「真のイスラーム」とタクフィール


 『イスラームと西洋―ジャック・デリダとの出会い、対話』には、主にムスタファ・シェリフの発言として、「イスラームは一部の過激派に見られるような宗教ではない、あれはイスラームの詐称である」といった内容が何度も見られます。

地中海南海岸の市民は、北海岸の隣人が自己批判の形式で、まずは政治的・宗教的過激主義はたとえイスラームの名において語っていたとしても、イスラームではない、ということを理解してほしいと願っています。あれは詐称でしかありません。ああいった憎むべき行為による最大の犠牲者はイスラーム教徒自身なのですから・・・。

たしかにイスラーム教徒の一部あるいはその名を詐称する一部の者が彷徨してはいますが、イスラーム文化は真実の方向へ進むことができることが完全に証明されているのです。

 実際、ムスリムの多くは日本や欧米で報道されているような過激なイスラミストではありませんし、こうした人々によって市井のムスリムが「迷惑している」のも事実でしょう。
 しかし、これらを「真のイスラームではない、イスラームの詐称だ」と言ってしまうことには、彼らが批判する「イスラーム原理主義」の裏返しのような一面があります。

 第一に「イスラーム原理主義」という言葉に予め織り込まれたネガティヴな含意と言葉のトリックについて考慮すべきですが、これは「『イスラーム主義とは何か』大塚和夫」「わたしが原理主義者です」等で何度も書いているので繰り返しません。
 ムスタファ・シェリフについて気になるのは、「真のイスラーム」という想定を立ててしまった時点で、「原理主義者」がトラップされている「古き良きイスラーム」(あるいはナショナリストの夢としての「ルーツ」)の轍を歩いてしまっているのではないか、ということです。過激主義者を「イスラーム詐称」と切るのは、「イスラミスト」がタクフィール(不信仰者の宣告)を下し一方的に裁くのと変わりありません。彼らは「多様性」の美辞を弄びつつ、イスラーム内における「多様性」はある意味否定してしまっているわけです。正確には、彼らの考える「多様性」に歯向かうイスラーム(だけ)は「イスラームではない」、ということです。
 だからといって、「それを越えた真の多様性を!」などと言うつもりは毛頭ありません。それでも「タクフィールで結構、どんどん切り捨てよ」というのではありません。そう言いたいですし、少なくともサヨクよりは倍ほどマシだと思いますが、もう少しだけ彼らの「矛盾」に付き合いたいのです。
 要するに、多様性とか寛容などということは誰でも言えるのです。
 イスラミストは自らのコミュニティの「多様性」を訴えるでしょうし、ベンチャー企業の求人広告にだって「色んな人がいるよ」と書いてあります。誰も「原理主義者」を「自称」はしません(わたしはしますが)。ですから、重要なのは、多様性だの寛容だの言いつつ、彼らが何を切り捨てているのか、ということです。
 「切り捨てる」にも二つの側面があります。一つは言説の上でオフィシャルに「あんなものはニセモノだ」という切り捨てです。ムスタファ・シェリフで言えば「イスラーム詐称」です。もう一つは「眼中にも入っていない」もの。語られることすらなく、本人も気づかないうちに切り捨ててしまっているものです。
 前者は「イヤよイヤよも好きのうち」、否定はしていても枠組みに取り込んでいる時点で愛に絡め取られています。後者は「好きの反対は無関心」。
 ムスリムであるシェリフがイスラームにとらわれ、過激なイスラミストに「イスラームではない」とヒステリックになるのは、当然のことです。「症状」は、彼がヨーロッパと対峙し、対話を図ろうとすればするほど際立っていきます。日頃愛国心など欠片も見せない人でも、海外に出ると「にわかナショナリスト」になってしまうようなものです。彼が「タクフィール」的振る舞いをするのは、そうして際立たせなければイスラームがイスラームでなくなってしまう、一線を越えかねないギリギリのところにいるからです。
 そうした一線の一つが、政教一致と政教分離という話題に表れます。
 フランスという国はスカーフ(ヒジャーブ)問題で知られるように、政教分離を激しく国是とする国です。日本における政教分離は、「宗教に政治への口出しを許さないが、一方私的信仰については政治は介入しない」といった程度のものですが、フランスのそれは激しく「公」を主張するものです。これは「キリスト教の長女」が共和派の勝利により脱宗教化した、というこの国の歴史に拠るものであり、国民を「作る」という共和国の価値観が反映されたものでしょう。彼らのネーションは「人工性」の強いものであり1、共和国システムにはフランス人のアイデンティティすら賭けられているのです。
 一方、イスラームは日本人の考える「宗教」と異なり、個人の私的信仰というより文化全般、政治や法もイスラームの元におく性質の強いものです。もちろん、今日では近代国家的枠組みの中で「一宗教としてのイスラーム」へと変質している部分も多々ありますが、ルーツを考えれば西洋的な近代国家と相性のよろしいものではないことは明白です。ましてフランスのような共和国主義とは、水と油です。
 アルジェリアという国は、そのイスラームがフランスに支配されていた、という複雑な歴史を持つ国で、デリダも当然のように「一宗教としてのイスラーム」を「仲良くできるイスラーム」として語っています

