本物と偽者、女、名、名付けた者

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 偽物商品購入、47%が「容認」?
 朝日新聞より。
調査は7月中旬、全国3000人を対象に実施、約7割が回答した。偽物購入は「どんな理由でもすべきでない」と答えたのは39.6%。これに対して「正規品よりも安いので購入するのは仕方ない」が29.9%、「正規品にはないデザイン・仕様の品もあるので、購入するのは仕方ない」が10.3%。「公然と売っているので、購入してもよい」が6.7%。容認する意見は合わせて46.9%に達し、反対意見を上回った。
 良識的には問題とされるべきなのでしょうが、「本物は本物」という杓子定規な見方をそこそこの人が疑って流してくれていることに、少し安心感を覚えます。
 本物も偽者もごちゃごちゃで良い、というわけではありませんが、ある一線までいってしまうと、そう簡単な問題ではなくなります。単純に「識別できない」ということもあるのですが、だからといって「精巧な偽者は本物に等しい」とはなりません。仮にこの世の誰にも識別できなかったとしても、「本物の本物性」は残ります(分析哲学における固有名詞の問題を想起せよ)。逆に言えば「本物の本物性」は感覚に訴えうるいかなる要素にも還元できない「名」そのものだということになります。それゆえ「本物/偽者」にどれほど価値を見い出すか、ということは、「名」それ自体、とりたてて機能するわけでもない個別性そのもの(あるいは名付けた第三者的力)をどれくらい重んじるか、ということと相関しているわけです。まさに「ブランド」の値打です。
 個人的には、著しく機能重視でもブランド信仰なわけでもありません。それなりにブランドに惹かれもしますが、熱中もしない、という程度です。要するに普通です。大切なのは、「名は名として価値を持つが、それ以上でも以下でもない」という意識を持ち続けることでしょう。
 こんなことを考えるのは、トランスには「究極の偽者」という側面があるように思えるからです。
 決して卑屈な意味で言っているわけではないのは「くたばれジェンダーフリー」でも書きました。精巧な偽者は時に本物を超える輝きを放つものです。百歩譲って仮にMtFが「女なるもの」の人工性を抽出したサイボーグだったしても、そのことでとやかく言われる筋合いもありません(ここには重要な論点があり、『押井守』ムックでは詳述しています)。本物と同様、洗練されていなければ美しくも強くもないのは言わずもがなですが。
 逆に、識別手段がゼロになっても「名」が残るのと同じく、MtFがネイティヴとイコールになることもありません。トランスはどこまでもトランスです。
 「名は名として価値を持つが、それ以上でも以下でもない」。MtFだからといって過剰に女らしさを求める必要もなければ、卑屈になる理由もなく、「トランスぶり」を強調しなければならないわけでもありません。また「女に見えるけれど実は」「本当は」などという稚拙な言い回しで「実態」を示される所以もありません。こういう底の浅い「本物さ」しか思考できない人も少なくありませんが、第一に一回仮面を剥いだくらいであっさり「真実」が見えるわけもなく、第二に究極的には「本物さ」は認識を超えた「名」である以上、「本当の本当」は永久にわからないものです。
 わたしはMtFです。偽者です。ねずみは齧ることが「仕事」であるように、偽者は騙すのが「仕事」ですから、常にカムしたりはしません(「偽者」と表示してある偽者など、偽の偽者だ!)。偽者の偽者ぶりを評価する人もいますが、偽者は本物に似せるのが本命ですから、あまり嬉しくはありません。かといって、本物とイコールでもありません。実に中ぶらりんです。
 一つとても気持ちが良いのは、偽者は偽者であることを知っている、ということです。本物ときたら、「本当に本物」かもわからないのに本物だと信じていて、しかも「本当に本物」という可能性が無前提に存在する、と思い込んでいるのです。
 「本物」が「名」に還元される以上、第三項なしにはありえず、いかなる交換価値にも回収されません。

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