TAIYOレクリエーションセンター

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 先日ご紹介したマーク・ピーターセン『英語の壁』の中で「米軍基地の関連施設に日本語の名称を付ける風潮がある」という話題があったのですが、ふといつも聞いているAFNで”Taiyo Recreation Center”というのを耳にしていたのを思い出しました。米兵家族のための日本語教室などをやっているところです。
 わかってしまうと今までどうして気づかなかったのか不思議でならないのですが、これって「太陽レクリエーションセンター」なんですね。なんとなく有名な将校の名前か、わたしの知らない英単語なのかなぁ、と思っていました。横田基地には、同じくYUJOレクリエーションセンターというのもあります。


 ピーターセンさんもこの手のネーミングを一概に是とか非とか言っているわけではなく、SAKURAなどオーソドックスなものを使っているうちはよかったけれど、そのうち「MOSUKOSHI(もう少し)」(違ったかな?)などわけのわからない語が使われるようになってきた、とだけ指摘されています。
 別に良いこととも悪いこととも思わないのですが、なんとなく異国情緒があってステキに響くのだろうなぁ、と想像しています。ヘンな英語Tシャツを着たり外国人が漢字のタトゥーを彫るのと一緒でしょう。
 外国語一般がなんとなく「かっこいい」「ステキ」に聞こえるのは、それが「わからない」からですが、そこで話を終わらせてしまうとちょっと違います。
 重要なのは、わからないけれど、わかる可能性はある、別の言い方をすれば「わかる人もいる」ものがわからない、というところが重要です。
 外国語の響きが謎めいて聞こえたとしても、波の打ち寄せる音が同じような魅力を放つことはありません(別の意味で惹かれる場合はもちろんあるでしょうが)。それは波には意味がない、正確に言えば「誰もそれによって何事かを意図していない」とわたしたちが考えるからです。
 つまり意味というものは、それが「わかる」、つまり言い換えできるかどうか、という閾の前に、「わかる可能性がある」「わかる人がいる」「何らかの意図が込められている」「ある構造の内部に整合的に位置づけることができる」というリミットがあって、二つの境界の間の領域、つまり「意味はあるけどわからない」というズレの部分がエキゾチックな魅力を放っているわけです。
 非常に面白いのは、自分ではわからないくせに「意味はある」と確信していることです。外国語の会話がまったく聞き取れなかったとしても、それを風にしなる電線の音と同様に感じる人はいないでしょう。「なぜ意味があると思うのか」と問えば、普通は「そりゃ人間がしゃべっているんだから、意味はあるでしょ」と答えるでしょうが、これはほとんど後付の理屈です。懐疑論者であれば「乱数表によって生成した無意味な音声を互いに交信しているだけだとしたら」という思考実験を提案するでしょう。
 ここは逆に考え、むしろ意味を想定される(つまり主体が想定される)存在をわたしたちは総体としての人間に数えるのだ、と考えるべきです。そこにこそ言語の限界があり、そのような臨界の中に位置づけられるものとして、わたしたちは主体化されたわけです。
 ドナルド・デイヴィドソンというゴリゴリの論理実証主義者の有名なテーゼに「翻訳不可能な言語は言語ではない」というのがあります。これだけを聞くと「はぁ?」と思ってしまうでしょうが、示そうとしているのは上のような内容だと思います。
 わたしがこのフレーズに最初に触れたのは大学一年生の時の某ゼミでだったのですが、「そんなハズはない!」とムキになって色々奇怪な言語を考案していったのを覚えています。今思えば、あんな砂を食むような無味乾燥なテクスト(しかも正直個人的な興味の対象でもなかった)を素材に、右も左もわからない一年生を惹き付けたのですから、教育者として極めて優秀な先生でした。ちなみに、リチャード・ローティの翻訳で有名な富田恭彦先生です。
 こう考えると、ウィトゲンシュタインからラカン、という流れで結構面白い話ができるはずなんですけれど、永井均さんがちらっと触れたくらいで、あんまり思い切り論じている人はいませんね。個人的に、永井均×新宮一成対談とかやってくれたら、飛び込み営業で本売り歩いてもいいです。
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