『シーア派―台頭するイスラーム少数派』桜井啓子


4121018664 シーア派―台頭するイスラーム少数派 (中公新書)
桜井 啓子
中央公論新社 2006-10

 前にご紹介した酒井啓子さんの『イラクは食べる』に言及があったので、手にとってみました。なんだかこの手の「イスラーム系お手軽新書」は目につくととりあえず読んでいる気がするので(笑)、前から気になってはいたのですが、シーア派の誕生から現代イランの抱える苦悩まで、平易にまとめられた良書です。マーケットプレイスでも値段が下がらないわけです(笑)。

 こんなことを書くとムスリムからのクリスチャンからも研究者からも総叩きにされそうですが、シーア派について考えていると、キリスト教的な要素と少しだけクロスオーバーする気がいつもします。キリスト教こそ一枚岩どころか自民党状態なので、本当に断片的なイメージに過ぎませんが、始点にあるのがある意味「負け」、マイナスであること、フサインを見殺しにしてしまったことへの悔恨、「隠れイマーム」という二元的要素等が、原罪概念やサンボリックなものの抽象とかぶって見えるのです。イマームの肖像画など、「偶像」と取られかねない要素についても、スンナ派よりは寛容な傾向があるようです。
 フサインというのは三代目のイマームで、預言者の孫にあたるのですが、クーファの民に請われてウマイヤ朝に反旗を翻す決意を固めます。しかしその動きを察したウマイヤ朝の二代目カリフ ヤズィードに先回りされ、カルバラーの地で水源を断たれ劣勢な戦いを強いられた挙句、殺されてしまいます。クーファからの援軍は最後まで現れませんでした。シーア派ではこの事件を悔いるアーシューラーという祭日が特別な意味を持っています。
 極めてナイーヴではありますが、預言者を見殺しにすることから始まったキリスト教思想をつい連想してしまいます。300年間は「邪教」だった初期キリスト教と、ほとんどの時代・地域で「少数派」であり、信仰隠蔽(タキーヤ)が認められるシーア派も、わかりやすい対比です。
 「少数派」の思想というのは、往々にして二元的・二重的構造を取る傾向があります。「現象としての世界」と「目に見えない真の世界」です。言うまでもなく、信仰そのものが二重のものであり、「< ない>がある」と言えることは象徴言語の根本構造なわけで、別段「少数派」に限った話ではないのですが、よりその傾向が強くなる、ということです。人間、イケイケの時は現世の向うやら「真のあるべき世界」について、それほど考えるものではありません。苦境に立たされるからこそ、己の精神を守りつつ状況を挽回すべく、思想を練り発展させるのです。
 「隠れイマーム」とは、十二代目、つまり十二イマーム派では最後のイマームであるムハンマド・ムンタザルが神によって隠され、後に再臨する、という思想ですが、真の導き手であるイマームが「隠れ」たまま、その代理representが世俗的に支配する、という発想にも、二重構造的理解が強調されています。シーア派の中心的担い手であったペルシャ人が、元々ゾロアスター教文化を引き継いだものであったことも影響しているかもしれません。イスラーム哲学の名だたる哲学者は、ほとんどペルシャ人です。
 繰り返しますが、以上はいたって素朴な連想であり、「二重構造」などと言い始めたら、大抵の思想が可能的なものと現実的なものの区別から成り立っています。物事深く考えること自体、負け犬の仕事だというなら、それはそれで一理ある気もしますが・・。

 もう一つ、現代イランについて気になっていることは、政教一致的支配の行き詰まりです。イラン・イスラーム革命は大衆的支持を得た真の民衆革命であったと思いますが、そこで実現された「イスラーム法学者の統治」というシステムは、必ずしも夢見られていた通りのものではありませんでした。イスラーム法学者の中にも、この制度に批判的な方が沢山いるにも関わらず、政教一致の実現のせいで、政教一致に賛成しない「教」の意見までもが圧殺されてしまった、という矛盾がここにあります。
 こうした現実はイランの人々にも見えていて、当初の厳格な政教一致は少しずつ崩れつつありますし、最終的には穏健な「宗教的国民国家」に落ち着いていくのではないかと思います。初期の極端な政教一致体制は、言わば千年野党がいきなり政権を取ったが故の勢いであって、いざ政権を取ってみると余りに理想的な方針を掲げていたことに、指導者も大衆もイヤでも気付きます。重要なのは、とにかく真の革命によって政権が取られた、ということです。
 「真の革命」などと書いていく先から胡散臭いですが、少なくとも単純な独裁でも欧米の傀儡としてのお飾り王制でもないものが、例えやがては「若気の至り」と振り返られるものであったとしても、大衆的支持を備えて実現した、ということです。おそらく大局的には、それが「若気の至り」であって、妙に出来の良い取り澄ました政体ではなかったことが、民衆的記憶としてプラスに働く気がします。そういう「自分でやっちゃった感」こそが、必ずしも西洋的な教義の「民主主義」を意味しない、「民主」国家への道を開くのでは、と期待したいです。

 関係ないですが、アフマディネジャードのインタビューを見ていたりすると、こんなルパン三世のような不敵な男が大統領をやっている国の国民性とはどんなものなのだろう、と気になります。いつか必ず行ってみたい国の一つです。