『第三の脳 皮膚から考える命、こころ、世界』傳田光洋


 「『脳は存在しない』くらい言ってみる」のはてブで、ニーとホープのmassunnkさんが素晴らしいコメントを付けてくれています。

脳だけでものを考えようとする発想がわからないんだよなー末端あっての脳なのに。皮膚とかさ。ヒフヒフ。

 これに対しては「まったくその通り! 脳トレするより筋トレしろ!」という主旨を該当エントリに追記してあるのですが、この流れでmassunnkさんが紹介してくれたのが傳田光洋さんの『第三の脳』。

『第三の脳―皮膚から考える命、こころ、世界』 傳田光洋 『第三の脳―皮膚から考える命、こころ、世界』 傳田光洋

 スキンケアオタクとしては見過ごせない!と思い早速読んでみたのですが、脳・こころ・進化系の本として面白いだけでなく、胸がギュギュギュ~とされる切ない本でした。話題としてはどちらかというと理系男子ノリなのですが、文体も本の雰囲気も「優しい」空気に満ちていて、行間から赤外線ストーブのような温かみが感じられるのです。
 J.C.リリー1やテンプル・グランディン2など、皮膚の話題で出会うとは予想もしていなかった「気になる人たち」も登場します。極私的には、出身校が一緒だったり、たたき上げの皮膚スペシャリストではない辺りも、感情移入してしまいます(格が違いすぎますが)。

 以下、特に気になったポイントをメモしておきます。

偏在する脳

 本書タイトルは、「感じ、考え、判断し、行動する指示を出す臓器」というなら、「消化器は第二の脳だ」というガーションの主張に続き、皮膚を「第三の脳」として宣言するところから来ています。
 第三章「皮膚は第三の脳である」では、わたしがこの本を手に取るキッカケになった「脳ブーム」批判も見られます。

 今や日本は「脳ブーム」です。「脳を鍛える」「脳年齢」といったタイトルが書店に並んでいます。脳科学総合研究センターの津本忠治博士は、脳のシナプスや神経細胞の働きといった細胞レベルの現象も十分にわかっていないのであるから、そのような自称「脳学者」がデータも無く行っている戯言を無視すべきか、あるいは非科学性を指摘すべきであろうか、と、ブームの危険性について述べられています
(・・・)
 ヒトにとって脳が重要な器官であることは言うまでもありません。しかし脳だけが特別な機関とはいえない。(・・・)何といっても、脳をもたない生物はたくさん存在するのですから。

 続いて示されているのが、「偏在する脳」という視点。

 脳とは何でしょう。機能的に考えた場合の脳です。ある種の認識や判断や行動命令には、脳は必ずしも必要ではない。情報処理や恒常性維持は、身体のあちこちの器官で、脳と独自にやっています。それどころか、脳の機能であると考えられてきた意識を正常に維持するには、骨や筋肉やそして皮膚が必要なのです。(・・・)あえて言えば、絶え間なく変化する環境の中で生きている存在にとって、その境界たる皮膚の方が、生命維持機能のみで考えた場合、脳より上位と言うことも可能かもしれません。
(・・・)
 「脳」という言葉を情報処理システムを内蔵する臓器と考えるなら、「脳」は全身に分布しています。

皮膚と「超能力」

 本書では、いわゆる「超能力」と皮膚の関連についても考察されているのですが(オカルト的視点ではまったくない)、「眼以外の『視覚』」と題された一節に興味深い事例があります。視覚障害者の子供たちが、眼が見えないにも関わらず運動会の競技をこなしていることについてです。
 この現象は通常「視覚に代わって別の感覚が発達し補っている」と説明されるわけですが、不思議なことに、生徒たちにハチマキをさせると途端にコースを認識できなくなり、競技そのものができなくなってしまった、というのです。

