それでも暴力は結構希望、しかし希望のすべてではない


 「差別、仲良し、喧嘩上等」で、ポジティヴなんだかネガティヴなんだかよくわからないことを書きましたが、「敢えて短い目で見る」ことについて、少しだけ補足しておきます。

 「短い目で見る」とは、判断しないで引き金を引いてしまうこと、全然後先考えずにものすごい短期的視点だけで行動してしまうことですが、そうした行動の典型的形態が、暴力です。
 ここで言う暴力とは、「言葉の暴力」やらといった、何が言いたいのかサッパリわからない高級な意味ではなく、普通に殴ったりハジいたり飛びつき腕ひしぎを極めたり、といったわかりやすい暴力です。
 お断りしておきますが、暴力のすべてが「短い目」的なものではありません。長い目で見ても効果的な暴力というのもありますが、今回は除外しておきます。
 さて、この暴力、とりわけ「ブチ切れて勢いで刺してしまう」といった類の了見の狭い暴力というのは、一般に最も低級な行動様式ととらえられ、バカとか「若気の至り」を象徴する行動と認識されています。確かに、現代日本のように治安良好でお上品な逃げ場のない社会では、この認識は間違っていないでしょう。特段「長い目で見」ないでも、最短よりちょっとだけ長いくらいの目で見れば、大抵大損です。小学生でも知っています。
 しかし、長い目で見ても全然見込みがない場合、この先どうあがいても事態が好転する望みがない場合、「長い目で見る」ことは丸々損失です。いくら待っても我慢しても、一向に状況は改善しないのですから。
 もちろん、見込みは見込みであって、未来のことは誰にもわかりません。翻せば、人がヤケッパチになる「見込みのなさ」というのは、何らかの根拠ある未来予測に基くものではなく、単に「もう見込みないよ!」と自分で諦めてしまうことです。
 こう書くと「やっぱりヤケッパチはダメ」と思われるかもしれませんが、「見込みないよ!」と諦めた挙句、実際見込みはありませんでした、ということもよくあります。というか、「何とかなるかも」と思ってジリジリ待っているうちに、何ともならずに負けっぱなしでタイムアウト、ということが少なくないのではないでしょうか。
 だとしたら、待った分だけ丸損です。
 それくらいなら、ヤケッパチでも何でも、一人二人刺しておいた方がお得だったのです。
 もちろん、社会改革など大きな理想を抱きながら、小役人一人刺しても、目標の達成には程遠いです。でも、どのみち達成できないのなら、一人くらい刺してから死んだ方が、思い残すことも少ないでしょう。まして「あの女がどうしても許せない」等の私怨であれば、一人刺せばもう目標達成です。長い目で見ても勝てる見込みがないなら、いっそ刺してから樹海にでも逃走する方が、地獄で話のタネにもなるというものです。

 さて、ここからが重要なポイントですが、こうした小規模の暴力というのは、非常に平等で公平なものです。
 「何を言っている、暴力なら身体の大きいものが得に決まっているじゃないか」「警察には勝てない」「アメリカ最強」とツッコミの嵐を受けることでしょう。
 まず、後ろの「暴力なら○○が最強」系ですが、そんなことはわかっています。ここでの暴力は、そうしたどう引っくり返っても勝てない相手を本当に倒そう、などという大それた目標は狙っていないのです。もう、負けは決定です。決定しているから、できる範囲で憂さを晴らす、というだけです。
 一方「身体の大きなものが勝つ」ですが、これは一見尤もに見えます。確かに、女・子供よりはプロレスラーの方が有利は有利でしょう。
 しかし、寝ているところをナタで切りつける等の手段に訴えられれば、どんな達人でも歯が立ちません。別段畳の上で正々堂々と決着をつけようというのではないのですから、人一人シバくとかハジくというのは、やる気一つでしょう。この「やる気」がなかなか厄介なのは事実で、度胸も要るかと思いますが、酒で勢いでもつければやってやれないことはないはずです。
 難しいとしたら、それは「殺さない程度に痛めつける」ことです。わたしの知人が「人は殺そうと思うとなかなか死なず、殺さないようにしようとするとあっさり死んでしまう」という恐ろしい名言を吐いたことがありますが、制圧し、かつ与えるダメージをコントロールする、というのは相当の技量が要求されるものです。逆に言えば、「とにかく殺せればなんでもいい」なら、チェーンソーでも振り下ろせばか弱い乙女でも十分プロレスラーと渡り合えます。実際、屈強な大男が女の果物ナイフに斃れる、という事件は年に何件かは起きているでしょう。なまじ鍛えているが故の油断もあるかと思います。
 暴力に不平等があるにしても、政治力・財力などの「社会的パワー」の不平等に比べれば、まったく取るに足らないものです。ターゲットが日本国首相にでもなれば、暴力も決して簡単ではないでしょうが、選挙で勝つよりは遥かに容易でしょう。

