愛国教育と宗教教育は全然違う


 師岡カリーマ・エルサムニーさんの『イスラームから考える』に、エジプトの「愛国教育」が批判される下りがあります。

 (・・・)「国民教育」のおかげでエジプトの文化や伝統芸能について正しい知識を持っているエジプト人など、いないと私は断言できる。
 では、実質的「愛国教育」である「国民教育」は何をもたらすのか。「エジプトはすごいんだぞ。文明の母なんだぞ」という自信を人々の心に植えつけたところで、それが実際にエジプトのためになっているか。残念ながら答えはノーだ。たとえばエジプト人の中には、日本に来て千年の歴史がある寺を見ても、感動しない人が少なからずいる。子供のときから「七千年の歴史を持つエジプトは文明発祥地である。(・・・)」と教え込まれているので、(・・・)千年と聞いただけで「ああエジプトの方が古い。エジプトの方がすごい」と自分の国への誇りを新たにするのである。

 日本人から見て鼻持ちならないばかりでなく、こんなエジプト人を「輩出」してしまって、エジプトにとっても益になるとは思えません。

文化を尊重することを教えるよりはるかに効果的なのは文化を教えることだ。この二つは区別されるべきである。エジプトの愛国教育は、結局はエジプトの文化に対する誇りだけを植えつけて、文化自体を教えることにはあまり成功していない。日本の文化の良さを自ら認識する感性を持たずに文化に対する誇りだけを教えられても、そんな愛国心は空虚な砂の城でしかない。逆に、祖国の文化の素晴らしさがおのずとわかるだけの感性と想像力と教養を育めば、それを尊重するようにわざわざ誘導する必要はない。

 それが「空虚な城」であるのは、失敗というよりは予め織り込まれたものでしょう。
 中身がカラッポであれば、中身に対する批判や内省によってハリボテの誇りが崩されることもないからです。カラッポだから、郷土と国家のすり替えにも気付かれない。
 要するに、愛国教育というのは、頭のカラッポな人々にカラッポのプライドを植え付けて、大衆の不満を誘導するための権力の方策に過ぎません。
 自らは故郷なき者であるにも関わらず、ネイションの戯言により大衆を誘導するファシストとしては、今のうちに日本国のやり方を学習しておかなくてはなりません。あ、言っちゃった。

 一方、宗教教育について、カリーマさんはポジティヴです。

神の名や大義を掲げて罪のない市民を殺害することはイスラームの教えに反すると、学校で教えなければどこで教えるのか。

 国民の大半がムスリムかコプト派キリスト教徒であるエジプトと、日本や世俗主義の総本家アメリカを簡単に比べることはできませんが、中学からカトリックの教育を受けていた養老孟司さんも、どこかで宗教教育への肯定的な意見を述べられています。「宗教にも良いところと悪いところがあるし、聖職者も人間だ。そういう『宗教慣れ』ができただけでも良かったし、宗教への免疫がないから、簡単にカルトに嵌るのではないか」といった内容だったと思います。
 わたしも養老さんと似た境遇で、周囲の一割以上はカトリック教徒という、日本にしては宗教色の強い環境で育ちました。当時は聖職者の「人間っぽさ」が不潔に思え、宗教というものに大いに反発していたのですが、今にしてみればあれが「免疫」になったのでしょう。お陰で、こんなに神様大好きなのに、なかなか「入信」の踏ん切りがつきません(笑)。

 愛国教育と宗教教育で、何が違うのか。
 大雑把に言って、祖国は選べないけれど宗教は選べる、ということです。
 本当のことを言えば、信仰だって「選ぶ」ものではなく、神様に「選ばれる」ものです。生まれながらのムスリムやクリスチャンなら、なお更でしょう。
 逆に祖国と言っても複数持っている人はいますし、そもそも「生まれ故郷」なるものが漠然としています。岩手にidentifyするのと日本にidentifyするのは全然違いますし、さらに日本と日本国、「皇国」も違います。にもかかわらず、「決定的で選べない」ものとして措定されるのが、ネイションという概念なのです。「愛国」の対象となる「国」とは、「選べない」ために想定されるのです。
 選ぶも何も実体がないのに「選べない」かのようにして郷土を国家へとつなげるネイション、本当は選べないけれど名目上は選べるフリをする宗教。似ているようで、全然違います。
 信仰というのは、最終的には神様とわたしの問題です。実際には宗教共同体というものが大いに機能しているわけですが、最後のところが一対一であることを、マトモな信仰者であれば否定できないはずです。
 一方、ネイションについて、「国家とわたしの問題だ」ということは、「公式に」否定されています。そこで仮にも「わたし」がしゃしゃり出てしまうことは、それ自体が「愛国心に乏しい」こととして、予め先回りされて封じられているのです。

 ちなみに、「選べない」ための想定物として、ネイションのさらにグロテスクな核である「人種」について、「人種は選べる」などと無茶苦茶なことを漏らしてしまったのがムッソリーニという人です1。幾多の暴虐かつ政治的にクレバーでない行いにも関わらず、このちょっとうっかりで熱い男が、わたしは結構気に入っています。少なくとも、神経質そうなヒゲのドイツ人なんかより、ずっとオトコマエです。

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「師岡カリーマ・エルサムニー『イスラームから考える』、「悪の枢軸ツアー」 」

  1. 「ムッソリーニ、人種、自由」「『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 ロマノ・ヴルピッタ」参照 []