私たちが最優先の責務とみなすべきなのは、アラブ・イスラーム世界において政治の非宗教化という観念や、神権政治と政治の分離と言う観念を広めようとしている組織あるいは個人と連携することだと思います。

 しかし、そんなものが本当にイスラームなのでしょうか。「色々な文化があるからね」などと「寛容」のお情けで豚肉を食べないのが、ムスリムですか。根本にあるのは、「公私」を弁別できる、というヨーロッパ的な幻想です。東アジア的「泥の文明」2を生きるわたしたちは、これらがそう簡単に分けられるものではなく、人というのはグチャグチャ~と曖昧に生きざるを得ないのだ、ということを日常的に知っています。
 ヨーロッパがこうした峻別を育んできたのは、ヨーロッパこそ神権政治的文化から育ってきた世界だからです。わたしたちが「政教分離」というヨーロッパ的枠組みを輸入したところで、大して痛いものではありません。元々、それほど激烈な宗教や私的空間があるわけではないからです。
 しかしイスラームがこれに対峙する時、迫られるのははるかに激しい二者択一のはずです。その問いは「ヨーロッパのようになりたいか」という、自らのアイデンティティを揺さぶる問いでしょう。
 多分、シェリフ自身もこれを自覚しています。自覚しながら、「一宗教としてのイスラーム」を取る自分に、致し方ないとはいえ幾ばくかの罪責感を抱いているはずです。だからこそ、ことさらに「イスラーム」を叫ばざるを得ないのです。
 別段、シェリフの選択を否定しようというのではありません。しかし、彼の態度は、自分が何を選び、何を裏切ったのか、判然としないところがあります。人は何かを捨てることで生きるものです。捨てること自体を責めても仕方ありません。しかし、「ヨーロッパ」と対話する、という、あたかも「イスラーム」を代表するような場所で発言するなら、捨てたものの重みについても相応の仁義を切るべきでしょう。

 そうした選択を越えて、なお「寛容」などと言えるのか。
 そこで「寛容」と言う重みを、本当に彼らは受け止めているのか。
 それができるなら、真の勇気を備えた人物と言えますが、彼らの「対話」は大学という箱庭の中での出来事に見えて仕方がありません。

「『イスラームと西洋―ジャック・デリダとの出会い、対話』 バルバロイ、アラビア語、音楽」

イスラミスム(イスラーム主義)については、以下参照。
「『イスラーム主義とは何か』大塚和夫」

「寛容さ多様性」の欺瞞と他者性については、以下参照。
「寛容さと共存の何が問題なのか 」
「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」
「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」

「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」
「空気が読めない者、その罪状と判決」

  1. どんなネーションも「人工的」なものであり、一方フランス人だって日本人的な「風土を愛する」心は持っているでしょう。あくまで相対的なものです。 []
  2. 「泥の文明」については以下参照。
    「webは「砂の文明」である」
    「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺」
    「『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ」 []