 繰り返しますが、ここで例えば首相暗殺に成功したとしても、その後自らの政治的主張が認められたり、社会・政治的な覇を取れるかというと、まずそういう見込みはないでしょう。ですが、見込みは最初からない、という前提のお話なので、最終的「敗北」は折込済みです。そこさえ諦めてしまえば、人は大変自由で、自分で思っているよりも遥かに強大なパワーをいつでも発揮できるのです。

 こんなに平等で便利な暴力であるにも関わらず、多くの人がやたらに「長い目で見」て、実行を手控えています。
 この人たちには、本当に「長い目で見る」ほどの希望があるのでしょうか。もしかすると、待っても上手くいく見込みなんて全然ないのに、無駄なタンス貯金をしているだけなのではないでしょうか。
 本当はもうとっくに「短い目で見」た方がマシなのに、「長い目で見」た方が得、見るべき、かのように演出するのは、伝統的な権力の仕事です。「様子を見ても頑張ってもどうにもならない」と多くの人々が気づいてしまい、ヤケッパチになられると、本当に「長い目で見」た方が得な人々、つまり長期的勝利が約束されている「持てる者」が困るからです。
 ですから、「冷静に考えたら殴るほどのことじゃない」どころか「冷静に考えたら今殴らなきゃいつ殴るんだ!」なことも、実は結構あるのです。暴力というと、「頭を冷やせ」とツッコまれるのが普通ですが、頭を冷やせば冷やすほど、暴力の方がまだいくらかマシだということがわかってしまう、大変面白い状況がここにあります。
 だからといって、「頭を冷やして、一人でも二人でもリベラルババァを撲殺せよ!」と言いたいわけでは必ずしもなく、せっかく権力も頑張って演出しているのですから、騙されるのが好きなら騙されてグダグダやってみるのも勝手と言えば勝手です。殺すも良し、殺さないも良し。要するにどっちでもいいのでしょう。最高ですね。
 もちろん、ここでヤケッパチを選ばないということは、暗黙的にリベラルババァに一票入れているわけで、金も力もないくせに「名も無く貧しい権力」への道を一歩踏み出しています。ヤケッパチ革命家はこういう「知らない間に票入れちゃった」者から攻撃すべきでしょう。なぜなら、楽だから。永田町まで行かないでも、その辺にウヨウヨいるし、防御もほぼゼロです。何事も「できることから一歩ずつ」です。というか、どうせヤケッパチなので一歩で終わっても良いと思います。
 念のためですが「殺されても文句は言えない」などと脅しをかけたり正当化しよう、というのではありません。文句くらい、いつでも誰でも言えます。言う権利がなくても言えます。生きていてかつ顎が動けばの話ですが。

 というわけで、どっちでも良くて大変お気楽な状況なので、「かかって来いや革命家! オレは断固殺さないぜ! VIVA逗子鎌倉!」という、強いんだか弱いんだかよくわかんないことを新大久保で叫ぶ方が現れても、それはそれで一興です。まぁ、どっちでもいいことを「殺しちゃダメ」やら「殺さない方が得」かのように喧伝し、自分でも信じ込んでいるお上品な方々については、上履きにサソリを隠しておくくらいの可愛いイタズラはやってみたいですけれどね。
 本当に腹黒くて計算尽くでやっている「権力者」については、個人的にはむしろ好感を持ちますが、そういうマンガみたいな「古き良き権力者」は、ポストモダン的支配の元ではかなり数が少なくなっているのではないでしょうか1。佐渡島のトキ保護センターにでも入れて守ってあげないと可哀想なくらいです。