博士が彼らに聞くと、うまく説明できないが、額、つまりおでこでモノを「見て」いるので、ハチマキされると「見えなくなって」困ると言うのだそうです。

 この現象について、いくつかの解釈が慎重に提示されるのみなのですが、「表面を覆われることで妙に感覚が鈍る」というと、武術・格闘技のことを連想してしまいます。
 わたしの乏しい経験の範囲内では、防具を付けることによる「遮断」感があります。
 防具組手を取り入れている打撃系格闘技の経験者なら誰でも知っていると思いますが、面の類を付けるとびっくりするくらい感覚が鈍ります。これには「視界がせまくなる」「防具の重み」「間合いが変わる」「呼吸しずらい」などのすぐにわかる要素があるため、「皮膚感覚」に還元することは当然できませんが、キャッチャー面のような正面が空いたものと、スーパーセーフやアルファ面のような透明プラスチックの正面ガード系で、明らかに影響の仕方が違います。
 慣れでかなり適応はするのですが、特にスーパーセーフを付けていると、「見えて」いるのに反応できない、ということが何度かありました。蹴りのモーションなどがはっきり認識できているのに、身体がついてこないでまともに食らってしまう。すごくイヤです。
 逆に反応できているときは、必ずしも「見えて」いるものではありません。スポーツ一般に、うまくいった時のことが「よく思い出せない」「説明できない」ということはよくあるでしょう。大昔に一度、先輩とのスパー中ハッと気づくとキレイにミドルをキャッチしていて、あまりの意外さにどうしてよいかわからず、そのまま床に戻してあげてしまい怒られたことがあります(笑)。
 まぁ、本当に強いヒトは、そんなこと関係なく強いわけですけれど・・・。

こころと皮膚

 スキンシップの機能、皮膚接触によって分泌されるホルモン等が語られているのですが、個人的に思い入れがあるのがハーロウの実験。「硬い針金でできたミルクが出る母サル模型」と「ミルクは出ないがふかふかのタオルでできた模型」があると、子ザルがタオルのお母さんの方を選んだ、という有名な実験です。

ハーロウの実験

 わたしがこの写真を初めて見たのは小学生の時で、カール・セーガンの『コスモス』に掲載されたものでした。大変ショックを受け、今でも写真を見るだけで涙目です。
 ミルクが出なくてもタオルのお母さんがいい。そんなの、そんなの、当たり前じゃないか! あぁ・・・。

髪は命綱

 本書末尾では「皮膚と進化」が考察され、「ヒトは毛をなくしたことで、スキンシップという新しいコミュニケーションの方法を手に入れた」という視点が提示されているのですが、その中で体毛を失った経緯についてのいくつかの説が紹介されています。

 エレイン・モーガンは、ヒトは水辺で進化したという説を掲げていて、これは近年、支持を広げているようです。彼女はまず毛のない哺乳類として、イルカやクジラなどの海洋性のものを挙げ、水中生活では毛は不要である、と指摘しています。さらに、サルからヒトへの進化の過程で起きたもう一つの変化、直立歩行もヒトの先祖が水辺で進化したと仮定すると、容易に説明できるというのです。つまり四足歩行ではまず水中で呼吸できない。一方、陸上ではサルがいきなり立ち上がって歩き出すのは力学的に困難であるが、水中では浮力のためにそれが容易である、と言うのです。
(・・・)
 ヒトでも頭には毛が残っていますが、これは子供が母親の髪をつかんで溺れないようにするためだと言う。ハゲが男に多いのは、子育てしないオスには子供が掴まる毛が必要ないためなのだそうです。

 傳田さんは公正にこの仮説の欠陥も指摘しているのですが、それより「髪は赤ちゃんが掴まるため」という下りにインパクトを受けました。 「髪は女の命」ですが、赤ちゃんが溺れないためなら「命綱」です。
 スキンケアと並んで、ヘアケアにも一層力をいれなければなりません。

 ちなみに「水辺で進化した人類」という視点は、以前絶賛した『天才と分裂病の進化論』とも共通しており、大変心惹かれます。

  1. 「『ジョン・C・リリィ生涯を語る』マッドサイエンティストの自伝」参照。 []
  2. 「『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン」「『火星の人類学者』 オリヴァー・サックス」「『我、自閉症に生まれて』 テンプル・グランディン」参照。 []

“『第三の脳 皮膚から考える命、こころ、世界』傳田光洋” への 1 件のフィードバック

  1. ピンバック: ニートホープ

コメントは受け付けていません。