残させ給え。
 その頁が、二度と開かれず、誰の目にも触れないとしても。

少し関連記事:
「行きと帰りで違う道を通ること、奴隷とゆとりファシズム」
「寛容さと共存の何が問題なのか」
「『イスラームの世界観』 「第三のアイデンティティ」の幻想と現実性」
「待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択」
「恋愛と郷愁」

  1.  「哀悼の意を捧げる」などというのは単に社交辞令的な枕詞にすぎないし、それが示しているのは「哀悼の意」ではなく、単に「わたしはそれほど反社会的人間ではありません(だからこの言及によってわたしの地位は特に影響されません)」というメッセージにすぎません。知り合いでもなく政治・宗教的関連もない人間が路上で何人殺されようが、ブラジルの奥地で足を滑らせたおじいちゃんが頭を打って死んだ程度のインパクトしか受けません。まぁ、もちろんおじいちゃんだって気の毒ではありますが。
     また、こうした文脈でしばしば「犠牲者」という言葉が使われるのも奇妙です。犠牲というのは捧げられることに特別な意味があるもので、通り魔に刺されたりダンプに轢かれるのは単なる「被害」であって、「犠牲」ではないでしょう。
     被害者の方は本当にお気の毒です。でも、知り合いじゃないから何も感じません。もしかすると、いつかどこかで電車に居合わせて、ヘッドフォンの音漏れがうるさかったあの人かもしれません。だとしたら、わたしにとっては手を汚さずに嫌がらせができてラッキーでした。それくらいです。 []
  2.  町田康『告白』について、連続で三つもエントリを立てていました。
    「「告白」 町田康」
    「「狂気」という言葉、名前をつけること」
    「とりかえしのつかないこと、「どうしてこんなことになってしまったのか」」 []
  3.  「じゃぁお前が殺されろ!」と言われるかもしれません。はい、殺されます。そういう死に方をいつでも望んでいます。わたしが彼に代わって貴方を殺し、彼に殺されるでしょう。また機会があれば是非呼んでください。 []

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