 ついでに言えば、死後の生命への強い信仰があれば、ヤケッパチ力は更に増強されます。
 もちろん、当該ヤケッパチが死後に対してプラスに働くような信仰でなければ意味がありませんが、個人については「負け決定」と諦めて大義のために一人一殺、というのは、大昔から受け継がれている闘争手段です。どうせヤケッパチなら、大義に一票入れられる方がヤケッパチなりに気持ちが良いでしょう。
 死後への信仰というのは、「死後を信じることで生が変わる」といのが実体ですから、ぶっちゃけな話、死んだら塵になって意識も何も残らない、でも全然問題ありません。今信じていれば一緒です。薄々疑いの気持ちが芽生えているくらいでも、まだ有効です2。もちろん、わたしは一ミリの疑いなく信じています。
 当たり前ですが、別段この信仰は「テロ」を称揚するものではありませんし、一般的には寧ろ諌める方向に働く場合がほとんどでしょう。いずれにせよ、信仰の有無でいざという時の行動力・決断力に格段の差が生じてきます(だからといって、パスカル的な信仰擁護を支持するわけではありません。セコくてカッコ悪いので)。

 もう一つだけ、大切なことを付け加えます。
 上で「過剰に長い目で見てしまう」ことが権力の罠であるかのように書きましたが、これは理由のすべてではありません。権力にすべてを帰してしまうと、パラノイア的陰謀言説と紙一重な、弱い防衛的思想へと堕してしまいます。権力は万能でも無敵でもありません。むしろただひたすらに一貫性を持たず、それゆえに無敵であるかのような幻想を形成させるのが、権力のトラップなのです3。ですから、何でも権力が裏で操っているかのようにイメージしてしまっては、それこそ「無名の権力」の思う壺です。正確には、誰も思ってもいない壺に勝手にハマってしまいます。
 本当のことを言えば、「つい長い目で見てしまう」ことの多くには、さしたる理由などありません。
 尋ねれば誰でもアレコレと理屈を捏ねるでしょうが、そんなものは後付けの防衛的合理化です。「親兄弟に迷惑がかかる」なども言い訳でしょう。
 では、なぜ刺さないのか。
 ぶっちゃけ、面倒くさいからです。
 前のエントリで触れた「うっかり引き金を引きそびれてしまう」類です。
 暴力がいかに公平・平等であっても、「よっこいしょ」と腰を上げる程度の気合は要ります。その気合がダルいのです。
 言わば「横着」がヤケッパチ暴走を防いでいるのです。
 横着をナメたらいけません。
 東海村で臨界事故が発生した時、亡くなった作業員の方が搬送中に「横着した・・」と呟いた、という報道がありましたが、横着で核分裂だって起きてしまうのです。
 人類の歴史とは、横着と惰性でズルズルやってきた積み重ね、と言っても過言ではないです。いや、過言ですかね。そんなに過ぎてもいないと思うのですけれどね。
 横着とは何でしょうか。
 やろうとしたことをやらないでグダグダしているのが横着ですから、これは人の意志とは言えません。
 神の意志です。
 暴力はヤケッパチな人間の意志ですが、神の意志が不断に介入した結果、横着にズルズルやってきたのです。ヤケッパチに話を限れば、横着のお陰で流れないで済んだ血というのは計り知れないですから、正に神の慈愛は無限です。

 暴力は希望ですが、横着も希望です。
 「もう全然見込みナシ」な状況ですら、まだ二つも大きな希望が残っています。もう、希望だらけです。あんまり希望が沢山あって、どれをとってよいやらわからないくらいです。

 世界は素晴らしい。
 逗子・鎌倉で上品なババァを無差別殺戮して自刃するのも、ゴロゴロ部屋で寝ているのも、自由自在です。

4003413814 暴力論 (岩波文庫)
ジョルジュ ソレル Georges Sorel 今村 仁司
岩波書店 2007-09-14
  1. 「もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら」参照 []
  2. 何度も書いていますが、信仰と信仰への疑いは併せて一つです。信仰とは、一定の疑いの可能性を併せ持ち、自らや他者による疑義の提起に対し防衛的否認を示す時、最も「健全」に機能するものです。以下参照。
    「神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない 」
    「奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ」
    「他人の記憶を思い出すこと、「覚え書き」を覚えていたのは誰なのか」 []
  3. 「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」参照 []