『「新約聖書」の誕生』善悪の知と永遠の命


 『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』で取り上げた加藤隆氏による『「新約聖書」の誕生』。

『『新約聖書』の誕生』 加藤隆 『「新約聖書」の誕生』 加藤隆

 ここでは、本書中にある、エデンの園の「善悪の知識の木」についての指摘から、展開を試みてみます。

 蛇にそそのかされたイブが禁じられた「善悪の知識の木」の実を口にし、エデンの園を追放されてしまうエピソードは、誰でも耳にしたことがあるでしょう。蛇との対話の中で、イブは最初、「園の中央にある木」は食べることが禁じられている、と応えます。

 ところで、この対話には誤解を招きかねないところがある。実を食べることが神から禁じられている「園の中央にある木」とは、どの木のことなのだろうか。この「園の中央にある木」については、「エデンの園」の物語の冒頭近くで神が園の整備をしている場面でつぎのように述べられている。

[神は]園の中央に命の木と善悪の知識の木を生え出させた。(二・九)

 とするならば「園の中央にある木」とは、「命の木」と「善悪の知識の木」ということになりそうである。

 しかしエデンの園の物語では、神による禁止命令が具体的に記されている。神の言葉は次のとおりである。

「あなたは園のすべての木から取って食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べないように。食べるとあなたは死んでしまう。」(二・一六-一七)

 食べてはならないのは「善悪の知識の木」の実である。したがって「命の木」の実を食べることは禁止されていない。

 エデンの園の中央には、二本の木があり、「善悪の知識の木」の実は食べてはいけませんが、「命の木」については別段禁止されていないのです。
 つまり、何とかしてエデンの園に戻ることさえできれば、「命の木」の実を食べることができるのです。
 エデンの園に戻るには、第一に人が態度を改め、第二に神が赦す必要があります。これは、先のエントリでまとめた黙示思想から「神による一方的な赦し」と重なる流れです。
 既に罪の状態にある(ダメな木の実を食べちゃった)人に対し「神が動く」としたら滅ぼす方向だけであり、何をしても無駄だけれど、神様が一方的に赦してくれることはあるかもしれない、ということです。
 本書には、母親に叱られ家を追い出される子どもの譬えが登場します。

そこで子どもは近くの遊び慣れた公園へ行って、「反省をすればよい」と考えたとしよう。そして子どもは、自分は反省したのだから母親は自分を家に入れるべきだと母親に対して主張したとしよう。母親はこの子どもを家に入れないだろう。子どもが自分の側で母親の態度を左右できると考えているようでは、まだ反省したことにはなっていない。それに犯された罪は、反省したからといって消えてしまうのではない。

 つまり、自己正当化の否定です。「正しくなりたい」のだとしても、「正しい」とされていることを実行し「正しいです」と主張しては、「正しい」ことにならないのです。
 自己正当化を避け、かつ赦される方法があるとしたら、神様が一方的に「赦します」と言ってくれるより他にありません。ションボリしている子どものところに、お母さんがやって来て「晩御飯できてるわよ」と言ってくれることです。

 このことは、そもそもの「罪」が「善悪の知識の木」の実を食べたことであることと、深く関係しています。
 「善悪の知識」とは「何が善くて何が悪いか」の知です。知れば一見「善く」なるようですが、自分が「知っている」とし、その知を元に「善い」ことをしては、自己正当化に陥ってしまいます。もちろん、知った上で悪を為せば、そのまま悪です。つまり、善悪を知ってしまうと、何を選んでも悪になってしまうのです。
 一方で、「善悪の知識」がないことは、必ずしも悪ではありません。動物は善悪を知りませんが、それ自体で悪とは言えません。むしろ人間から見ると、知らないが故に尊く純粋であるように見えることがあります(もちろん悪く見えることもある)。
 つまり、人が神から見て善であるためには、人から見た動物の位置に立つ必要があります。それだけではまだ神様から見て善とは限りませんが、神からどう見えるかは神様の気まぐれでもない限り永遠にわかりません。重要なのは、「知らない」と言うのではなく、「知って」いる者から見て「知らない」位置に立つ、ということです。

 これは非常にラカン的状況で、新宮一成先生の『ラカンの精神分析』で語られる「黄金数としての対象a」を連想します。
 神様は動物より人より偉く、これらをすべて含む< 全体>です。「神様から見たわたし」は「< 全体>にとってのわたし」とも言えます。
 < わたし>(人間)をx、< わたし>以外(動物)をyとすると、それらを含む全体(神)はx + yです。すると全体にとっての< わたし>aは、

   x 
─── = a 
 x + y

 と表せます。
 そして、このaが「人間にとっての動物」と等しくなるということは、

   x          y 
─── = ─  = a 
 x + y       x

 が成り立つということです。
 これをaについて解くと、

      √5 - 1 
a = ──── 
           2

 すなわち黄金数となります。
 黄金数は無理数、割り切れない数です。実数ですから数直線上のどこかにはあるはずですが、「ここ」と示すことのできない、一つの不可能として在るのです。

 さて、「赦し」の問題ともう一つ、大変興味深い点があります。
 神様が、善悪の木の実を食べると「死んでしまう」と言っていることです。
 神様が嘘を言うとは思えませんが、食べたイブはエデンの園から追放されたものの、死んではいません。その子孫のわたしたちも、生きています。
 つまり、ここでの「死んでしまう」とは、死の可能性を得る、「永遠の命」から追放される、ということです。
 しかし、善悪の木の実を食べていない動物も、人間と同じように死にます。ですから、死の可能性を得るとは、可能性としての死を知る、ということです。死ぬという可能性を知らなければ、永遠の命を得たも同然です。ここでも問題は「知」です。
 翻せば、命の木の実を食べることによって手に入るらしい「永遠の命」とは、可能性としての死を知らない、という状態を指すのではないでしょうか。「知らないだけで実は死ぬ」と「本当に死なない」は、「知」を持たない主体からは識別できません。そもそも「死」という概念を持っていないのですから。つまり、ここでもまた人にとっての動物のような位置に立つことが、「永遠の命」なのです。
 もちろんこれは、神様にとって「人から見た動物」のようである、ということです。四足になってワンワン言え、ということではありません。そして神にとっての、人から見た動物の位置とは、神の位置そのものに立てない以上、上の「不可能」によってしか表現でないのです。