等幅は「とうふく」ではなく「とうはば」なのか

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 今働いている会社はエンジニアの会社のせいか、「賢いけれど国語はめっちゃダメ」なヒトが多いです。
 と、思っていたのですが、最近むしろ自分の方が間違っているような気もしてきました。 
 「重複」は「ちょうふく」が正しいと信じていたのですが、「じゅうふく」でも変換されますね。
 「早急」も「さっきゅう」だと思うのですが、「そうきゅう」でも変換されました。「送球」が先に来ましたが。
 まぁこれくらいはどっちでも良いです。
 それより納得いかないのは「等幅」です。
 


 調べてみたのですが、これは「とうはば」というのが圧倒的に一般的なようですね。
 わたしはずっと「とうふく」だと信じていました。というか、「とうはば」じゃ明らかに重箱読みじゃないですか。
 どこをどう考えても日本語として不自然すぎると思うのですが、優勢なのは「とうはば」です。
 確かに「とうはば」と言えば「幅が等しいんやな」とパッとわかります。だからってねぇ・・。釈然としないです。
 ただ視点を変えてみると、読み方そのものの議論より、一般的な読み方を今まで知らなかったわたしの有りようの方が面白いです。もちろんわたし個人のことではなく、「読み方を知らないままに習得し使ってしまう」という現象のことです。
 世間一般では、言葉の学習は「まず耳から」という信念が比較的優勢だと思うのですが(英語学習におけるリスニング幻想など)、実は想像以上に視覚印象から受け取っている情報は強力です。
 これは単なる知覚チャンネルの問題ではなく、ものごとを時間的・機能的に見るか、空間的・構造的に見るか、という違いです。シーケンシャルな認識法はとっつきやすいですし、パッと具体的例を一つ取って来るときなどには有効ですが、一定以上の規模のものを深く理解するには限界があります。
 時間的な見方は、言わば読み込む先からメモリにどんどんためていくわけですが、わたしたちが一瞬間に全体を見られる情報量にはおのずと限界がありますから、いっぱいになったら先に読んだ方から捨てていくことになります(脳の仕組みとしては必ずしも「先」ではないと思いますが、ここは概念上の問題なので触れません)。するとある程度以上の大きさのものについては、常に部分しか見ることができず、全体に対する位置づけといった仕組みがなかなか理解できません。
 これに対し、空間的・構造的な認識法というのは、まずは全体の概括や流れを得るアプローチ法です。たとえとしては必ずしも正確ではないのですが、PCのフォルダ構成のようなツリー構造を上から見ていくと思えばよいでしょう。DOMの上澄みの階層だけとりあえずもらって、そこから再帰的に中を見ていく、といった感じです。
 と、なんだか長くなりそうなのでテキトーにはしょりますが、実は着眼したいのは機能/構造とかいった違いではなく、また「反ロゴス中心主義!」などという十五年前くらいの大学一年生のようなことでもなく、音を知らないままでも(あるいは勝手な音を決めながら)成長していく関係性の素敵さです。
 要するに「独習の世界」ですよね。
 この辺については色々思うところがあるのでそのうちまた書きますが、田崎英明さんが「独学者であるということ」で簡潔にまとめてくれちゃっていますので(笑)、わたしはもっとアホなことをやります。
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